2015年6月22日月曜日

「超法規的政治」

ネコからメールが来た。ネコと言っても猫ではない。彼の名字から付いた渾名だ。
小学校、中学校を共にした幼馴染。家は庭で繋がっていたお隣さん。

高校時代に一度か二度会ったか。彼は級長をつとめた勉強の出来る奴。こっちはどちらかと言うと落第生。彼の高校は都立でも優秀な生徒が行く学校。
こっちは「落ちこぼれの私学」。

賀状のやり取りはしていたが、直接会ってはいなかった。10年くらい前「ネコの股旅日記」という自費出版の自伝が送られてきたくらい。
そのネコと妙な縁があって「再会」した。顔を見たわけではない。メールのやりとり。そして彼はこのブログを読んでくれているらしい。

彼から来たメール。最近の政治を憂いながら安倍政治は「超法規的政治」だ言ってきた。上手い事を言うもんだ。納得だった。
解釈改憲や違憲といわずに「超法規的」。そう最高法規を無視する政治なんだから。

見覚えのある言葉だ。「超法規」。安倍の政治の系譜である清和会の福田赳夫が使った言葉だ。
バングラディッシュのダッカ空港での日航機ハイジャック事件。日本赤軍の起こした事件。
首相の福田は一部の反対を押し切って拘留中の赤軍派9人を釈放し、ダッカに向かわせた。

福田は「超法規的措置」とし、「人命は地球よりも重い」と語った。この超法規措置に反対した法相の福田一は辞任した。

その超法規的措置という言葉が超法規政治という言葉とオーバーラップする。

人命は地球より重い。たしかにそうなのだが・・・。

今度の超法規的政治。それは人命にも及ぶ。政界の師でもあろう福田赳夫が言った人命の重さ。
それが「軽くなる」可能性は大なのだ。福田の発した言葉の価値観と安倍の思考の中にある価値観はどう変わったのだろうかということ。

時代は変わった。国際情勢の変化です。変化を判断するのは我々政治家です。とかわされるのがオチなんだろうが。

安倍といい、高村といい、谷垣といい、自民党も変わったもんだ。そうつくづく思う。

“こめつきバッタ”もいい加減にしたらと。

今朝の新聞の短歌の投稿欄。
「原発をリードした中曽根康弘も集団的自衛権は認めざりしに」。
中曽根はれっきとした自主憲法制定論者だった。改憲派彼の悲願でもあった。
その中曽根をすら安倍は超えた。

国会の会期は9月27日まで延長されることになるようだ。延長を決める本会議に野党がどう対応するかはともかく。
日本国民との“約束”では無い。アメリカとの約束を成就させるために。

集団的自衛権の行使は、どんな言葉や言い回しで取り繕おうとも自衛隊員の「人命」に関わることは必然だ。

論語にある「己の矩を超えず」。それは70歳を指している言葉だが、人の道を外さない。法を犯さないという意味だ。
60歳にして矩を超える安倍・・・。

短歌欄にあったもう一句。
「自衛権どうなるかねと案じてる鏡の吾と床屋の親爺」。

安倍が通うのは美容院だからね。そんな冗談もむなしいか。

もっとやろうよ「床屋談義」「居酒屋談義」を。

ネコに会って話をしたいなと。居酒屋で。多分そうであろう“年金暮らし”。その悲哀を交えながら。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...