2015年6月5日金曜日

瓢箪から出た“意外”な駒

きのうあった衆議院の憲法審査会。そこに与野党で人選され呼ばれた憲法学者3人。

もともとは安保法制が議論のテーマではなかった。別のテーマが議題だったとう。

民主党の議員が、その場を好機と捉えたのかどうかはしらないが、今、国会で論議の的となっている安保法制、集団的自衛権行使についての見解を質した。

自公推薦の憲法学者も含め、もともとは自民党の改憲草案作りに手を貸していた憲法学者も含めて、3人とも「違憲だ」との見解を示した。

なんか突然降ってわいたような“展開”。政府与党は大慌て。
そして菅官房長官のコメント。これにはびっくりだ。

「違憲じゃないと言う学者も大勢いる。違憲という指摘は全くあたらない」ときたもんだ。
相手は長年、憲法の勉強をし、研究してきた学者。その見解を一政治家が言下に否定する。

まさにお笑い草だ。

何でも自分たちの都合のいいような第三者機関や諮問会議を作り、専門家に任せて・・・といつもそれを隠れ蓑に使ってきた人達。

まさに寝耳に水、瓢箪から駒ってことなのか。諺の本旨からは外れるから「意外な駒」と言っておこう。

予期しない展開になると真っ向からそれを否定する。指摘はあたらないって、そこまで官房長官は「勉強」してきたのかということ。

学者までも「制御」出来ると思っているのだろうか。
この一言は政権の「思い上がり」をはっきりと示したものだ。

もう餅は餅屋ではなくなったのだろう。

「違憲じゃないという学者も大勢いる」というならその名前を挙げて欲しいな。

憲法学者にも「御用学者」っているのだろうか。まったく居ないわけではなかろうが。

こと原子力に関しては、原発事故そのもの含め、反対、賛成に学者・専門家の意見が分かれていた。あの事故直後から、原子工学専門の学者や防御学専門の学者に至るまで、そして今は、その被ばく影響まで、医者も含めて、その論議は二分されていた。

だから国民はどっちの側の学者や専門家の意見を了とすればいいのかわからなかった。

大袈裟に言うなら、学者が持論を自由に述べる。それは戦後獲得してきた「民主主義」のありようの一つの姿ではないのか。

官房長官風情が反論できることでは無いはず。どこまで傲慢で行こうとするのか。

民主党推薦の小林節という教授は改憲論者だ。9条を改正しろという自論がある。それをしないで解釈改憲をするのが違憲だと言っている。

自公推薦の教授も今の安保法制論議に異を唱えたものだ。

だから、何が何でも改憲反対と言っているのでは無い学者の意見に謙虚に耳を傾けたらどうなのだろうか。

審議が行われている衆院の特別委。やがて参考人の意見聴取と言うことも有り得る。野党はその手順を執拗に求めるべきだ。

もしかしたら、予期せぬ出来事で風向きが変わってくるのかもしれない。
国会の委員会の中でも論戦を通じて安倍政権の「ボロ」は次々と出てきている。
野党が追い込めないだけだ。

そこに学者の意見が公式の場で出されてしまった。

「指摘はあたらない」なんて言い草で通るとでも思っているのだろうか。

曲学阿世という言葉がある。学者のいう事にどれくらい信を置くかは、いや、彼らへの信を失ったのは「3・11」後のこと。

やはりこの安保法制、出直し、仕切り直しにしたほうが賢明なんじゃないかな。
多分、国民の間での戸惑いだって多くあるのだから。

「緊急事態」が明日に迫っているわけじゃないのだから。

「穏やか」に言ってみてるのだけど。

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