2018年7月26日木曜日

そして「オウム」はアンダーグラウンドの闇に

オウム事件で死刑を宣告されていた被告、過日の麻原以下7人に続いて残る死刑囚6人への刑が執行された。
「オウム」を語れる当事者は皆無になった。
地下鉄サリン事件はまさに地下鉄と言うアンダーグラウンドの中で起きた〝狂気“だった。
その事件の「何故」を知りたかった。
バブルがはじけ、カネに依存し、それまで持って来た「価値観のようなもの」を、生きる目標を失った“優秀な若者”がオウム真理教という“宗教集団”に加入した。彼らはそこに意味を見出したと思ったから。

社会に対して異様なコンプレックスを持ち、おそらく日本と言う国の根幹を揺るがせたいとした麻原彰晃なる人物に「自己」を喪失させ、「自己」を捨てることが自己への救済であると盲信した。

そんな“分析”しかできない。

ある意味「生きる」という事を考え続けた哲学者が「宗教」でしか自己内対話の結論が出せないとした事例と酷似すらしている。

全員の死刑。それはオウムとは何かという問題に対して答えが出せない状況を作ってしまった。

知りたかったことは結局なにも知ることは出来なかった。
「オウム」を知っている世代にとっては、あのカタストロフィーのような事件がなぜ起きたのか。
「オウム」という事件があったという事実だけでなく、なぜ「オウム」が起きたのかを知りたかった。
全てが闇の中に、アンダーグラウンドの中に消えてしまったのだ。

麻原ら7人が処刑された前夜、法相は首相の酒宴に望んでいた。大水害が予想される中、翌日の処刑を知りながら。
たとえ、救いがたい大罪人であっても人が処刑されるのを知りながら酒宴で笑顔を振りまく。その神経が全く理解できない。

25日の夜、彼女が何をしていたのかはしらない。処刑後記者会見に臨んだ彼女の目には「恐怖の光」が宿っていたような気がした。

親鸞の「悪人正機説」を持ち出すのは場違いかもしれないが、
松本サリン事件で捜査当局のリークにより“犯人”おされ、奥さんが犠牲にもなっている河野義行さんが言っている。
「オウム事件の真相そのものが明らかになっていないのに、なぜこんなに急いで執行しなければならなかったのか。国はその経緯を説明すべきだ」と語っている。

「オウム」の被害者は、殺された人たちの家族は、自分達が蒙った被害、悲劇を未消化な、納得できない澱のようなものを抱えているのではあるまいか。

国はその経緯や意図を語るまい。
平成と言う時代に起きた事件を平成のうちに片付けたい。来年は天皇退位、新天皇即位という慶事があるからだけを理由にするのかも。

死刑を執行しないで置けば、マインドコントロールをかけたとされる麻原だけで済ませておけば、あの死刑囚たちも何かを、真相に近づける何かを語ったかもしれない。

1995年は阪神淡路大震災と言うカタストロフがあった年。
2018年の7月は大豪雨災害と酷暑に見舞われた年。
天災が進行中に死刑執行と言う形でカタストロフの再現が図られた年。

朝8時、テレビは一斉に死刑執行を伝えた。朝のうちか昨夜「リーク」がされていたのだろう。3カ所の処刑場からアナウンサーが淡々とレポートしていた。
拘置所内に立ち会いとして検察官が入る車を映しながら。

死刑の同時進行ドキュメントだと思った。

オウムの闇を暴ける人はいないだろう。当事者の上祐以外は。
メディアやジャーナリズムが歴史に残る残虐な事件の真相に迫る術はもうないのかもしれない。

また一つ歴史が消された。そんな思いがする。

「オウム」とは何か、何だったのか。僕一人の思考では行き詰まりしかない。
誰かと語り合いたいとしきりに悩んでいるのだが、話に乗ってくれる仲間はいるようでいない。


「思考停止」の現代の為せる業か。

次なる“オウム”が起きることも有り得る。

2018年7月23日月曜日

サイコパスとしての安倍政権、盲従する輩

サイコパスと言う心理学用語がある。
「良心が異常に欠如している」「他者に冷淡で共感しない」「慢性的に平然と嘘をつく」「行動に対する責任が全く取れない」「罪悪感が皆無」「自尊心が過大で自己中心的」「口が達者で表面は魅力的」。
そんな性格や気質を持っている人を“サイコパス”という。
 「彼らは社会的な地位が高い傾向があり、表面的には好印象であるとも言われています」と学者は指摘する。

安倍晋三はまさにこれに匹敵する。我々はサイコパスの宰相を有しているのだ。
サイコパスとは精神病質者を指す。

通常国会が終わった。
この国会ほど議会制度を全くのように無視し、形骸化させ、立法府の存在を無意味なものとしてしまった「暴力的」なものであったことは、かつて見たことが無い。

日本の議会制民主主義は死んだ。

独裁者はそれを喜ぶ。
この国は議会制民主主義の国だ。そんな「おためごかし」の教育は止めた方がいい。明らかに安倍は「三権の長」として君臨する。

それを認めたのは「政治」を全く理解していない自公の議員だ。
強い者に傾斜することが日常にある不安感を開放してくれると錯覚している国民だ。

思考停止に陥ってしまった国民だ。

安倍政治には政治としての思想も哲学もない。
政治家に求められる「道義」を持たない。政治家に求められる「想像力」もない。

「カジノ法」はトランプの意に従っただけの「亡国法」だ。
トランプの外交に右往左往する。

積極的平和外交とは何を意味しているのか。

彼が就任時に放った言葉「美しい国」。
外形の、景観の美しい国は自然の猛威の前になすすべも無く崩れた。
それをよそに「酒宴」で笑顔を振りまいていた。笑顔はどうみても美しくなかった。

この国を博打大国にするのか。すでに「公営ギャンブル」は競輪、競馬、競艇と存在している。

パチンコ大国だ。パチンコ屋を経営しているのは北朝鮮、韓国の人間だ。
北朝鮮の大型チェーン店は、少し前まで定期船で莫大な利益を送金していた。。
その利益は「依存症」にかかった日本人が時には「サラ金」で“資金”を借り、返済不能になるまで吸い尽くされた哀れな”性“の犠牲の上に成り立っている。「カジノ」はそういう日本人を増やす。確実に。

博打で儲かるのは常に胴元だ。
その胴元には必ず暴力団が入り込む。

カタカナ語に劣等感を持つ日本人は「インバウンド」という言葉に惑わされる。
一時期、消費者物価指数を押し上げたのは中国人の爆買いという現象だ。

IR,それは地獄の一丁目かもしれない。
日本人の約7割が反対しているというのに。

酷暑の中「西日本豪雨」の被災者は疲れ、弱り果てている。
その救済策や国土改造にすぐに手を染めるのが政治だ。
砂防ダムも決壊し、砂防ダムを保存するために人の命や家屋が破壊されることを承知で「放水」する。

笑い話ではないが、自民党本部は安倍が政治家になるずっと以前は平河町の「砂防会館」と言う中にあった。皮肉と言う言葉では片付けたくない。

「モリカケ」は何ら結論を見ることなくうやむやのままにされてしまった。
参議院の議員定数はほとんど議論されることも無く審議と言う作業も無くお手盛りで自民に有利に改正されてしまった。
この国は今や人口減と言う大問題に直面している。人口が減るのに参議院議員が増える。ばかばかしい想像力の欠如だ。

有権者の三割。岩盤の様な安倍信奉者がいる。美しい国という幻の国の住人。

政治を見る限りこの国は「滅びの道」をたどっている。
「美しい」と言う言葉、姿が垣間見えるのは豪雨の被災地に赴いている「ボランティア」が流す汗だ。
彼らに、被災者に、いささかの「涼風」が吹かんことを。

エアコンの程よく効いた部屋でこれを書いている身に恥じらい感を覚えつつ。

2018年7月10日火曜日

「オウム」という暴力装置、そして、天災。

2018年7月6日、僕は朝の食事の後新聞を読んでいた。
テレビのニュース速報がオウムの浅原彰晃の死刑執行を伝え、その後、次々と死刑囚の刑執行を伝え始めた。
やがてNHKは執行に立ち会うため拘置所に入る検察官の姿を流している。
いわば同時進行のものなのだ。
執行は事前に当局からメディアに“リーク”されていたと気付く。

これまで死刑の執行は事後に法務省から発表されていた。発表では事件にもよるが“正式”に執行された死刑囚の名前は発表されなかった。
オフレコという名目でその名前が伝えられていた。

死刑とはある意味“国家による合法的殺人行為”だ。一日に7名。幸徳秋水らの大逆事件以来の出来事だ。

なぜ、この時期に一斉に。
そのことを考え続けた。それに意味づける論理は見つからない。
「元号が変わるまでに」という理由がまことしやかに言われているがそれだけなのか。
再審請求をしていた被告もいる。死刑であの事件は「過去の出来事」となり、解明されないことが残る。
オウムは常に「闇」だ。

テレビは朝から、昨夜来の記録的豪雨の被害を伝え続けていた。その中での速報。
二つの大ニュースにテレビも新聞も、そのニュースバリューをどう置くか苦吟したであろう。
死刑執行と言うことで一つの時代を終わらせたかったのか。

オウムに関するニュースはひとまず“話題”から消えた。豪雨は続いている。
死者の数も類例を見ない大災害は続いている・・・。

死刑執行には法相が判を押す。執行3日ほど前に。
以前、何人かの法相経験者に話をきいたことがある。

執行されると想像される時間、大臣室で、手を合せたと言う人もいた。
自分の判で死刑囚と雖も人の命が奪われることに悩んだ政治家もいた。

執行の前夜、翌日の執行を知っている上川陽子や安倍たちは「自民赤坂会」なる宴会を催していた。写真も撮っている。法相はピースのポーズすらとっている。
舞った解せない振る舞い。

集中豪雨の情報が続々と入っている中、首相や国会議員が宴会をやっている場合じゃ無い。いや異常なのだ。
政治家に総理大臣に必須の要素は「想像力」だ。明日への想像力だ。未来への想像力だ。
大水害の予想、それがこの国に及ぼすであろう被害への想像力。それを持ち合わせていれば宴会が出来るわけが無い。
すべがそのしのぎの場当たり的政治。そういう政治家の群。

これが今この国の姿だということを肝に銘じよう。

自民が言う「緊急事態宣言」にあたる大災害だ。
国の対応はあまりにもお粗末だ。

オウムのサリン事件があったのは1995年3月20日。その年の1月17日には阪神淡路大震災が起きている。

天災と人災の違いはあるが「暴力装置」が働いたのだ。
自我を捨てて、自我を喪失しオウムに走った若者たち。

この二つの出来事の前と後では日本人の意識の在り方が大きく変わってしまった。バブルが盛大にはじけ、行け行けどんどんの時代はほころびをみせていた。
冷戦構造が終了した。
日本という国家の在り方の根源が厳しく問われる時代にやってきた大事件だった。

2011年3月11日には東日本大震災が発生した。
原子力発電とい暴力装置が牙を剥いた。
天災と人災。
130人を超す大雨の犠牲者。濁流にのまれた街、人々の暮らし。

政治は無力なのだろう。国民の生命と財産を守ると言うその至上なる使命が機能してない。

濁流と闘い、取り戻せない日常を手にしたいとする被災者。政治に苦言をたれながらも日常の連続の中にいる我々。

彼我の差に何を語るべきなのか。
命を失った人に何を語るべきなのか。
無力だ。あくまでも無力だ。

オウムというカルト教団が、宗教団体が我々に突き付けた物は大きかった。
宗教とは何か。
オウム事件が我々に突き付けた物は、考えねばならないことは大きかった。
人類の歴史に中でも「宗教戦争」は存在した。
殉教や殺戮が繰り返されてきた。

「宗教」という根源的な物、それがもたらしたことに我々の思索はほとんど及んでいなかった。
オウムは単なる異様な殺人事件として扱われてきた。
物質的には豊かになって行く社会にあって、オウムはまさしく異様な存在であった。
その異様な社会に人はいとも簡単にのめり込んでいく。
それが「オウム」に対する一つの見方、判断だ。

裁判と言う司法の世界では「宗教」は正当な判断を下す材料では無かった。

記録的豪雨災害。甚大な被害。この後に何らかの爆破装置が起動しないことを祈る。       

八月の終わりに

地球は“異常気象”に覆われた。 日本でも熱中症という言葉が連日メディアから伝えられている。 豪雨に見舞われ、災害大国の様相を見せている。 どことなく秋の気配が感じられる昨今、連日思う事の大なる日々。 アジア大会が行われている。 アナウンサーは「日の丸を背負って」と絶叫...