2018年8月15日水曜日

平成最後の追悼の日に。

8月15日が近づくとNHKテレビは「つまらんニュース」を流す局とは思えないぐらいNHKスペシャルなど良好な番組を作り流す。
それらは僕の戦争の記憶、戦後の記憶体験と同化してくれる。

姫路大空襲で逃げ回ったこと。とうもろこし畑に身を埋めてB29の機銃攻撃から身を守ったこと。
常に枕元に置いてあった防空頭巾のこと。
空襲で家を焼かれ明石と飾磨の農家の離れに住み、ラジオから流れる玉音放送を大人に交じって聞いたこと。
常に飢えに苦しんでいたこと。

4歳の少年の記憶は時に散漫で、事象と時期がマッチしないが、東京の
世田谷の親戚の家にいた。
「空襲警報!空襲警報!」消防団の人のメガフォンからの声が聞こえる。
「灯火管制!灯火管制!」部屋の電燈を消し一部屋に集まり墨で黒くぬった紙で裸電球を覆い、飛行機の爆音を聞いていた。
やがて「灯火管制解除」の声で灯りが戻り、ほっと一息を付いていた4歳の「坊や」。

一家は東京に移った。三河島の戦災長屋で1年くらいすごした。“お化け煙突”がいつも目の前にあった。
初台に移り住むことが出来た。5歳の少年。毎日が空腹との戦いだった。
メリケン粉をこねた団子を醤油だけの鍋にちぎって入れ食べた。来る日も来る日も。姫路の親戚から揖保の糸という素麺が木箱に入って大量に送られて来た。
廊下の奥に素麺が置かれていた。来る日も来る日も素麺。

廊下の奥に戦争が立っていた。5歳の少年には素麺の木箱が“戦争”だった。
多分買い出しに出かけたのだろうか。母と上野の地下道を歩いた。
地下道には戦災孤児の浮浪児がいた。飢えた眼光が恐くて母親の着物の裾を掴んで行き過ぎた。
浮浪児狩り、狩り込み。そんな言葉を大人たちから聞かされた。

一角に集められ進駐軍か保健所か。頭から足まで噴霧器のようなものでDDTを撒かれた。
白い子供の幽霊の如く。

6歳の頃か。母は着物数着を大きな風呂敷に包み(なぜそれがあったのかはわからない。家は焼かれているはずなのに。親戚宅に預けていたものなのか)
「お米を買ってくる」と朝早く家を出た。
上野から東北本線に乗ったようだ。福島だと言っていた。
農家で着物を買いたたかれ、2升ほどの米と替え、汽車に乗った。
大宮で「臨検」にあった。ヤミ米としてコメは没収された。
夜、家にたどり着いた母は「何もなくなった」と玄関に突っ伏して泣いていた。

没収したコメは警察官が後で皆で食べると大人から聞かされた。
反権力の少年が出来上がる端緒だったような。

小学校の給食。コッペパンに脱脂粉乳。今も牛乳は飲めない。
給食費が払えず給食袋を隠すという愚挙もやった。

遊び場は近くの防空壕跡がある野原だった。何も無かった。

喪失と再起。それを子供心に理解するのは大変だった。
闇市を覗きにいった。人であふれていた。
そしていつの間にか僕は「つまらない大人」になり、後期高齢者になった。


平成最後の全国戦没者追悼式。「反省」を口にされる天皇陛下の心中を慮った。
北の丸公園には蝉が鳴いているだろう。
ふと思う。追悼の対象者は310万人の日本人だ。
しかし亡くなった人命はこの限りでは無いのだ。
日本軍の犠牲になった東南アジアの人も居る。
満州へのロシア侵攻で、落とさざるを得なかった人命がある。

戦争による多数の死者。死者の数だけ、親に捨てられた子供の数だけ”物語“がある。戦災孤児は親が死んだために生まれた悲劇だ。

正午の黙祷。開けた窓からは防災無線がいつもと同じ「郡山市民の歌」を流している。
平和の享受って何だろう。飽食の時代、食品ロスという時代は何なのだろう。
追悼者が希求していた国の姿なのだろうか。

今、毎日の食べ物には困窮していない。しかしあの頃の「飢餓感」は形を変えて僕の中にある。

「私の叔父さんは知覧から特攻で飛び立っていったの。その後の消息はわからないって」。家内がひとりごつ。

お盆の送り火。戦没者への手向けか。

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