終戦の玉音放送を聴いたのは4歳。
姫路大空襲で家を焼かれ、玉蜀黍畑で一夜を過ごし、伝手をたどっての明石か飾磨の農家の離れに暮らしていた頃だった。
ラジオから流れてくる声は聞き取りにくく、何を言っているのかよくわからない。父親が教えてくれた。
「戦争が終わったよ」と。
子ども心に感じた「解放感」。その離れから見える海はこれ以上なく青く、その手前にはヒマワリが無数に咲いていた。そして暑かった。
近親者を戦争で亡くすことも無く、過ごしていた4歳児。
いつも覚えていたのは「飢え」。もしかしたら戦争の記憶は「飢え」と共にあったような。
翌年は東京にいた。バラックの“復興住宅”。そこではなぜか秋刀魚を焼く匂いがあった。しばらくして初台に住んだ。
家はあるけれど食糧が無い。
来る日も来る日も「すいとん」。お湯に醤油をいれ、その中にメリケン粉をこねたものをちぎっていれるだけ。
姫路の知り合いから素麺が木箱で大量に送られて来た。
来る日も来る日も素麺。三食とも。
以来素麺が喉を通らなくなった。食えなくなった。
あばら骨が出ているパンツ一枚の写真が残っている。
食糧の買い出しに行く母親に付いて行った。
上野の地下道にはいわゆる戦災孤児が溢れていた。
彼らの餓えた目つきが忘れられない。
戦災孤児は東京大空襲で親を亡くした子供だけでは無い。
学童疎開に出され、終戦後東京に戻ってきた子供もいた。帰ってきたら家も無く親もいなかった子ら。
戦死の原因の半分は餓死だとも聞く。
小学校の給食。コッペパンと脱脂粉乳。同じクラスに裕福な家の子がいた。女の子。ジャムを持って来ていた。これ食べないと言われたがなぜか頑なに拒んだ。
「お米の通帳」、米穀通帳が配布された。質草になるほど貴重な物。いわば住民票かわり。
中学の時は「ネコ飯」が弁当だった。カツオ節をご飯の上に載せたもの、時折海苔の佃煮が乗せてある。
大袈裟な言い方だけど「飢え」との戦争だった。遠足の弁当はおにぎり二つ。
小学校5年の時、習字の宿題があった。「平和日本」と書いた。
担任の梅田育子先生が、その字の前で話をした。
「まだこの国は平和じゃないのよ。だからそうあってほしいと平和という言葉が使われる。本当の平和な国になったら平和と言う言葉も無くなる。そういう国にしようよね」。この話だけは今も覚えている。
高校は上板橋だった。毎朝山の手線で高田馬場を通るとき、ドアに顔を付けるようにしてその光景を見ていた。
戸山の公共職業安定所。その日の職にありつけるかどうかの長い列。
貧困・非正規雇用があった戦後・・・。
きょうの戦没者追悼式。天皇は深い反省という言葉を発した。父親のならって。
安倍はそれを言わなかった。
戦没者の遺族はだんだん減っていく。今年の最高齢は97歳。
戦争を語り継ぐ。数年後には語る人はいなくなる。
当時者の時代はなくなる。
あった事実は書物でも学べるが生の声では聴けなくなる。
「平和」と名付けられた憲法は戦争を知らない政治家によって書き換えを画策されている。
選挙の争点に憲法を。そんな世論は少ない。しかし為政者は限りなくそのことに固執する。
大学入試の勉強の為新宿図書館に毎日通っていた。毎日、憲法を読んでいた。前文を読むだけで感激があった。
その時だけは僕の心は「平和」だった。毎日のように食べていた図書館前のラーメン屋。一杯35円。満足だった。「平和の記憶」かもしれない。
2019年8月15日木曜日
“チェルノブイリ”異聞
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