去年、首相だった安倍は言った。
「完全な形の五輪にする」と。
菅は言った。「コロナに人類が勝利した証としての五輪開催」と。
どちらも“実現”していない。
コロナ以前の五輪は「復興五輪」と位置付けられていた。聖火リレーなるものを出発地を福島にしたのも福島を利用したものだ。
アンダーコントロールという嘘、“おもてなし”という意味不明の言葉。
おもてなしとはIOCの会長や副会長に多額の経費を使い、関係者に貢物をすることか。
IOCとは「カネまみれ」の貴族階級だ。
来日中のコーツ副会長の滞在経費は3千万円。バッハ会長の宿舎は一泊300万円とか。虎ノ門から新橋までトンネルを掘った。“マッカーサー道路”と呼ばれる。
菅はIOCが決めることという。尾身会長はG7で合意されたのだから言うことはないと“変身”する。
「分科会」なるものは解散したとか。
科学者の腰は引けていた。
撤回したが観客にはアルコールOK.
丸川はステークホルダーと位置付け、関係者への厚遇を明言する。
観客は入れるという。街の飲食店は8時閉店・・・。
矛盾だらけだ。
小池が過労で入院した。開催都市の司令官は不在だ。
開催地東京の感染者は、また増加となった。
五輪開催のために緊急事態宣言を解除したからではないか。
菅も小池もその取り巻きも「退路を断った」。行くも地獄、行かざるも地獄。
それぞれの政治的欲望の達成のため。
ワクチンは供給量不明で鳴り物入りで始めた「職域接種」を中止にした。
政治不在の最たるもの。
観客は一万人。50%。
関係者なるものを除いても。
選手と観客が一体となることに五輪の意義がある。
日本人だけの観客。
外国選手にとっては「アウエイ」。日本人は「ホーム」。
サッカーで散々知らされてきた。ホームとアウエイの損得。
「公平」ではないのだ。
何やら書き連ねてあらためて思う。
「歪んだ五輪」、中止すべきだ。
歪んだ構図の中に巻き込まれることを冷静に考えるべきだ。
スポーツの感動。それは「勝つ」ことではない。
「ウインブルドンの観客はグッドルーザー(悪びれない敗者)に惜しみない拍手を送る」。それがスポーツの神髄だ。どっかで見た光景がある。
女子柔道の重量級の試合。延長戦にもつれ込んだ。片方の選手が足を痛めて立てなくなった。審判から“注意”の判定。
勝者は敗者を背中におぶり、二人でマットに一礼をして去った。
女子陸上、5千メートルか。二人の選手の足が絡んで一人が転倒。走り始めていた選手は転倒した選手のところに戻り、肩を貸して起こし、歩き始めた。二人は手を携えながら一緒にゴールした。
スポーツの力、感動とは「勝敗」を越えたところにある。その時の観客は総立ちで二人を、惜しみない拍手で迎え入れた。
「ホームだから多くの声援を貰えるし、有利だ」と言っていた選手がいた。おかしい。
外国からの観客は容れない。観客は日本人だけ。それでも勝に拘るのがいいのかどうか。
同じ条件で競い合うのが五輪のせいしんではないのか。
1964年10月10日の空に思いを馳せる。空は澄んでいた。
2021年の空はどんな色をしているのだろうか。
多額の放映権料で左右される。オフィシャルスポンサーのご意向を受け入れ厚遇する
東京五輪は歴史上に多くの汚点を残した。
日本人の“美学”はそれを許せないはずなのに・・・。