きのう、大間の「あさこハウス」のことを思い出して書いた。原発に自分の土地を売らないと決めたあさ子さんは、多くの嫌がらせを受け、村八部にもされた。しかし、自分の信念は変えなかった・・・。
「たった一人の反乱」。そんな言葉が思い浮かんだ。数十年前に書かれた丸谷才一の小説のタイトル。その本のことを思い出した。でも、残念なことにその本は書架に無い。散逸されてしまった本の一冊。
「3・11」後、ずいぶん本を買った。いわば手当たり次第にという状態で。もちろん震災関連の本であり、原発関連の本であり、この国を読み解くための本であった。そして、ジャーナリズムの在り様をめぐる本・・・。乱読。まさに、分不相応な出費。
あれ以降、今に至るまで、ボクのこころに生まれた“空洞”、不安定な精神構造。それを埋めるために、しばしば文学に逃避した。しようとした。「3・11」以降に書かれた文学作品にはそれを埋めるものが無かった。渇きを潤わしてくれない・・・。そんな文学に出会えない。
いきおい、「古書」に頼ろうとする。記憶にある本。しかし、それは無い。後悔する。何があっても、邪魔であろうとも、本はとっておくべきものだったのだ。
並べられた書架の本の背表紙を見るだけでも、そこには思考のヒントがある。埃をはたいて数ページ繰るだけでも埋められるものがある。空白の時間も埋まる・・・。はずだったのだが・・・。
「たった一人の反乱」。たしか、高級官僚が民間に天下りを余儀なくされ、その会社や家庭の中での数々の葛藤。ダリの「壊れた時計」をも登場させ、自らの精神世界を保とうとする主人公。それは、作者そのものだったような。
たった一人の反乱。それは、いま問題とされている「いじめ」にも通ずるものがあるような。
反原発集会。それを“反乱”と呼ぶのは、相応しく無いかもしれないが、今、この国で起きている“反乱”。それは、コップの中の嵐ともメディアは揶揄するが、おしなべて“群をなして”いる。
一人ではなく、群れで、今の社会事象が語られる。そして、都会で「たった一人」だと思っていた人も“群”の中に身を置くことで、安堵感を覚えている。
「群衆の中の孤独」。そんな観念は今は持ち合わせていないような。
原発から避難した人たち。自主避難とやらをした人達。たった一人というケースは稀だ。避難者同士で群れをなしている。
どこかに帰属したがる。組織化したがる。同憂の人たちと集うことの安堵感・・・。
たった一人の反乱。至難の業なのだ。川内村に漠原人村を作った風間さんという人は、さしずめ、その一人だったのかもしれないが。周りから見れば“奇人”だった。
反原発集会は、もっともっと膨れ上がっていくかもしれない。それが結果をもたらすかどうかは別にして。
大間の「たった一人の反乱」の方が、与えた影響が大きかったようなきがするのだが。歴史上にも、そんな人がいたような気もするのだが・・・。
2012年7月31日火曜日
2012年7月30日月曜日
「三里塚闘争」と「反原発集会」
三里塚闘争。成田国際空港の建設地として浮上した、成田市の三里塚地区と芝山地区を“現場”にして繰り広げられて空港建設反対闘争。農民対国家権力。そこに組織化された全共闘など各セクトが入り混じり、延々と続いた闘争、“武力闘争”。そして、“一坪地主”というものが生まれた。
まだ在るであろう空港敷地内の、反対闘争のシンボルだった“団結小屋”。
とにかく空港は完成し、反対闘争で多くの人が血を流したという歴史は、過去のものになり、成田空港は海外に行く人たちで賑わい、この国の繁栄をそのまま反映しているかのような。
反対闘争の真っただ中、メディアに関わる大きな事件があった。TBSの取材クルーが反対派の角材をその車両に積んで運んだ事件。
その詳細は“当事者”でない以上、つまびらかにしないが、関わったTBSの人たちは皆、未だテレビが黎明期だった頃、テレビについて熱い思いを持っていた人たち。
反対派に“協力”することによって、反対闘争の“本質”に、より迫れると思っていたのかもしれないが。
彼らの彼女らのほとんどがTBSを去り、テレビマンユニオンという番組製作会社を作ったり、そこからも去ったり・・・。
安保闘争の時には無かった“メディアの立ち位置”が、はしなくも露呈された。
農民は、反対派は「敗れた」。空港は建設され、拡充されていった。反対派の拠点だったところはことごとく無くなった。反対運動も無くなった。
ただ一つ残された空港の敷地内にある団結小屋・・・。
青森県大間にある「あさこハウス」が重なる。大間原発建設に反対し、自分の農地を売らなかった熊谷あさ子さん。
その土地と自然を大事にしていれば、何があっても生きていける。原発という危険なものを将来に残すわけにはいかない。いくら金を積まれても土地は売らない。彼女の信念。イデオロギーでは無い。そして「あさこハウス」は、今も原発建設予定地の中の草むらの中に立っている。
成田闘争。その現場は三里塚。空港建設資材搬入阻止が、物理的阻止、抵抗が闘争そのものだった。
4か月ほど前から始まった官邸前の反原発デモ。大きなスローガンは大飯原発再稼働阻止、反対。大飯は反対運動の拠点にはならない。それを決めた政権に対しての抗議だから。
回を追うごとに参加者は増えている。メディアもそれの取材に、積極的に“参戦”している。そして・・・。万を越える人達が集まった中に身を置く。参加者の声を聞く、その雰囲気を肌で感じる。そこで感じたことを書く、喋る。
おのずから伝え方には“方向性”が出来てくる。
反原発集会を否定などするものではない。原発はいらない。それはここ福島の地に身を置いていれば、そこで国のありようを考えれば、原発再稼働などというのはもってのほかである。
しかし・・・。その集会やデモの様子を伝えるメディアの筆の運びや言辞には“違和感”を覚える。何かが違うのだ。その何かをあらためて考えなくてはならない。立ち位置を「フクシマ」に置いて・・・・。
闘争の中身も違う。“武力闘争”でももちろん無い。組織化されたものでもない。火炎瓶は飛ばない。角材も無い。様相はまれで違う。
三里塚のキーワードが「農地農民」であったとすれば、官邸前や国会を取り囲んだデモのキーワードは何か。それらも含めて・・・。
まだ在るであろう空港敷地内の、反対闘争のシンボルだった“団結小屋”。
とにかく空港は完成し、反対闘争で多くの人が血を流したという歴史は、過去のものになり、成田空港は海外に行く人たちで賑わい、この国の繁栄をそのまま反映しているかのような。
反対闘争の真っただ中、メディアに関わる大きな事件があった。TBSの取材クルーが反対派の角材をその車両に積んで運んだ事件。
その詳細は“当事者”でない以上、つまびらかにしないが、関わったTBSの人たちは皆、未だテレビが黎明期だった頃、テレビについて熱い思いを持っていた人たち。
反対派に“協力”することによって、反対闘争の“本質”に、より迫れると思っていたのかもしれないが。
彼らの彼女らのほとんどがTBSを去り、テレビマンユニオンという番組製作会社を作ったり、そこからも去ったり・・・。
安保闘争の時には無かった“メディアの立ち位置”が、はしなくも露呈された。
農民は、反対派は「敗れた」。空港は建設され、拡充されていった。反対派の拠点だったところはことごとく無くなった。反対運動も無くなった。
ただ一つ残された空港の敷地内にある団結小屋・・・。
青森県大間にある「あさこハウス」が重なる。大間原発建設に反対し、自分の農地を売らなかった熊谷あさ子さん。
その土地と自然を大事にしていれば、何があっても生きていける。原発という危険なものを将来に残すわけにはいかない。いくら金を積まれても土地は売らない。彼女の信念。イデオロギーでは無い。そして「あさこハウス」は、今も原発建設予定地の中の草むらの中に立っている。
成田闘争。その現場は三里塚。空港建設資材搬入阻止が、物理的阻止、抵抗が闘争そのものだった。
4か月ほど前から始まった官邸前の反原発デモ。大きなスローガンは大飯原発再稼働阻止、反対。大飯は反対運動の拠点にはならない。それを決めた政権に対しての抗議だから。
回を追うごとに参加者は増えている。メディアもそれの取材に、積極的に“参戦”している。そして・・・。万を越える人達が集まった中に身を置く。参加者の声を聞く、その雰囲気を肌で感じる。そこで感じたことを書く、喋る。
おのずから伝え方には“方向性”が出来てくる。
反原発集会を否定などするものではない。原発はいらない。それはここ福島の地に身を置いていれば、そこで国のありようを考えれば、原発再稼働などというのはもってのほかである。
しかし・・・。その集会やデモの様子を伝えるメディアの筆の運びや言辞には“違和感”を覚える。何かが違うのだ。その何かをあらためて考えなくてはならない。立ち位置を「フクシマ」に置いて・・・・。
闘争の中身も違う。“武力闘争”でももちろん無い。組織化されたものでもない。火炎瓶は飛ばない。角材も無い。様相はまれで違う。
三里塚のキーワードが「農地農民」であったとすれば、官邸前や国会を取り囲んだデモのキーワードは何か。それらも含めて・・・。
2012年7月29日日曜日
「身土不二」と「旬」と
身土不二。てっとり早く言えば、自分たちの住む土地で出来た野菜を食べるのがからだに一番良いということ。人と土は一体であるということ。そして、それは旬のものであるということ。
郡山産の野菜は美味い。福島産の野菜や果物が美味い。手に入れられる限り、地元の野菜を果物を食べる。
かつて都会人であった亭主は、野菜を美味いものとは思っていなかった。今は野菜はなるべく加工せず、調理せず。そのまま食べるのが美味いと確信に近い感覚を持っている。
きのうも、親戚筋の結婚披露宴に呼ばれ、東京へ。有名なホテル。なぜ出される料理に手が進まない。肉料理に添えられている野菜。ジャガイモや人参。味はソースの味なのだ。食材の味がしないのだ。
もったいないと言われながらも高級フランス料理を残してしまった・・・。
新幹線の車内に“電光ニュース”が流れている。「被災3県含め、生産・消費ともに震災前の水準の復帰した」というようなどっかの統計数字。鉱工業生産のことを言っているのか、流通の事を言っているのか。福島の農産物の流通は、いまだもって芳しくない。一般的には敬遠されている。
昔、オーストラリアで初めてキウイフルーツなるものを食べた。無性に美味かった。ドイツでドイツワインを飲んだ。美味しかった。
日本で同じものを買っても、あの時の感激は無い。おいしくないのだ。
食べ物は、やはり、それが作られる土地の気候風土とマッチしているのだ。過去の実感。
今朝食べた生のキュウリは美味しかった。ちょっと塩をかけて。そこには、新鮮さだけではなく、土の香りが感じられるからなのだ。
衣食同源という言葉もある。とにかく人は、いや動物でもそうだけど、土の中にいる生物もそうだけど、生きているものには食べ物が必要なのだ。食べ物が人間のあらゆるところに影響する。それは害毒がある無いの話ではない。
食べ物とからだ。食べ物と脳・・・。学者はいろんな研究をして、それを言う。
テレビでは食べ物に関する番組が盛んであり、高級レストランや有名シェフが連日のように紹介され、そのレシピが紹介される。
でも、食材がすべての基本じゃないのかと思う。多分、一流の料理人は、きっと食材にこだわっているのだろうと思う。それを見分ける眼を持っているのだと思う。
最高の「おもてなし」。それは、朝早く畑に行って採った野菜を、食卓に供することではないかと。
都会のスーパーには、一年中、ほとんどすべての野菜が揃っている。そこには野菜の「旬」が無い。米も新米が美味しいのと同じ。旬のものが一番。
だけどまだ覚えられない。何が、どの時期に“露地物”として出回るのかが。野菜にも果物にも、魚にも旬がある。
放射線汚染が盛んに言われだしてから、郡山市内でも、気にするお母さんたちはネットショッピングで、県外の野菜を購入してる人もいると聞く。それはその人たちそれぞれの“防衛本能”なのだろうが。
亭主は、平気で、郡山産や県内産の野菜を東京の兄弟には送る。「うまかったよ」。その一行のメール。飛び交う“電波”は、そのメールを田畑に落としてくれているかも知れない。旬であっても身土不二ではないかもしれないが・・・。
今夜も福島県産の枝豆に、ナスにビールだ。
郡山産の野菜は美味い。福島産の野菜や果物が美味い。手に入れられる限り、地元の野菜を果物を食べる。
かつて都会人であった亭主は、野菜を美味いものとは思っていなかった。今は野菜はなるべく加工せず、調理せず。そのまま食べるのが美味いと確信に近い感覚を持っている。
きのうも、親戚筋の結婚披露宴に呼ばれ、東京へ。有名なホテル。なぜ出される料理に手が進まない。肉料理に添えられている野菜。ジャガイモや人参。味はソースの味なのだ。食材の味がしないのだ。
もったいないと言われながらも高級フランス料理を残してしまった・・・。
新幹線の車内に“電光ニュース”が流れている。「被災3県含め、生産・消費ともに震災前の水準の復帰した」というようなどっかの統計数字。鉱工業生産のことを言っているのか、流通の事を言っているのか。福島の農産物の流通は、いまだもって芳しくない。一般的には敬遠されている。
昔、オーストラリアで初めてキウイフルーツなるものを食べた。無性に美味かった。ドイツでドイツワインを飲んだ。美味しかった。
日本で同じものを買っても、あの時の感激は無い。おいしくないのだ。
食べ物は、やはり、それが作られる土地の気候風土とマッチしているのだ。過去の実感。
今朝食べた生のキュウリは美味しかった。ちょっと塩をかけて。そこには、新鮮さだけではなく、土の香りが感じられるからなのだ。
衣食同源という言葉もある。とにかく人は、いや動物でもそうだけど、土の中にいる生物もそうだけど、生きているものには食べ物が必要なのだ。食べ物が人間のあらゆるところに影響する。それは害毒がある無いの話ではない。
食べ物とからだ。食べ物と脳・・・。学者はいろんな研究をして、それを言う。
テレビでは食べ物に関する番組が盛んであり、高級レストランや有名シェフが連日のように紹介され、そのレシピが紹介される。
でも、食材がすべての基本じゃないのかと思う。多分、一流の料理人は、きっと食材にこだわっているのだろうと思う。それを見分ける眼を持っているのだと思う。
最高の「おもてなし」。それは、朝早く畑に行って採った野菜を、食卓に供することではないかと。
都会のスーパーには、一年中、ほとんどすべての野菜が揃っている。そこには野菜の「旬」が無い。米も新米が美味しいのと同じ。旬のものが一番。
だけどまだ覚えられない。何が、どの時期に“露地物”として出回るのかが。野菜にも果物にも、魚にも旬がある。
放射線汚染が盛んに言われだしてから、郡山市内でも、気にするお母さんたちはネットショッピングで、県外の野菜を購入してる人もいると聞く。それはその人たちそれぞれの“防衛本能”なのだろうが。
亭主は、平気で、郡山産や県内産の野菜を東京の兄弟には送る。「うまかったよ」。その一行のメール。飛び交う“電波”は、そのメールを田畑に落としてくれているかも知れない。旬であっても身土不二ではないかもしれないが・・・。
今夜も福島県産の枝豆に、ナスにビールだ。
2012年7月28日土曜日
それは「見せてはけない」「見せたくない」ものなのか
3・11。その日に限っても多くの人が死んだ。ほとんどが津波にのまれて。そのあともどんどん人が死んでいった。行方不明者が死者に変わった。
原発事故で避難させられた人たちの中で、多くの人が死んだ。
死者は1万8771人。関連死1600人余り。今の数である。
津波で亡くなった人達・・・。誰も、その地に、その現場にいた人以外、死者、死体、遺体を見ていない。その関係者や遺族、警察官や自衛隊、捜索にあたった人たち以外は。
家族に友人に看取られての死。あえて、それを「整えられた死」と呼ばせてもらう。その死者とは、自分の親や友人でも、何人も出会ったきた。
事故や災害で亡くなった人たち。あえて、それを整えられない死と呼ばせてもらう。
テレビの仕事に就いて初めて見たのは、子供の頃、若いころ、写真で戦争による死を見たことはあるが、生々しく覚えているのが、最初は三河島事故のフィルム映像だった。編集室でビューアーにかけられ、カメラマンが撮ってきたフィルムの映像。昭和37年、荒川区の常磐線三河島駅構内で起きた電車の衝突事故。140人の死者を出した大事故。映像には死者が遺体が映されていた・・・。その映像を“仕事”として見ていたような記憶がある。自分自身にとっての「死」ではなかった。
昭和38年11月にあった神奈川県鶴見の電車衝突事故。鶴見事故。当時、遊軍記者だった新米。カメラマンと照明さんと3人で現場に行かされた。夜中到着。肩にはデンスケという録音機を担いでいた。カメラマンがカメラを構える。もちろん今のようなVTRカメラではない。手巻きのフィルモというカメラだったと。
照明さんがバッテリーライトを暗がりの中でつける。そこに浮かびあがるおびただしい死者、遺体の数々。照明が消えた。彼はその光景を見て吐いて動けなくなっていた。カメラマンに怒鳴られ、ボクがライトを持つことに。いきなり足が踏む、柔らかい感触。ライトを思わず向ける。それは切断された人間の足・・・。
カメラマンは撮り続ける。レンズを通して現場を見ている。ボクは肉眼で見ている。その現場にどれくらいの時間いたのか。どんな光景だったのか。今となってはよく覚えていない。
あの足の感触だけは残っている。あの時カメラマンが撮ったはずの遺体は一切放映だれていない。
近くの民家を訪ね、「前線本部」を作るべく交渉した。電話を借りねばならないし。そこに何日いたのかも覚えていない。朝になって現場に行った時には遺体はかなりどこかに安置されているような気配だったが・・・。
3・11後、時々、この時の光景が夢に浮かぶ・・・。何十年も記憶の彼方にあった光景が。
去年の秋、東京でテレビ時代の“同窓会”のようなものがあった。
久々の再会。その中に、偶然、今はいわきで一人でプロダクションをやりカメラマンをしている先輩と会った。
彼は、3・11後の映像をたくさん撮ったという。
彼が、やはりカメラマンだった人と議論していた。小耳にはさむと「なんで、テレビも新聞も遺体を載せないのか」という議論。それに交ざりたくて席をいそうする途中、別の誰かに声をかけられ、そこで話をしているうちに、カメラマン二人は別の席に移動していた。
話をしたかった・・・。
新聞のコラム記事、切り取っていた記事を取り出す。
朝日新聞の南三陸支局に駐在していた、南三陸日記というコラムを書いていた三浦英之という記者の「記者有論」。
見出し。「遺体の写真 掲載しない理念が揺らぐ」。
彼は書く。無数の遺体を見た。電柱に張り付いていた遺体や、体育館の床が遺体で埋め尽くされていた。
新聞には遺体の写真が載ることはほとんどない。変わり果てた姿を掲載されたくないという故人の無念さや、遺族の苦痛、悲惨な光景を子供の見せたくないという家庭・・。
そう思っていた彼が自分の理解に疑問を呈している。それは、あるシンポジウムで「なぜ新聞は遺体の写真を掲載しないのか」と聞かれたことやネットで「遺体を見ることもまた、同じ日本人として痛みを共有することなのではないか」という意見が寄せられたことなど。
かれは今東京の国際報道部という部署にいる。かれは書く。「ここ東京で暮らしていると、あの震災が人々の間で、早くも風化し始めているように思えることがある。私は今も月に一回はあの日の光景を夢に見る。夢の中で受ける衝撃が、“忘れるな”と、私と被災地を常につなぎとめている役割を果たしている」と。
新聞協会には遺体掲載に関する取り決めはない。放送倫理規定にも明快な規定はない。しかし、カメラマンたちは撮った。それは放送はされない。
それをどうとらえるか。双方の「死」あるいは「死者」というものに対しての、誰もがこうだと断定出来ない問題である。
昨日、たまたまネットで見たブログ。名取市の市議会議員になった荒川さんという人のブログ。津波で“行方不明”になっていたというお母さんの遺体がDNAで判明し、対面したというブログ。24日に書かれたもの。お母さんの遺体は去年4月に発見されており、荒川さんもその遺体を見ていたが、お母さんだとはわからなかったといういきさつ・・・。
去年の4月の発見時の写真も見せてもらったという。妻には見るなと言ったという。
このブログを読んだのがきょうのからから亭を書くことになった直接的きっかけ。
官邸前の反原発デモの声が遠いように聞こえる。いや、それを否定しているのでは決したなく。被災3県では、今も1年4カ月前がそのまま続いているということ。
3・11前にたまたま読んだ本。「悼む人」。悼むとは・・・そういう問いかけに塾生の一人が答えてくれた。去年だが。「忘れないということです」ときっぱり。
平和の祭典の幕開けの日に、あえてその”対極”を。
原発事故で避難させられた人たちの中で、多くの人が死んだ。
死者は1万8771人。関連死1600人余り。今の数である。
津波で亡くなった人達・・・。誰も、その地に、その現場にいた人以外、死者、死体、遺体を見ていない。その関係者や遺族、警察官や自衛隊、捜索にあたった人たち以外は。
家族に友人に看取られての死。あえて、それを「整えられた死」と呼ばせてもらう。その死者とは、自分の親や友人でも、何人も出会ったきた。
事故や災害で亡くなった人たち。あえて、それを整えられない死と呼ばせてもらう。
テレビの仕事に就いて初めて見たのは、子供の頃、若いころ、写真で戦争による死を見たことはあるが、生々しく覚えているのが、最初は三河島事故のフィルム映像だった。編集室でビューアーにかけられ、カメラマンが撮ってきたフィルムの映像。昭和37年、荒川区の常磐線三河島駅構内で起きた電車の衝突事故。140人の死者を出した大事故。映像には死者が遺体が映されていた・・・。その映像を“仕事”として見ていたような記憶がある。自分自身にとっての「死」ではなかった。
昭和38年11月にあった神奈川県鶴見の電車衝突事故。鶴見事故。当時、遊軍記者だった新米。カメラマンと照明さんと3人で現場に行かされた。夜中到着。肩にはデンスケという録音機を担いでいた。カメラマンがカメラを構える。もちろん今のようなVTRカメラではない。手巻きのフィルモというカメラだったと。
照明さんがバッテリーライトを暗がりの中でつける。そこに浮かびあがるおびただしい死者、遺体の数々。照明が消えた。彼はその光景を見て吐いて動けなくなっていた。カメラマンに怒鳴られ、ボクがライトを持つことに。いきなり足が踏む、柔らかい感触。ライトを思わず向ける。それは切断された人間の足・・・。
カメラマンは撮り続ける。レンズを通して現場を見ている。ボクは肉眼で見ている。その現場にどれくらいの時間いたのか。どんな光景だったのか。今となってはよく覚えていない。
あの足の感触だけは残っている。あの時カメラマンが撮ったはずの遺体は一切放映だれていない。
近くの民家を訪ね、「前線本部」を作るべく交渉した。電話を借りねばならないし。そこに何日いたのかも覚えていない。朝になって現場に行った時には遺体はかなりどこかに安置されているような気配だったが・・・。
3・11後、時々、この時の光景が夢に浮かぶ・・・。何十年も記憶の彼方にあった光景が。
去年の秋、東京でテレビ時代の“同窓会”のようなものがあった。
久々の再会。その中に、偶然、今はいわきで一人でプロダクションをやりカメラマンをしている先輩と会った。
彼は、3・11後の映像をたくさん撮ったという。
彼が、やはりカメラマンだった人と議論していた。小耳にはさむと「なんで、テレビも新聞も遺体を載せないのか」という議論。それに交ざりたくて席をいそうする途中、別の誰かに声をかけられ、そこで話をしているうちに、カメラマン二人は別の席に移動していた。
話をしたかった・・・。
新聞のコラム記事、切り取っていた記事を取り出す。
朝日新聞の南三陸支局に駐在していた、南三陸日記というコラムを書いていた三浦英之という記者の「記者有論」。
見出し。「遺体の写真 掲載しない理念が揺らぐ」。
彼は書く。無数の遺体を見た。電柱に張り付いていた遺体や、体育館の床が遺体で埋め尽くされていた。
新聞には遺体の写真が載ることはほとんどない。変わり果てた姿を掲載されたくないという故人の無念さや、遺族の苦痛、悲惨な光景を子供の見せたくないという家庭・・。
そう思っていた彼が自分の理解に疑問を呈している。それは、あるシンポジウムで「なぜ新聞は遺体の写真を掲載しないのか」と聞かれたことやネットで「遺体を見ることもまた、同じ日本人として痛みを共有することなのではないか」という意見が寄せられたことなど。
かれは今東京の国際報道部という部署にいる。かれは書く。「ここ東京で暮らしていると、あの震災が人々の間で、早くも風化し始めているように思えることがある。私は今も月に一回はあの日の光景を夢に見る。夢の中で受ける衝撃が、“忘れるな”と、私と被災地を常につなぎとめている役割を果たしている」と。
新聞協会には遺体掲載に関する取り決めはない。放送倫理規定にも明快な規定はない。しかし、カメラマンたちは撮った。それは放送はされない。
それをどうとらえるか。双方の「死」あるいは「死者」というものに対しての、誰もがこうだと断定出来ない問題である。
昨日、たまたまネットで見たブログ。名取市の市議会議員になった荒川さんという人のブログ。津波で“行方不明”になっていたというお母さんの遺体がDNAで判明し、対面したというブログ。24日に書かれたもの。お母さんの遺体は去年4月に発見されており、荒川さんもその遺体を見ていたが、お母さんだとはわからなかったといういきさつ・・・。
去年の4月の発見時の写真も見せてもらったという。妻には見るなと言ったという。
このブログを読んだのがきょうのからから亭を書くことになった直接的きっかけ。
官邸前の反原発デモの声が遠いように聞こえる。いや、それを否定しているのでは決したなく。被災3県では、今も1年4カ月前がそのまま続いているということ。
3・11前にたまたま読んだ本。「悼む人」。悼むとは・・・そういう問いかけに塾生の一人が答えてくれた。去年だが。「忘れないということです」ときっぱり。
平和の祭典の幕開けの日に、あえてその”対極”を。
2012年7月27日金曜日
未だ「非常時」なのだ
きょうも酷暑です。暑い。昔風にいうならば、水銀柱はうなぎのぼり・・。
鰻といえばきょうは土用の丑に日。ウナギを食べる日。・・・とメディアは言う。
東京電力福島第一発電所。そこでは、毎日2,000人以上の人が働いている。その現場は、何かを作り出す、産み出すという生産性の喜びに満ちた現場ではない。後ろ向きの、廃墟と化した原子炉建屋、原子炉そのもの。そこにある爆発の残骸。それらを処理するための、非生産的な、労働だけがある場所。
過酷な労働環境。そこで働く人がいないと、後処理は出来ない。防護服に身を包み、この暑さに耐えながらの作業が続けられている。
この時期、「完全武装」で、役目をはたしているのは自衛隊員と機動隊くらいのものじゃないか。鍛えられた肉体を精神力がそれを支えているという使命感を持った・・・。
原発事故の収束。それは何を言うのか。何時、どうなってもおかしくないような2号機、4号機。汚染水を含め、いまだ放射性物質を排出しているであろうフクイチの現場。
多くの作業員は、いわゆる「下請」の作業員である。東電の協力会社に雇われた作業員である。
朝日新聞がすっぱ抜いた「鉛を使った作業員の被ばく線量隠し」。それがあったこと、それが行われていたことは事実。
元請け、下請、孫請け・・・。派遣法で禁じられている「多重派遣」。ネットで見た“内部告発”。東電社員は冷えた水を飲めるが、下請作業員にはなまぬるい水しか与えられないという話し。もしそれが事実だとしたら、1Fの東電社員幹部がちょっと気を使えば“改善”されることなのだろうが。
鉛による線量偽装。その根底にある雇用問題。ピンはね、ピンはね。あきらかにおかしな話である。あってはならない話しである。しかし、作業員がいないと原発収束はおぼつかない。出来ない。
事務職の東電社員にやれと言っても無理だ。現場の知識と経験が要求される仕事。そして、そこでしか働くすべを持たない雇用された人たち・・。
以前、原発を訪ねたときに見た光景。建屋の入り口。社員入口を協力会社員の入り口は分けられていた。同じ発電所内に入るのに入口が分けられているのか・・。あの不可思議な光景を思い出す。
「差別」という言葉では片付かない原発のありよう。もちろんそれは「平時」のことだったけど。
元請け、下請・・・。この国の産業構造には、それがどこでも通用している。いや、極論すれば、そんな雇用形態が無ければ、この国の産業構造は成り立たないのだと。建設会社でも然り。会社と「協力会社」、そ、なんとも奇妙な呼称なのだが、その持ちつもたれつの関係。会社に忠誠を誓う「業者会」。
戦後の日本を思い出す。あらためて。東京の山谷、大阪の釜が崎。ドヤ街。日雇い労働者が、きめられた場所、公共職業安定所の周りに早朝から集まり、その日の仕事をあさっていた。もしあぶれたらやけ酒飲むだけ。
高校時代、毎日通う山手線の高田馬駅近く。戸山にあった光景。毎日それを電車の窓から見ていた。
ヨイトマケの歌がうたわれていた。オッかちゃんのためならエ~ンヤコラ・・・。
日雇い労務者によって、この国の経済成長が果たされていたという事実。ピンはねくらって日給何百円の世界・・・。
ドヤ街を覗いたことがある。恐る恐る。酔ったおじさんにからまれた。「おい、あんちゃん何しに来た」と。そして一人の人が言った、ぐげんぐでんに酔っていたが。「俺たちがいないと、働かないと、明日の日本は無いんだぜ」と。
毎日見ていた日雇いの朝の光景。たった一日覗いたドヤ街の経験。それは、その後のボクの中に何らかの影響を与えている。
東北三県。被災地。そこは今でも非常時なのだ。非常地帯なのだ。でも、そこで大手を振っているのは、すべて既存の法律。
戦争中には戦時立法というのがあった。戦争のために作られた法律も数々ある。
いま、この被災地に、原発事故の現場に、それに既存の法律で対処していることのおかしさ。法律は政治家が、立法府の人間が作る。この非常時に対処する新たな法律がなにほど出来たというのか・・。
結局、何も変わっていないということ。
鰻といえばきょうは土用の丑に日。ウナギを食べる日。・・・とメディアは言う。
東京電力福島第一発電所。そこでは、毎日2,000人以上の人が働いている。その現場は、何かを作り出す、産み出すという生産性の喜びに満ちた現場ではない。後ろ向きの、廃墟と化した原子炉建屋、原子炉そのもの。そこにある爆発の残骸。それらを処理するための、非生産的な、労働だけがある場所。
過酷な労働環境。そこで働く人がいないと、後処理は出来ない。防護服に身を包み、この暑さに耐えながらの作業が続けられている。
この時期、「完全武装」で、役目をはたしているのは自衛隊員と機動隊くらいのものじゃないか。鍛えられた肉体を精神力がそれを支えているという使命感を持った・・・。
原発事故の収束。それは何を言うのか。何時、どうなってもおかしくないような2号機、4号機。汚染水を含め、いまだ放射性物質を排出しているであろうフクイチの現場。
多くの作業員は、いわゆる「下請」の作業員である。東電の協力会社に雇われた作業員である。
朝日新聞がすっぱ抜いた「鉛を使った作業員の被ばく線量隠し」。それがあったこと、それが行われていたことは事実。
元請け、下請、孫請け・・・。派遣法で禁じられている「多重派遣」。ネットで見た“内部告発”。東電社員は冷えた水を飲めるが、下請作業員にはなまぬるい水しか与えられないという話し。もしそれが事実だとしたら、1Fの東電社員幹部がちょっと気を使えば“改善”されることなのだろうが。
鉛による線量偽装。その根底にある雇用問題。ピンはね、ピンはね。あきらかにおかしな話である。あってはならない話しである。しかし、作業員がいないと原発収束はおぼつかない。出来ない。
事務職の東電社員にやれと言っても無理だ。現場の知識と経験が要求される仕事。そして、そこでしか働くすべを持たない雇用された人たち・・。
以前、原発を訪ねたときに見た光景。建屋の入り口。社員入口を協力会社員の入り口は分けられていた。同じ発電所内に入るのに入口が分けられているのか・・。あの不可思議な光景を思い出す。
「差別」という言葉では片付かない原発のありよう。もちろんそれは「平時」のことだったけど。
元請け、下請・・・。この国の産業構造には、それがどこでも通用している。いや、極論すれば、そんな雇用形態が無ければ、この国の産業構造は成り立たないのだと。建設会社でも然り。会社と「協力会社」、そ、なんとも奇妙な呼称なのだが、その持ちつもたれつの関係。会社に忠誠を誓う「業者会」。
戦後の日本を思い出す。あらためて。東京の山谷、大阪の釜が崎。ドヤ街。日雇い労働者が、きめられた場所、公共職業安定所の周りに早朝から集まり、その日の仕事をあさっていた。もしあぶれたらやけ酒飲むだけ。
高校時代、毎日通う山手線の高田馬駅近く。戸山にあった光景。毎日それを電車の窓から見ていた。
ヨイトマケの歌がうたわれていた。オッかちゃんのためならエ~ンヤコラ・・・。
日雇い労務者によって、この国の経済成長が果たされていたという事実。ピンはねくらって日給何百円の世界・・・。
ドヤ街を覗いたことがある。恐る恐る。酔ったおじさんにからまれた。「おい、あんちゃん何しに来た」と。そして一人の人が言った、ぐげんぐでんに酔っていたが。「俺たちがいないと、働かないと、明日の日本は無いんだぜ」と。
毎日見ていた日雇いの朝の光景。たった一日覗いたドヤ街の経験。それは、その後のボクの中に何らかの影響を与えている。
東北三県。被災地。そこは今でも非常時なのだ。非常地帯なのだ。でも、そこで大手を振っているのは、すべて既存の法律。
戦争中には戦時立法というのがあった。戦争のために作られた法律も数々ある。
いま、この被災地に、原発事故の現場に、それに既存の法律で対処していることのおかしさ。法律は政治家が、立法府の人間が作る。この非常時に対処する新たな法律がなにほど出来たというのか・・。
結局、何も変わっていないということ。
2012年7月26日木曜日
ビール祭りとお中元
夏本番・・・酷暑・・・。
そして夏祭りの時期です。郡山の開成山公園では、きのうから恒例のビール祭りが開催されています。広場に設けられた会場。ビール各社のブース。飲食店やその他の出店。
ステージではドイツのバンド演奏や、さまざまな音楽イベント。夜空には花火。このビール祭り。たぶん10回は数えるでしょうか。
多くの市民が集まってきます。5,000人が。もちろん、去年も開催されました。この時期に。
原発事故の“余韻“冷めやらぬ中、多くの市民がそれぞれ、“線量”を気にしながらも。
去年の光景がよみがえります。何時とはなしに、ステージ前の空間に人々が集まってきます。そして演奏に合わせて踊りまくるのです。こぶしを突き上げ、肩を組み、全身で表現している。中には泣きながら踊っている人もいる・・・。
郡山市民もいるけれど、避難してきた川内村や、富岡町の人たち。主催者が招待した人たち。故郷を追われた人たち・・・。もちろん、故郷の祭りとは全然違う祭りでしょう。
祭りは祀りに通ずる。故郷の祭りには、どこか心の浄化という意味合いもあったでしょうが。
去年の今頃。ちょうど避難所だったビッグパレットから、ようやく出来た仮設住宅に引っ越しが行われている時期でした。段ボールハウスから、まがりなりにも“住宅”へ。
踊り狂っている人の中に、見知った顔を見つけました。川内村から避難させられてきている人たち。その一家。
仮設には老夫婦二人。4畳半二間。子供や孫はそれぞれ借り上げアパートなどで。
「こういうところでもたまにやってこないとやってらんねよ」。
泣きながら踊る彼ら、彼女らの姿に涙を誘われながら一緒に飲んだビール。ほろにがい味でした。
仮設への引っ越しをちょっとだけ手伝いました。老夫婦の。ちょっとだけ。だって、持っていく物はほとんど無いのだから。生活必需品の買い出しに付き合いました。
仮設の引っ越せたからと言って特に嬉々としているわけでもなく、狭さに不平をいうのではなく。きゅうりの塩もみつまみにウーロン茶で一応乾杯。
その老夫婦。旦那のほうはビッグパレットに来た時から「酸素」を必要としていました。その酸素のボンベの確保がその一家の最大の課題でした。ビッグパレットから数回市内の大病院に入院したり。仮設に入居した時は、すこし落ち着いており、体調もいささか回復。旦那の手の届くところにおいてある住宅地図を繰りながら川内村について話を交わしました。
「ここも知り合い。こっちも知り合い」。うろ覚えの川内の光景を思い出しながら話を聞いていました。なんでも、相当大きな家に暮らしていたようです。大家族で。
この1,2カ月仮設にご無沙汰していました。その奥さんがきのう突然我が家を訪ねてきました。もう何回も来てくれてはいたのですが。
お中元を持ってです。フルーツゼリーがいっぱい入った箱。そして、また言うのです。「あの時世話になった恩は一生忘れないからね」と。特に何をしたってわけじゃないのに。
「爺さんはね、最近具合が悪くなって、南東北病院に入院した。もう、あまり喋らない」。
毎日病院へ通うのも疲れたと。あれほど元気そうだった、パワフルなばあちゃんも何かさびしそうだった・・・。
「ウチさ来てよ、夕方なら病院から戻っているから」。「今はまだ戻らないけど、やがて戻ると思う。そしたら絶対川内に来てよな」。
お中元。それをわざわざ持ってきてくれる。その律義さ。そして勝手に思うのです。お中元という日常の慣行をすることが、日常を取り戻そうとする意志の表れだと。再出発への決意表明だと。もちろん口には出しませんが。
寝たきりに近い状態の病気の旦那を抱え、ばあちゃんの苦労はつづきます・・・。
これまで貰ったお中元のどれよりもうれしかった、重みのあったお中元。
ビール祭りは今週末まで続きます。仮設や借り上げの避難した人たちも今年もきているのでしょう。明日、会場を覗きに行きます。もし、見知った彼らがいたら、一緒に飲もうと。
踊りの輪に中に混ぜてもらおうと。
そして夏祭りの時期です。郡山の開成山公園では、きのうから恒例のビール祭りが開催されています。広場に設けられた会場。ビール各社のブース。飲食店やその他の出店。
ステージではドイツのバンド演奏や、さまざまな音楽イベント。夜空には花火。このビール祭り。たぶん10回は数えるでしょうか。
多くの市民が集まってきます。5,000人が。もちろん、去年も開催されました。この時期に。
原発事故の“余韻“冷めやらぬ中、多くの市民がそれぞれ、“線量”を気にしながらも。
去年の光景がよみがえります。何時とはなしに、ステージ前の空間に人々が集まってきます。そして演奏に合わせて踊りまくるのです。こぶしを突き上げ、肩を組み、全身で表現している。中には泣きながら踊っている人もいる・・・。
郡山市民もいるけれど、避難してきた川内村や、富岡町の人たち。主催者が招待した人たち。故郷を追われた人たち・・・。もちろん、故郷の祭りとは全然違う祭りでしょう。
祭りは祀りに通ずる。故郷の祭りには、どこか心の浄化という意味合いもあったでしょうが。
去年の今頃。ちょうど避難所だったビッグパレットから、ようやく出来た仮設住宅に引っ越しが行われている時期でした。段ボールハウスから、まがりなりにも“住宅”へ。
踊り狂っている人の中に、見知った顔を見つけました。川内村から避難させられてきている人たち。その一家。
仮設には老夫婦二人。4畳半二間。子供や孫はそれぞれ借り上げアパートなどで。
「こういうところでもたまにやってこないとやってらんねよ」。
泣きながら踊る彼ら、彼女らの姿に涙を誘われながら一緒に飲んだビール。ほろにがい味でした。
仮設への引っ越しをちょっとだけ手伝いました。老夫婦の。ちょっとだけ。だって、持っていく物はほとんど無いのだから。生活必需品の買い出しに付き合いました。
仮設の引っ越せたからと言って特に嬉々としているわけでもなく、狭さに不平をいうのではなく。きゅうりの塩もみつまみにウーロン茶で一応乾杯。
その老夫婦。旦那のほうはビッグパレットに来た時から「酸素」を必要としていました。その酸素のボンベの確保がその一家の最大の課題でした。ビッグパレットから数回市内の大病院に入院したり。仮設に入居した時は、すこし落ち着いており、体調もいささか回復。旦那の手の届くところにおいてある住宅地図を繰りながら川内村について話を交わしました。
「ここも知り合い。こっちも知り合い」。うろ覚えの川内の光景を思い出しながら話を聞いていました。なんでも、相当大きな家に暮らしていたようです。大家族で。
この1,2カ月仮設にご無沙汰していました。その奥さんがきのう突然我が家を訪ねてきました。もう何回も来てくれてはいたのですが。
お中元を持ってです。フルーツゼリーがいっぱい入った箱。そして、また言うのです。「あの時世話になった恩は一生忘れないからね」と。特に何をしたってわけじゃないのに。
「爺さんはね、最近具合が悪くなって、南東北病院に入院した。もう、あまり喋らない」。
毎日病院へ通うのも疲れたと。あれほど元気そうだった、パワフルなばあちゃんも何かさびしそうだった・・・。
「ウチさ来てよ、夕方なら病院から戻っているから」。「今はまだ戻らないけど、やがて戻ると思う。そしたら絶対川内に来てよな」。
お中元。それをわざわざ持ってきてくれる。その律義さ。そして勝手に思うのです。お中元という日常の慣行をすることが、日常を取り戻そうとする意志の表れだと。再出発への決意表明だと。もちろん口には出しませんが。
寝たきりに近い状態の病気の旦那を抱え、ばあちゃんの苦労はつづきます・・・。
これまで貰ったお中元のどれよりもうれしかった、重みのあったお中元。
ビール祭りは今週末まで続きます。仮設や借り上げの避難した人たちも今年もきているのでしょう。明日、会場を覗きに行きます。もし、見知った彼らがいたら、一緒に飲もうと。
踊りの輪に中に混ぜてもらおうと。
2012年7月25日水曜日
解せない「報道」が続く
目の敵にしてマスコミ批判をやっているわけではないのですが。新聞には期待するとこ大なんですが。偏屈読者の思いをよそに、解せない報道がどうも気になって。報道の仕方って言った方がいいか。
今朝の朝日新聞。福島県に配られたもの。たぶん東京ではきのうの夕刊だったんでしょう。ネットで大騒ぎしていたから。きのう。
一面トップの大記事。覚えているおおよその見出し。
「福島原発事故由来のストロンチュウム、10都県で初確認」。こりゃ大変だ。フクイチに新たな事変があってストロンチュウム拡散と思いきや。
文科省が発表したデータ。去年の。確認された最大値は6ベクレル。
専門家の話では「ほとんど健康に影響ない」。
何を言いたいのか、伝えたいのか。推察するに文科省がやって発表したということらしい。本記の中では、これまでの核実験が頻繁に行われていた時の60分の1の数値と。
専門家とは誰かも書かれていないし、今、現在の状況にも触れられていない。
発表が遅れた文科省の言い訳が添えられているだけ。福島や宮城は計測出来ていない。
このところ、朝日は原発報道にあらためて“力”を入れてきた感あり。それは歓迎。しかし、その内容や扱い表現に感じる“違和感”。
数日前にあった県外避難している母子家庭へのアンケート調査。重い経済負担、父親と離れていることでの子供の心への影響・・・。問題点が指摘されている。
その内容に嘘はないだろう。しかし、非難の実情は、たとえば警戒区域からの避難者と郡山や福島からの避難者では違う。避難した場所でも違う。
亭主の周りにも母子避難した家庭はかなりいる。幼児を連れて避難したが、自分で調べて考えて、帰ってきた人もいる。断固、新潟にとどまっている家庭もある。一家離散を憂慮した会社が夫を神奈川に転勤させた。でも神奈川にはこない。線量が0,00いくつ高いからと妻は言う。避難した「借り上げ住宅」で新たなコミュニティーを作り、そこで行きかう“情報”を最大の物として暮らしている。旦那はひとり暮らし。もちろん毎晩外食もおぼつかない。彼も相当の精神的ダメージを被っている。休みになると疲れたからだを休める間とて無く、新潟に車を走らせる。子供といる時間が安らぐからと。
避難先に向かう旦那が交通事故死したケースも多々ある。このアンケート調査には夫の問題は触れられていない。少なくとも新潟県は借り上げ住宅は“無料”だ。記事にはその経済負担が書かれているが。
禁止用語だといわれるが、「片手落ち」の報道とも。
総理官邸前の大飯再稼働反対デモ。初めの頃はメディアはとりあげなかった。ツイッターでは「書かない、取り上げない」と大手メディアへの批判が渦巻いていた。やっとテレビや新聞が取り上げた。ツイッターでは、どこの社が来た、どこが放送したと礼賛。
新聞、テレビは言いだす。「国民世論の声だ。それに耳を貸さない政府、野田政権」と始める。
大飯原発再稼働。4号機もフル稼働。新聞は書く。「関西の電力制限は大幅に緩和される」と。それだけ。
再稼働に至るまでのあの安全性含めて、節電ムードあおっての報道ぶりは何だったのだと。
オスプレイ報道も数カ月すればどうなっているのだろう・・・。
何がネタで、そのネタをどう扱うか、どう見るのか。メディアの取材力は向上している。政治は劣化している。その劣化に見習うことのないように祈るのみ。取材力は向上しても表現方法が劣化していたのではいやはやなんとも。
蛇足のようだが・・。イチローの電撃移籍。現地のテレビレポーターが手にしているもの。それは現地の新聞。「こんなに扱われています」。新聞はテレビの小道具ではないはずだが。
オリンピック報道でも、テレビは使うだろう。新聞を小道具にして、その見出しや扱いの大小をネタに。テレビも認めている新聞の“価値”かと。
そして被災地出身、ゆかりの選手のことが、ネタになるという構図。
文句言いながら、今夜は頑張って、眠いの我慢して見るぞ。ナデシコを。
今朝の朝日新聞。福島県に配られたもの。たぶん東京ではきのうの夕刊だったんでしょう。ネットで大騒ぎしていたから。きのう。
一面トップの大記事。覚えているおおよその見出し。
「福島原発事故由来のストロンチュウム、10都県で初確認」。こりゃ大変だ。フクイチに新たな事変があってストロンチュウム拡散と思いきや。
文科省が発表したデータ。去年の。確認された最大値は6ベクレル。
専門家の話では「ほとんど健康に影響ない」。
何を言いたいのか、伝えたいのか。推察するに文科省がやって発表したということらしい。本記の中では、これまでの核実験が頻繁に行われていた時の60分の1の数値と。
専門家とは誰かも書かれていないし、今、現在の状況にも触れられていない。
発表が遅れた文科省の言い訳が添えられているだけ。福島や宮城は計測出来ていない。
このところ、朝日は原発報道にあらためて“力”を入れてきた感あり。それは歓迎。しかし、その内容や扱い表現に感じる“違和感”。
数日前にあった県外避難している母子家庭へのアンケート調査。重い経済負担、父親と離れていることでの子供の心への影響・・・。問題点が指摘されている。
その内容に嘘はないだろう。しかし、非難の実情は、たとえば警戒区域からの避難者と郡山や福島からの避難者では違う。避難した場所でも違う。
亭主の周りにも母子避難した家庭はかなりいる。幼児を連れて避難したが、自分で調べて考えて、帰ってきた人もいる。断固、新潟にとどまっている家庭もある。一家離散を憂慮した会社が夫を神奈川に転勤させた。でも神奈川にはこない。線量が0,00いくつ高いからと妻は言う。避難した「借り上げ住宅」で新たなコミュニティーを作り、そこで行きかう“情報”を最大の物として暮らしている。旦那はひとり暮らし。もちろん毎晩外食もおぼつかない。彼も相当の精神的ダメージを被っている。休みになると疲れたからだを休める間とて無く、新潟に車を走らせる。子供といる時間が安らぐからと。
避難先に向かう旦那が交通事故死したケースも多々ある。このアンケート調査には夫の問題は触れられていない。少なくとも新潟県は借り上げ住宅は“無料”だ。記事にはその経済負担が書かれているが。
禁止用語だといわれるが、「片手落ち」の報道とも。
総理官邸前の大飯再稼働反対デモ。初めの頃はメディアはとりあげなかった。ツイッターでは「書かない、取り上げない」と大手メディアへの批判が渦巻いていた。やっとテレビや新聞が取り上げた。ツイッターでは、どこの社が来た、どこが放送したと礼賛。
新聞、テレビは言いだす。「国民世論の声だ。それに耳を貸さない政府、野田政権」と始める。
大飯原発再稼働。4号機もフル稼働。新聞は書く。「関西の電力制限は大幅に緩和される」と。それだけ。
再稼働に至るまでのあの安全性含めて、節電ムードあおっての報道ぶりは何だったのだと。
オスプレイ報道も数カ月すればどうなっているのだろう・・・。
何がネタで、そのネタをどう扱うか、どう見るのか。メディアの取材力は向上している。政治は劣化している。その劣化に見習うことのないように祈るのみ。取材力は向上しても表現方法が劣化していたのではいやはやなんとも。
蛇足のようだが・・。イチローの電撃移籍。現地のテレビレポーターが手にしているもの。それは現地の新聞。「こんなに扱われています」。新聞はテレビの小道具ではないはずだが。
オリンピック報道でも、テレビは使うだろう。新聞を小道具にして、その見出しや扱いの大小をネタに。テレビも認めている新聞の“価値”かと。
そして被災地出身、ゆかりの選手のことが、ネタになるという構図。
文句言いながら、今夜は頑張って、眠いの我慢して見るぞ。ナデシコを。
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