3・11。その日に限っても多くの人が死んだ。ほとんどが津波にのまれて。そのあともどんどん人が死んでいった。行方不明者が死者に変わった。
原発事故で避難させられた人たちの中で、多くの人が死んだ。
死者は1万8771人。関連死1600人余り。今の数である。
津波で亡くなった人達・・・。誰も、その地に、その現場にいた人以外、死者、死体、遺体を見ていない。その関係者や遺族、警察官や自衛隊、捜索にあたった人たち以外は。
家族に友人に看取られての死。あえて、それを「整えられた死」と呼ばせてもらう。その死者とは、自分の親や友人でも、何人も出会ったきた。
事故や災害で亡くなった人たち。あえて、それを整えられない死と呼ばせてもらう。
テレビの仕事に就いて初めて見たのは、子供の頃、若いころ、写真で戦争による死を見たことはあるが、生々しく覚えているのが、最初は三河島事故のフィルム映像だった。編集室でビューアーにかけられ、カメラマンが撮ってきたフィルムの映像。昭和37年、荒川区の常磐線三河島駅構内で起きた電車の衝突事故。140人の死者を出した大事故。映像には死者が遺体が映されていた・・・。その映像を“仕事”として見ていたような記憶がある。自分自身にとっての「死」ではなかった。
昭和38年11月にあった神奈川県鶴見の電車衝突事故。鶴見事故。当時、遊軍記者だった新米。カメラマンと照明さんと3人で現場に行かされた。夜中到着。肩にはデンスケという録音機を担いでいた。カメラマンがカメラを構える。もちろん今のようなVTRカメラではない。手巻きのフィルモというカメラだったと。
照明さんがバッテリーライトを暗がりの中でつける。そこに浮かびあがるおびただしい死者、遺体の数々。照明が消えた。彼はその光景を見て吐いて動けなくなっていた。カメラマンに怒鳴られ、ボクがライトを持つことに。いきなり足が踏む、柔らかい感触。ライトを思わず向ける。それは切断された人間の足・・・。
カメラマンは撮り続ける。レンズを通して現場を見ている。ボクは肉眼で見ている。その現場にどれくらいの時間いたのか。どんな光景だったのか。今となってはよく覚えていない。
あの足の感触だけは残っている。あの時カメラマンが撮ったはずの遺体は一切放映だれていない。
近くの民家を訪ね、「前線本部」を作るべく交渉した。電話を借りねばならないし。そこに何日いたのかも覚えていない。朝になって現場に行った時には遺体はかなりどこかに安置されているような気配だったが・・・。
3・11後、時々、この時の光景が夢に浮かぶ・・・。何十年も記憶の彼方にあった光景が。
去年の秋、東京でテレビ時代の“同窓会”のようなものがあった。
久々の再会。その中に、偶然、今はいわきで一人でプロダクションをやりカメラマンをしている先輩と会った。
彼は、3・11後の映像をたくさん撮ったという。
彼が、やはりカメラマンだった人と議論していた。小耳にはさむと「なんで、テレビも新聞も遺体を載せないのか」という議論。それに交ざりたくて席をいそうする途中、別の誰かに声をかけられ、そこで話をしているうちに、カメラマン二人は別の席に移動していた。
話をしたかった・・・。
新聞のコラム記事、切り取っていた記事を取り出す。
朝日新聞の南三陸支局に駐在していた、南三陸日記というコラムを書いていた三浦英之という記者の「記者有論」。
見出し。「遺体の写真 掲載しない理念が揺らぐ」。
彼は書く。無数の遺体を見た。電柱に張り付いていた遺体や、体育館の床が遺体で埋め尽くされていた。
新聞には遺体の写真が載ることはほとんどない。変わり果てた姿を掲載されたくないという故人の無念さや、遺族の苦痛、悲惨な光景を子供の見せたくないという家庭・・。
そう思っていた彼が自分の理解に疑問を呈している。それは、あるシンポジウムで「なぜ新聞は遺体の写真を掲載しないのか」と聞かれたことやネットで「遺体を見ることもまた、同じ日本人として痛みを共有することなのではないか」という意見が寄せられたことなど。
かれは今東京の国際報道部という部署にいる。かれは書く。「ここ東京で暮らしていると、あの震災が人々の間で、早くも風化し始めているように思えることがある。私は今も月に一回はあの日の光景を夢に見る。夢の中で受ける衝撃が、“忘れるな”と、私と被災地を常につなぎとめている役割を果たしている」と。
新聞協会には遺体掲載に関する取り決めはない。放送倫理規定にも明快な規定はない。しかし、カメラマンたちは撮った。それは放送はされない。
それをどうとらえるか。双方の「死」あるいは「死者」というものに対しての、誰もがこうだと断定出来ない問題である。
昨日、たまたまネットで見たブログ。名取市の市議会議員になった荒川さんという人のブログ。津波で“行方不明”になっていたというお母さんの遺体がDNAで判明し、対面したというブログ。24日に書かれたもの。お母さんの遺体は去年4月に発見されており、荒川さんもその遺体を見ていたが、お母さんだとはわからなかったといういきさつ・・・。
去年の4月の発見時の写真も見せてもらったという。妻には見るなと言ったという。
このブログを読んだのがきょうのからから亭を書くことになった直接的きっかけ。
官邸前の反原発デモの声が遠いように聞こえる。いや、それを否定しているのでは決したなく。被災3県では、今も1年4カ月前がそのまま続いているということ。
3・11前にたまたま読んだ本。「悼む人」。悼むとは・・・そういう問いかけに塾生の一人が答えてくれた。去年だが。「忘れないということです」ときっぱり。
平和の祭典の幕開けの日に、あえてその”対極”を。
2012年7月28日土曜日
“チェルノブイリ”異聞
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