福島原発、4号機の燃料棒、“危険でない”燃料棒が試験的に取り出された。
燃料集合体。使用済みの高線量のものは3,000本以上もあるという。
第一原発。廃炉までには40年かかると言う。40年・・・。
田中角栄内閣が誕生したのが40年前。1972年7月7日。その日をもって、それまで、彼を追い、彼と親しみ、日夜接していた田中番記者は“解散”した。
日々の動静は官邸の番記者、総理番という、いわば政治部駆け出し記者に委ねられる。朝、晩、目白の自宅にはそれまでの田中番記者、田中派担当は行ってはいけない。内閣記者会がさだめた“不文律”“慣行”のようなもの。
ある日、官邸を早めに引き払い、事務所のある砂防会館、もちろん佐藤昭さんのいるところ。そこに立ちよったところ、総理番記者と懇談中だった。馴染みの秘書がドアを開けてくれ、中に入った。
田中角栄とそれをとりまく、まだ馴染んでいない記者達。お互いに構えるような不思議な雰囲気がその場を支配していた。
「お役御免」になったそれまでの番記者。やがて社内移動の対象になるはず。持ち場が変わるはず。他社は“敵”であり、ライバルだ。しかし、社は違っていても、お互いに芽生えた“友情”。苦楽を共にしてきたという仲間意識。
誰言うとなく、「年に一回は会おうや」。その集まりを7月7日にちなんで「七夕会」と名付けた。
最初は記者だけ。しばらくして、角さんが“引退”してから、総理大臣当時の秘書官や、田中家にゆかりの在る人もメンバーに加わった。もちろん田中家といっても真紀子でも直紀でもない。
その七夕会、今年が40回目。先日の東京行はそれに参加するため。一年ぶりに集まった仲間。九州や福島からも駆けつける。皆、それぞれ現役はとうに引退している。田中角栄が好んで使った言葉。「鬢髪霜をおい」。まさに、ほとんどが70歳代後半。年をとった・・・。しばし交わされる病気談義と健康談議。
そして勢い、政治に。当選仕立ての小沢一郎おぼっちゃまの話しから、今の政治の有り様にまで。
政治部記者後、解説委員としてNHK日曜討論の司会をやっていたヤマチャンが言う。「オレはもう、今の政治に、政治家に興味も関心も無くなった」と。
おい、それじゃ困るんだ。朽ちるまで政治を語れと。角さんをめぐる思いで話しに花はさいたけれど。そして、今、田中角栄ありせば何を叫び、何を訴え、何を為したか・・・。
少なくとも、3・11後の、この国の有り様は違っていただろう。官僚を叱りつけ、ケツを叩き、熱弁をふるい、新たな「日本列島改造論」をぶち上げ、実行させていただろうと。
たぶん、奇想天外なことまで思いついていたかもしれない。「どうしていたと思う」と問いかける。具体的な事には誰も思いが及ばない。
新潟を豪雪から救うため三国峠をダイナマイトしかけてぶっ壊せ。そんなことを真面目に言っていたあのコンピューター付きブルドーザー。もうこの呼称も死語だが。
元政治部記者だった老人集団が今の政治にすっかり冷めている・・・。その間に40年という歳月が大きく横たわっている。そして一年ぶりの邂逅の時はあっと言う間に過ぎる・・・。
廃炉まで40年。キミは40年後の福島の姿を想像できるか。
「俺は角さんの孫が決起するのを待つ。すくなくとも角さんの、まともな血をひいていると思うから。その時生きていれば、おれは新潟に駆けつける」。そう言った奴もいた。
そしてボクはおもう。まだしばし、冷めてはいるものの、岡目八目でもいい。政治を見つめ、多分、批判ばかりだろうけど、それを語って行きたいと。
2012年7月19日木曜日
“チェルノブイリ”異聞
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