2016年3月10日木曜日

「福島の教訓」・・・。

明日、また「考え続けねばならない3・11」が来る。

大上段に構えたようで僭越だが、あらためて「日本人とはなにか」ということを考える。

そしてすぐ「権威」に寄りかかろうとするその精神性を考える。

原発を巡って一つの動きがあった。大津地裁の高浜原発3・4号機停止の仮処分決定だ。
関電はすぐにでも仮処分取り消しの訴訟を起こすだろう。
決着を見るのはまだまだ時間がかかる。

この地裁の判断の中に「福島」が挙げられたことを多とする。
なぜか。
もはや原発問題は福島の現状、5年間を見ればわかるように、単たるエネルギー問題だけではないということだ。
福島の事故が奪ったものはあまりにも大きい。
それは今はやり言葉のような「コスト」ということにもつながる。

原発事故の後始末にどれだけの金がかかっているのか。すでにして13兆円ともいわれているがたぶんその正確な数字を知っている人はいないのではないかとも。

国と東電との「仕組み」はともかく、それだけ国富が失われているということ。
賠償、除染、作業員の人件費、あの巨大なプラントを、核燃料のおぞましい残骸が残っている発電所を解体するという作業・・・。

除染は今も続いている。黒いフレコンバッグは容量を増すばかりだ。
もちろん我が家の庭にも埋められている。耐用年数3年と言われた袋が。

浪江ではその仮置き場から火が出た。なぜ火が出たのか。「原因は調査中」と報道されただけでその続報には接していない。
中間貯蔵施設。鳴り物入りで用地買収に入りはしたものの、確保された用地は計画の6%にも満たない。搬入された汚染土は数%だという。

まだまだ金は注ぎ込まれるのだ。
たとえは変かもしれないが、1Fに流入する地下水の如くにだ。

原発事故以来、「専門家」という人に限りない不信感を持ってしまった。
大津地裁の判断もどこかそれに似通った部分がある。
「安全対策」に納得出来ないという点でも。

裁判所は司法の専門家の場だ。裁判員裁判ができた時の“思想”は「普通の人の感覚」を専門家の中にいれようとする試みだったはずだ。

原発問題に関して、学者の間では「素人感覚」は疎外される。専門家にすれば、稼働を認可した専門家集団の「規制委員会」にしては、顔に泥を塗られたということになるのかもしれない。

福島の現実を見れば、福島を知ろうとした人たちにとっては納得できる司法判断だと思うのだけど。

「3・11」があぶりだしたのはこの国が「無責任国家」だということだ。

そうなのだ。近代史の中で、国家的大問題について「責任」は問われてこなかった。責任を取ろうとしなかった。

「福島」がその典型だ。電力会社も、担当官庁も、学者も、もちろん政治家も。

責任を取らない国家の中で、福島の責任と原因究明がなされていない限り再稼働に疑義があるという今度の判断は全くもって「普通の感覚」なのだ。

裁判所の決定に対して「電気代が上がるから嫌だ」とインタビューの答えていた人がいた。
もし事故があれば、「電気代」どころの話ではないのだ。すでにして東電管内では“平然”と上乗せ料金が賦課されている。

日本人は福島の事故から何を学んだのか。

それが事故から6年を迎える、廃炉が終わるまでの“永遠の課題”なのだ。
そして「国」とは何なんだ。

すべて国民は個人として尊重される。憲法13条に明記されている言葉が「空語」として存在している。

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