2020年9月16日水曜日

終わりと始まり


安倍政治が終わった。菅政治が始まる。「同じ穴のムジナ」の終わりと始まり。

 

ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカが書いた詩にこういうのがある。

 

“戦争が終わるたびに
   誰かが後片付けをしなければならない
   何といっても、ひとりでに物事が
   それなりに片づいてくれるわけではないのだから

(中略)

誰かがときにはさらに
   木の根元から
   錆ついた論拠を掘り出し
   ごみの山に運んでいくだろう

   それがどういうことだったのか
   知っている人たちは
   少ししか知らない人たちに
   場所を譲らなければならない そして
   少しよりもっと少ししか知らない人たちに
   最後はほとんど何も知らない人たちに
   

(後略)

不可思議な安倍の退陣劇だった。知性も見識も国家観も持たない人が“派閥”の力で神輿を担がれ、宰相の地位を手に入れた。

高揚感の無い、総裁選だった。

記者クラブの会見で、コロナは問われたが、今も続く「原発事故」の後始末に全く無関心な政治記者の群れ。悲しい。

汚染水のタンクはあと数年で満杯だ。海洋放水出来るのか。

原発政策をどうすうるのか。質問すら無い。悲しい。

菅は何とかの一つ覚えのように、「地方、地方」と連呼する。地方を豊かにすると幻を振りまく。

「限界集落」があちこちにみられる。

「3・11」・「原発事故」で国が指摘した「地方消滅」論は現実に現れている。

「ふるさと」への帰還がかなわぬ集落がある。

 

コロナ渦で職を失った人は数知れない。

ローンでマイホームを購入したが、収入が無くなり家を手放した家族も多々ある。

 

「自助・共助・公助」、お題目が唱えられる。要は“自己責任論”が根底にある。

 

食事を満足に取れない子供たち、こども食堂。「豊かな国」ではなく「貧困な国」なのだ。「豊かさ」という幻影に惑わされ続けている。

テレビは、それが視聴率に結び付くと思ているのか「大食い競争番組」を面白おかしく作る。「爆食三姉妹」を登場させ、相撲部屋のちゃんこ料理を相撲取り以上の量を口の中に投げ込む。うな重を20人前平らげる東大生がいる。

 

その光景はこの国の民の”劣化“に重なって見える。

 

菅には宰相としての抱負経綸がみられない。安倍でも、内容はともかく、就任時には「美しい国」という世迷い語とを言っていたが。

 

昨日のうちに「閣僚名簿」はぱらぱらと漏らされ、きょうの組閣に意味はない。

 

メディアは立志伝を伝える。無意味だ。

 

田中真紀子が上手いことを言っていた。

“主婦の感覚です。安倍政権では例えば森友問題で公文書の改ざんがあったり、財務省の職員が自殺したり、でもその責任をあいまいにする嘘とはぐらかしがたくさんあって、国民の不満も募っていた。なのにそうした悪臭紛々とした生ゴミを安倍家の台所から出して、バケツに押し込める。そのふたをするのが菅政権の役割ではないかということです。”

 

田中内閣成立時には「日本列島改造論」がいわば政権構想だった。練りに練り上げた。

「太平洋ベルト地帯の工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる地方分散を推進すること」

 

菅の言う「地方」とはわけが違う。

 

宰相たるには政治哲学・政治道徳・政治的倫理論が必要だ。何もない。

安倍政権を安倍政治を継承する。それだけの“ふた”でしかない。

 

 

シンボルスカの詩にはこういう一部もある。

“誰かが瓦礫を道端においやらなければならない

死体を一杯積んだ荷車が通れるように“

 

彼女の詩をどう解するかは個々人の勝手だ。

難解かもしれないし。

 

終わりと始まりは延長線上にあるのだ。

2020年9月1日火曜日

安倍は”裸の王様”だたのか”フィクサー”だったのか

東京からの「政局電話」で疲れている。 

数年前、旧知の総理大臣秘書官経験者と話し合ったことがある。
安倍政治についてだ。 

彼曰く「安倍さんは非常な淋しがりやだ。体のことを心配する秘書官が日程を入れないでおくと、自分でかってに入れてしまう。 それは、例えば岡崎勝男など思想の平仄が合う人と話をしている時は非常に楽しそうだった。」 

これに似た話は、安倍の辞任表明後、秘書官の一人が新聞記者に語っている。
 記事もあった。体調不全になったころも、官邸に出勤し、毎日、同じような顔ぶれと席を共にしていた。気の置けない官邸メンバーと居るほうがストレス解消にもなっていた。
しかし、病魔には勝てなかった。 病気のことについては本人の言を信じるしかない。 
そして舞台は次期総理総裁選び。

メディアの一部には「安倍政治」の「総括」もなんのその、「人事」に血道を上げている。 かって田中角栄に言われた。 
「君たちは政局ばかり追っている。ご執心だ。国のことを考えるならもっと政策を勉強しろよ」と。 
いま、官邸や自民党担当の記者たちは必死になって政局を追っている。

懐かしい光景だ。(笑) 

菅がどうやら「党内力学」で本命視されてきた。
開かれた政党を標榜するなら、全国の党員・党友票も加味した“フルスペック”の選挙をやるべきだが、一任されている二階はそれを拒否する。
両院議員だけの投票で決したい意向のようだ。
次期政権に影響力を行使できるからだろうか。
各都道府県連からは投票参加の要望書が本部に届けられているというが。 
「開かれた政党」とは真っ赤な嘘。 真面目な党員も国民も“愚弄”されている。
 菅と安倍の関係はつまびらかにしない。
菅は安倍を補佐してきた。尽くしてきた。
いま逮捕拘留中の河井 案里の選挙応援には心血を注ぐなど安倍政治にはすべからく関与してきた。
 「総裁選には出馬しない」と公言したのもつかの間、「有力候補」になっている。 永田町雀は言う。「官房機密費」を握っているからなあ。
 安倍は岸田を後継にと考えていた、と聞く。
何故、岸田を袖にしたか。安倍政治は、嘘と、恫喝とで動いて来た。 忖度という言葉をはやらせ、事実忖度政治が行われてきた。 安倍追及に当たっては野党は何処か及び腰だった。 恣意的な人事を行って来た。相次ぐ閣僚の不祥事での辞任。 モリカケ問題、桜を観る会、黒川検事長問題、モリカケに関与したことのすべて。
資料の黒塗り。安保法制での内閣法制局長官交代の不法な人事。
 王様は三権の長と自任し、森羅万象を司っていると豪語した。
 平場の感覚に立とう。
近畿財務局勤務の赤木俊夫さんが上からの圧力に屈して自死した。
妻は国を告訴している。
 次期政権がその気になれば安倍の行状は安倍に不利なように暴かれる。
 去り行く身として晩節を汚したとう認めがたい。 だから考えた。
麻生とずいぶん協議した。官房長官という立場にいたものは大体のことは知っている。
共謀共同正犯のこともあったはず。 
麻生の次は二階を口説いた。妙案が生まれてきた。 口封じのためにも、菅を後継にしてしまえばとりあえずは安堵できる。
 石破にでもなったらもうお終いだ。
 かくて、菅政権が出来上がる構図に党内は走っている。 菅が総理総裁にふさわしい抱負経綸を持っているかどうかは問題ではない。
 こんな構図を永田町の政治記者は指摘できない。
 菅の記者いじめが相当きいているからだろう。
 ネタを貰えないことほど辛いことはないのだから。 菅は「安倍政治を継承します」というだろう。 大所帯の官邸内もそのままにするのかもしれない。
 1989年、辞任した竹下登の後継として自由民主党総裁に推されるが頑な固辞した。

「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ」。と述べて。
 会津出身の政治家、伊藤正義の言だ。 会津士魂だ。

 自民党執行部のやり方に「抗議」の書面を提出した若手議員数人がいる。
 「党費4千円。それであなたも総理大臣選びに参加できます」。
党員集めの看板に偽りありとする若手の一部意思表示だ。 自民党の課題、若手を育成してこなかった老人たちのエゴ。若返るべきだ。 
党の役員定年、閣僚定年を定めたっていい。あるというような話も側聞するが。 選挙は来年だ。今のところの日程では。
 安倍が「病気治ったよ、また総理やる」その可能性は1%くらいは残っているかもしれない。つい数週間前の菅の支持率はそんなもんだったような気がする。

2020年8月29日土曜日

全てが”藪の中”に

安倍首相が辞意を表明した。それだけは事実だ。 病気によるものという理由も実際の心境なのだろう。 それ以外は、この7年余りの安倍政治が、政権が、安倍夫妻が為したことのすべては藪の中に隠されてしまった。 そしてこの7年間、安倍政治のやり方は徹底したメディア対策、無意味な言葉の羅列であったような気がする。 「死者に鞭打つな」という不文律のような言葉がある。辞めていく人は労わるべきだという価値観がある。 昨日のNHKの報道内容を見ていて、何とも言えない空虚感に襲われた。 少し前から「レガシー」という言葉が蔓延した。 安倍に対してもそれに関する記者会見での問いがあった。 結局、「負の遺産」だけが残されたような気がする。気ではないか、現実だ。 安倍の後継者を巡る自民党内の“抗争”が一挙に激化した。 安倍は、なぜだか知らぬが、後継者を作ることをしなかった。 永田町の論理で言えば、大きな失策だ。 後継をめぐる動きの中で党内には亀裂が入るだろう。 「一強政治」と言われた中で沈黙を是とされてきたのだから。 28日の夕方5時から記者会見がある。そう発表された時、それが辞任会見だとなぜメディアは気付かなかったのだろうか。 ”異変“を感じなかったのだろうか。 後継者は“藪”の中にはいっていけるのだろうか。藪は深くて暗い。 かつて竹下登は事あるごとにこう言っていた。 「「武士(もののふ)の進退はある日、ある時、突如として決すべきもの。ひとたび言の葉に上れば威令これ行われなくなる」。 河合継之助の言葉を引用したんだろうか。 安倍が武士(もののふ)だとは決して思わないが、こんな言葉が思い起こされた。 大叔父の佐藤栄作は退陣時の官房長官に竹下を据えた。 中曽根は内務省の先輩である後藤田正晴に就任を懇願した。派閥は違っていたにも関わらず。 佐藤栄作は「人事の佐藤」と言われた。福田と田中を閣内に取り込み、動きを様々封じてきた。 安倍は人事で失敗を繰り返したにも関わらず常に起用を誤ってきた。 今日の永田町界隈はどうなっているのだろう。 今の自民党議員が経験していない、知らない故事を書く。 1939年9月。時の総理大臣池田勇人が病に罹りがんセンターに入院した。 病院には連日、政府・自民党の幹部が訪れていた。 入院して数日後、発表された病名は「前がん状態」。実態は咽頭がんだったが、 池田派の重鎮、大平正芳や前尾茂三郎はがんセンターの比企総長と相談し、「前癌状態」という病名を作り出した。ありもしない病名だ。 池田は病院から”念願“の、高度成長の基盤となった「東京オリンピック」を観戦した。 オリンピックが閉幕した翌日の10月25日、池田は比企総長の助言を受け入れ、退陣の意向を固め、鈴木官房長官と三木幹事長から正式に発表された。 後事は川島副総裁、三木幹事長に一任した。 川島事務所があるパレスホテルが後任人事の選定の場。連日、川島と三木幹事長の会談があった。 佐藤栄作・河野一郎・藤山愛一郎。三者が立候補の意向を示していた。 協議は長々と続いた。 結果、池田の退陣表明後2週間以上経った11月9日。選挙を経ることなく、 衆議院の議員面会所の3階の講堂で、両院議員総会が開かれ、川島が「佐藤栄作」と後継を指名した。 川島の名セリフ。「小異を捨てて大同につく」。 安倍も自らが「アンダーコントロール」という詐語で誘致に成功したオリンピックに首相として参列できないのは悔やみきれないだろうが。 さて、如何なることに相成りまするやら。

2020年8月15日土曜日

コロナ渦の中で想う「八月」

八月や6日9日15日。俳句である。 原爆も戦争も、すべて人間が行った「行為」である。 コロナもまた人間による仕業だ。人間が起こしたことは、人間が後始末をしなければならない。論理的帰結としてはそうなる。 昭和史研究家、半藤一利は「日本の一番長い日」と今日15日のことを書いた。 八月15日の正午からの「玉音放送」を聴いた。途切れ途切れのラジオの音声。 その時思ったことがある。 これからは防空頭巾をかぶらなくて済む。ということ。 祖母は真綿で作った防空頭巾に姫路大空襲時の避難の際、火災の火がついて、頭から燃えていたという。気付いた消防団の人が溝に突き落としてくれた、火は消えたが、顔に大やけどを負った。肌は「ケロイド状態」だった。 防空頭巾を被っていなければ、自警団や近所の人たちから叱責された。 防空頭巾はあれから75年たった今の、コロナ渦にあってのマスク必携という社会と酷似している。 防空頭巾を被っていたために祖母は一命をとりとめたものの、危うい場面にあった。それを被っていれば安全ではなく、かえって危険だった。 今、この国の人は全員がマスクをつけている。都知事に至っては毎日がマスクのファッションショーだ。 マスクが感染を防げるものかどうか。「正しい答え」を聞いたことが無い。 「皆がしているから。していないと非難の目で見られるから」。あるメディアの世論調査の結果だ。 75年前と同じように「皆が」という「世間様」がまかり通り、マスクをしていないと脅しのような目線にさらされる。 マスクをする、しない。それはコロナ感染という恐怖がもたらすものだ。 恐怖心は、時として「歪んだ正義」という構図を生む。 原爆が投下されたあと、被爆し、瀕死の状態になった人たちは「水をくれ、水をくれ」と断末魔の“懇願”をした。 南方の島の戦場でも傷ついた兵士は「水、水」と懇願した。 水は与えられなかった。水を飲ますと死ぬ。そんな”思想“があったかららしい。それを大人から聞かされた。 75年前の夏、井戸水をくみ上げて柄杓で存分に水を飲んでいた。暑かったから。飲みながら伝え聞いた原爆被災者の「最後」を想った。 それから30年経っても、運動部の学生は水を飲ませてもらえなかった。 「精神論」が蔓延っていた時代。まだ、75年以上前からの「軍人精神」が生きていたからなのだろう。 いま、サッカーでもラグビーでも、その他の大方のスポーツでは水を飲めと言われる。スポーツ飲料を飲めと言われる。 お盆だ。仏壇には水を供える。墓には水をかける。 熱中症がその危険さを言われている。マスクを外してでも水を飲めと言われる。 「水分を十分に補給してください」と防災無線が呼びかける。 「コロナ本」が多数出版されている。 イタリアの作家で物理学者のパウロ・ジョルダーノが書いた「コロナの時代の僕ら」を読んでいる。 その中の一節。 「僕は忘れたくない。頼りなくして支離滅裂で、いい加減な情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。もしかするとこれこそ何より明らかな失敗といえるかもしれない。それは取るに足らぬ話しではない。 感染症流行時は、明確な情報ほど需要な予防手段などないのだから」。 どこか「戦争」の時に出された言葉のようにも思えて。 倉本聰の作品に「歸國」というドラマがある。戦後50年、“特別列車”で帰国した「英霊」たちは、それぞれのゆかりの場所に行く。 余りにも変わってしまった町、人の心。歸國したかった故郷は「国」に変わり、歸りたかったところは「国」に変わっている。 多分、ここ数日掛けて、倉本聰の脚本を読むだろう。英霊を考える上でも。 自然破壊と人間の安易な消費行動。それが森の中に潜んでいた「コロナ」を呼び出してしまった。宿主になるとは露知らず。ジョルダーノの基本的考えでもあるようだ。

2020年8月8日土曜日

「日本の特別な夏」

小池百合子都知事が会見で「今年の夏は特別な夏。旅行、帰省、夜間の会食、遠くへの外出をお控えいただきたい」と訴えた。
誰が思いついた手法か。
フリップを掲げる。それはしばしば「斜め」になる。テレビを見ながら顔を斜めにしてそれを見る。

何が特別なのか。伝わるものが無い。“自粛”は今年の冬もおそらく続く。
「コロナ」は終わらない・・・。

特別とは何か、通常とは何か。戸惑う。

1945年以降、日本人は毎年の夏、「特別な日」を持たざるを得ないようになった。それは「悲劇の記念日」として。

8月6日の「ヒロシマ」、8月9日の「ナガサキ」、そして8月15日の「敗戦」。
数字を言えば320万人の死。
助けるにも助けようのない命があった。

唯一の被爆国だ。多数の犠牲者をうんだ被爆国だ。
その国の首相が、なぜ、核について語らないのか、語れないのか。
核兵器禁止条約を批准しないのか。
依然、アメリカの“核の傘”を信じ切っているのか。その傘は”黒い雨“を防げない傘なのかもしれないのに。

「特別な日」にはその特別さを一年に一回だけでも考えるべきだ。
それは被爆当事者でなくても、日本人である以上。
では、何を考えるのか。
NHKは平和を考える日だという。僕は「違う!」と思う。
戦争を考える日だと思う。
戦争を考えたその先に平和という燭光が見えるのならともかく。

「平和」とは何か。それは何気ない日常なのか。
「敵基地攻撃能力」などとこの“コロナ渦”の中でまじめに言う政治家どもがいる。そんな環境下で「平和」がかなうわけもない。

僕の部屋に「焼き場に立つ少年」の写真が置いてある。時折、その写真を見ながら考える。そして想う。

それにしても小池百合子という人は目立ちたがり屋だ。“パフォーマンス”がお好きなかただ。
大阪の吉村という知事も目立ちたがり屋の双璧だ。
もはや、バカというしかない。「イソジン」の製品を机の上に並べて、「コロナを殺す」みたいなことをいった。
バカな一部の在阪テレビは好んでネタとして取り上げた。

ドラッグストアからは瞬く間にイソジン系消毒液が消えた。郡山でもそうだった。

彼にも政治家の資質が無いと思った。こう言えばこうなる。そんな想像力が皆無な奴。
歯科医師会が強力に抗議しているという。さもありなん。ヨード系の薬品は劇薬なのだ。滅多に医師は処方しない。

原爆に被爆し、瀕死の火傷を負った人たちは、皆水をくれといった。
「水を飲ませると死ぬ」。そんな考えが当時は横行していた。それが“正解”なのかどうかはわからない。しかし、水筒の水を分けてあげれがよかった、と未だに後悔している人もいるという。

コロナ渦でマスク必携。熱中症が多発する。水を飲めという。

焼き場に立つ少年はずっと姿勢を崩さぬまま順番を待っていた。順番が来ると焼き場の人に、水をくれとも言えなくなった背中の妹らしい少女の「おんぶひも」をほどき、遺体を託し、その場で深く一礼して去っていったという。写真を撮ったアメリカ人カメラマンの話だ。

それが日本の“特別な日”なのだ。

あの少女の墓標はどこかにあるのだろうか

2020年8月3日月曜日

「黒い雨・放射能、そしてコロナ」

黒い雨訴訟。ようやく裁判所が被害者の声に耳を傾けた。
被災者の全面勝訴。
気象庁の(当時)「線引き」が“黒い雨”の被害者を分けた。雨には区画の意識があるわけでもないのに。

こどもの頃、表に出ようとすると「黒い雨には気を付けろ」と祖母から口酸っぱくいわれた。戦後になっても黒い雨含め、原爆の“脅威”が残っていたからだろう。
若いころ読んだ井伏鱒二の「黒い雨」で、その“正体”を知った。黒い雨の正体よりも、それが引き起こした「差別」と「排除」に怒りを覚えた。

中学時代の思い出だ。

島崎藤村の「破戒」を読んだ。なぜ主人公の名前が瀬川丑松なのか。
いじめに合う生徒に、つい自分の出自を喋ってしまう。戒めを破る。結果、丑松も徹底した差別の渦に巻き込まれる。

「もしかしたら、自分は被差別部落の出身ではないか」と真剣に考えた。

「3・11」、原発事故。一部の福島県民は「放射能が移る」という”デマ“によって激しい差別に見舞われた。
放射線を理解しているはずの医療関係者、医者や看護師、突如職場を離脱していった。
1F構内の中心を起点に国が同心円で引いた線。その線が1軒の家の真ん中を通っているということで、母屋と離れは区別された。

黒い雨の降雨地域設定と同じようなことが。
福島県民は東京を車で走れなかった。
福島県産の食品は、海産物含めて、徹底的に「忌避」された。

まもなく、あの8月6日がやってくる。黒い雨を考えさせられる。

そして、「新型コロナ」。

政府に「重用」された医学者は、なんら「解決策」を持たなかった。
すべてが政治問題化され、令和の差別が横行している。

ステイホームを言う政府はGO TOトラベルキャンペーンで経済の回復を目指す。論理的矛盾を感じない政治。そこから東京は排除された。

“東京ナンバー”の車は何処にも行けない。かって福島ナンバーがそうであったような光景が反射光のように公然と行われている。

マスクをしていない人を激しく叱責する。政府の自粛要請下で地元以外のナンバーの車を傷つけたり時間を短縮して営業する店に嫌がらせをしたりする。中国人が経営する店やその関係者をSNS上で中傷する。
 新型コロナウイルス禍に現れたいわゆる「マスク警察」「自粛警察」現象は、人間の攻撃性を顕在化させた。極端な差別の具現化。
「歪んだ正義」の出現である。社会が混乱すると登場する“正義仮面”。

ALS患者への“嘱託殺人”的行為。ちょっと前のやまゆり園大量殺人。
優生思想に捉われた“歪んだ正義”。
終わることを知らない「コロナ渦」のなかで、正義を語るには勇気がいる。

関東大震災後の「デマ」で何人が殺されたか。それは噂が噂を呼ぶという状況の中での出来事だったが。

我々は「SNS」という「大人のおもちゃ」を手に入れた。しかし、その中に書かれることは「大人」が為すことでは無い。

コロナの時代の道を歩んで行くことのいかに難しいか。

後期高齢者はうっかりマスクを外したままコンビニに入った。怖い目が刺さってきた。
はてさて、どう生きていくものか。

2020年7月23日木曜日

吏道を全うした官僚は命を絶った

「鳥のまさに死せんとするとき、その鳴くや哀し、人のまさに死せんとするとき、そこ言やよし」。
論語の泰伯にある有名な一節。その一節を思い起こしたのは一人の官僚の自死だ。

“鳥の死にぎわの悲鳴には、人の胸をえぐるような悲痛さがこもっている。
人が死を前にして言うことばには、真実がこもっている”ということ。

森友問題で、当時の近畿財務局に勤務していた赤木俊夫さんが関係書類の改ざんを上司から執拗に迫られ、苦悩の末に「死」を選んだ。
彼が生前語っていた言葉。
「私の雇い主は日本国民。国民のために仕事ができる国家公務員に誇りを持っています」。

今、国家の中枢機構は「政官癒着」の極みにある。
赤木さんの吏道の精神、いや、官僚の矜持を持っている人は皆無だ。

赤木さんはいわゆる「ノンキャリ」組。前職は国鉄職員だったと聞く。
「公正に職務を執行していますか」「疑惑や不信を招くような行為をしていませんか」。赤木さんは「公務員必携書」の「倫理カード」をいつも携えていたという。

国家公務員倫理カードを「座右」に於いていた「現場の職員。彼を死に追い詰め、保身のために沈黙する中央のエリート官僚たちにはもはや「吏道(りどう)」というものは存在しないようだ。

吏道とは、官吏として守るべき道徳と広辞苑にある。
官吏とは国家公務員だ。
その国家公務員もキャリアとノンキャリアに分かれている。
キャリアとは国家公務員上級試験に合格した人。ノンキャリは一般職の試験で入ったひと。ノンキャリの多くは仕事でいくら成果をあげてもせいぜい課長補佐までが通り相場。
文部科学省の審議官にノンキャリの人が登用された。
初めての事だという。

城山三郎の小説に「官僚たちの夏」というのがある。
日米繊維交渉の中で苦悩したノンキャリが描かれている。

繊維の対米輸出を減らすため、繊維業界は「工場の織機」を壊した。
交流のあった通産官僚は「裏切り」を責められた。
ひたすら頭を下げてのはノンキャリの官僚。
そんなことが思い浮かんだ。

森友を巡る「闇」は深い。キャリア官僚の佐川は安倍を守るために「証拠書類」の改ざんを赤木さんに命じた。赤木さんの上司はそれを知っている。今や官僚どもは官邸に集い、ご機嫌を伺い、出世の道を確保する。
彼らの辞書には国民が存在しない。

赤木さんの冥福を祈っている。奥さんの身に何事もないことも。
身命を賭して官僚の矜持を守った人がいたことを忘れない。

2020年7月15日水曜日

コロナ渦の中の豪雨災害

「諸行無常」の世界に身を置いているような思いがする。
そして、助け合い強く生きようと懸命な人たちの姿を見る。

汚泥の中で働くスーパーボランティアの尾畑さんの姿に“安堵”を覚えてしまう。彼から受け取る“哲学”に感銘する。

3・11時の大津波とは違った「水の力」「水の恐怖」をテレビを見ながら思う。
しかし、この身は今回の豪雨災害を前にして何ら無意味な存在だ。

明らかに「予測不能」の豪雨・豪雨。
その中でも人は懸命に生きようと図る。
非情の雨は何日続いているのだろう。
河川のいくつが氾濫したのだろう。
家屋がいくつ流され、倒壊したのだろう。

地球は「異常」な星になった。科学雑誌によると北極の気温が38度を記録したという。海水温は上昇し、雨雲は列島の各所に停滞する。
雨が何時やむのか。泥の世界は屋内も屋外も区別が無い。

日本列島だけではない。中国でも洪水が多発しているようだ。高温に見舞われているとか。長雨が続いているとか。日本の気象は中国大陸からの気圧の影響が大きい。長江にある湖北省の三峡ダムが決壊寸前だと言われる。決壊すればそれこそ上海は水に沈むというくらいだ。

急速に開発された都市、武漢。武漢のもともとの自然は開発で破壊された。
その地の何かの生物を宿主にしていたウイルスが人間を宿り主にした。
日本に感染が拡大している新型コロナウイルスは武漢に由来するとされる。

その“武漢ウイルス”を日本は水際で阻止できなかった。
習近平の訪日実現をはかる安倍内閣は中国人の往来を許してきた。
春節で訪日していた中国人の大型トランクの中身はほとんどが「マスク」だった。

アマゾンの山林火災、オーストラリアの森林火災。森林に生息していた生き物はどうしたのか。
武漢由来の「新型ウイルス」ではない欧米に広がっているウイルスの由来は、南半球にあるのかもしれない。欧米を席捲した新型コロナ。

自然と人間の関係性は大きな曲がり角に来ているのかもしれない。
「ペスト」という歴史を体験した欧州も、新型コロナへの対応策を、医学的対策、すなわち、ワクチンや治療薬を持ち合わせてはいなかった。

「歴史は繰り返す」ということなのだろうか。

コロナ渦の中の豪雨被災。被災地の救済にも「コロナ」は大きな影響を及ぼしている。

東京の感染者は「最高レベル」に達した。国は「東京問題」だという。
そして、経済の回復のために、大手広告代理店を巻き込んだGO TOキャンペーンなるものを実施するという。

コロナ対策で「失政」を続けている安倍政権。経産官僚が支配する官邸。
毎日のように同じようなメンバーが顔を並べ、何が話し合われているのか。

コロナに関して安倍は沈黙を決め込んでいる。あんたも東京の住人やで。

雨は降り続く・・・。♪雨の慕情♪は歌えない。

地震が頻発している。不気味である。

豪雨被害の模様をテレビで見ながら夫婦二人で普通にメシを食っている。彼の地にはまともにメシを食えない人が多数いる。これからの住まいに途方に暮れている。テレビの画面に突如「地震」がスーパー表記される。
「コロナ」を伝える画面でも。

またも、阪神淡路の時もそうだった、3,11の時もそうだった。
古びた「方丈記」を手にする日々とかや。

2020年7月1日水曜日

レジ袋を巡る“謎”

今日からいわゆる「レジ袋」の無料配布が終了になった。
レジ袋ってポリエチレン製なのかプラスチック製品なのか。まずそれからしてワカラナイ。
ポリとプラの区別もワカラナイ。

ポリ塩化ビフェニール、なんて言い方も聞いたこともあったが。

それが、環境に悪影響をもたらすものなのか。
燃えるゴミの日には市が認定した市販のゴミ袋に何日分かの“家庭ゴミ”を所定の場所に出してくる。やがて収集車が来て、それを集め、焼却場に持っていく。

ポリ袋とプラスチックの区別が浅学な身にはよく理解できない。
海の魚プラスチックを飲み込んでしまうという「環境問題」はわかっている。
それは、プラスチック商品を人間が川や海に捨てるからだと聞く。
市の焼却処分場で処理されるものは、「環境上」問題があるということか。


経産省のホームページにはこう記載されている。
「令和2年7月1日より、全国でプラスチック製買物袋の有料化を行うこととなりました。これは、普段何気なくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています。」

政府の広報誌のホームページにはこう書かれている。

「今年7月1日からプラスチック製買物袋、いわゆるレジ袋の有料化がスタートします。プラスチックは便利な素材ですが、一方で、海に捨てられたプラスチックごみで生態系が破壊されるという問題も起きています。私たち一人ひとりがプラスチック製品の過剰な使用を見直すきっかけとなるレジ袋の有料化」と書かれている。

レジ袋がプラスチック製ということなのだ。
でも、一般人は「ポリ袋」というけど。

有料化は我々の意識の変化を求める手段なのだ。

10年くらい前か。郡山の駅ビルの中にJRが経営する「ピボット」という食品売り場がある。食材を籠に入れてレジに並ぶと、「お買い物袋はお持ちですか」と聞かれた。「無い」というと「袋一枚5円です」と、叱責するような口調で言われた。
5円が惜しいと言うのでは無く、“レジ袋”課金みたいなことが不愉快だった。
買い物袋を持たない者への「罰金」だとさえいわれたから。
そこから「エコ」という名の「エゴ」という言葉が浮かんだ。
レジ袋の5円はJRの売り上げになると聞いたから。

今日からの「有料化」はコンビニはもとより、ドラッグストアやパン屋に至るまで。いや、町の個人商店までも。スーパーマーケットは言うに及ばず。

いま、「テイクアウト」という食事の作法が一つのブームのような様相を呈している。そこも袋に課金があるのだろうか。
コロナ騒動以前、表での食事会があったとき、残すのは「もったいない」と思い、「持ち帰り」を頼んだ。生もの以外は快くプラスチックの箱に入れ、ポリ袋で持たせてくれた。

レジ袋一枚5円、エコのための費用。コンビニはどこでもプラスチックのボトルの飲料を売っている。

なんだかおかしくないかい。バカバカしく無いかい。

政府の会議の場にはペットボトルのお茶が置いてある。経産省でも環境省でも。
それらのボトルは「法に従って」処分されるのだろう。

海の生物の腹の中にプラスチックのボトルが入っていた。魚は飲み込んで死んだ。川や海にそれらのプラスチック製品を捨てるのは「心無い者の仕業」だ。
しかし、その「不法投棄者」が罰せられたということを聞いたことが無い。

コンビニの駐車場は例えば宅配車や土木工事車両の運転者が昼の休憩、食事をするのに格好な場所。運転手は「エコバッグ」なるものを持って弁当と飲み物を買うのだろうか。レジ袋は要らないと断って、食べたあとの入れ物は(多くがプラスチック容器)をその店のゴミ箱に捨てるのだろうか。店の中は残飯の腐臭が漂うのだろう。

消費税が10%になった。政府は苦肉の策のようにポイント還元を打ち出した。電子マネー決裁者に限り。その「まやかし」は昨日で終わった。今日からはレジ袋有料の「強制」。

テレビを見ていると「エコバッグ」の宣伝をやっている。
テレビも「強制」には従順なのだ。

如何ともし難し、百均でエコバッグを買った。テレビの次の話題は、コロナ渦にあっての「エコバッグ」の清潔性。

だいたい、あのレジ袋は原価はいくらするものなんだろう。何銭の世界だと思うが。

なんか窮屈な世の中だな~と頭を突っ込んで「珍百景」を演じるネコがぼやいている。

2020年6月25日木曜日

「カオナシ」の国

新型コロナウイルスの感染拡大は、とりあえず収まっているようだ。
第二波、第三波が来るのかどうか、それは何時、何によってか誰も判らない。
そう、COVID-19に関しては「誰も、何も判っていない」、いわゆる専門家と称する人たちだって。いわんや政治家に於いておや。

「コロナ」が起きてから、いろんな言葉が、カタカナ語を含めてお上から、メディアから発せられ、時には戸惑うものもある。

ソーシャルディスタンスという言葉もその一つ。「新しい生活様式」として要求される条件の一つ。この言葉は間違っている。それには、人と人との間の距離を言うのでなく、人間関係の中での距離、いわば「差別」を内包したものだからだ。
ソーシャル ディスタンシング、いや、フィジカル ディスタンシングというべきだ。

行動変容という言葉もその意味がよくわからない。
カタカナ語を含め、意味がよくわからない言葉の乱用が事をより複雑化し、混乱のもとともなっていると考える。
不要不急の外出という「言葉」だってそうだ。
何が不要で、何が不急なのか。戸惑う。

「新しい生活様式」の中には、疑問を感じることが多い。
その一つが「マスク」のことだ。

いま、マスクを着けていない人は居ない。全国民がマスクで顔を覆っている。
顔の見えない人だらけだ。顔が見えないということは人間本来の“コミュニケーション”がとれない社会だ。

名古屋の東山動物園の企画官、上野吉一さんはこんなことを言っている。
“口元というのは表現の道具です。例えばチンパンジーは怒ったら歯をむき出し、うれしい時は口が半開きにゆるんでます。
離れたところからでも顔で感情を伝えています。
人間の表情筋はサルより発達しています。その半分がマスクで隠された状態で、目の動きからどれだけのことを読み取れるのか。感染対策とコミュニケーションの質を両立させる社会的デザインが必要だ“と。

国会の本会議。議席に演壇に議長席にいる人たちは全員マスクだ。
記者会見した野党の党首はご丁寧にもフェイスガード姿で登場してくる。異様な光景だ。議員の中に“感染者”がいるということか。

テレビでは連日のようにマスクの効用の話題を科学者交えてしている。
感染者の飛沫がマスクでどれだけ飛散をふせげるかというような話し。
透明なアクリル板の向かい側にいるマスクを着けた人、つまり、マスクがウイルスの飛沫を、菌その物を防御するかどうかの議論や実験は無い。

宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」に「カオナシ」というキャラクターが登場する。
真っ白な仮面で顔を覆っている。
宮崎監督は「カオナシは誰の心にも存在する」という。
「主体性が無く、居場所も無く、拾い物の他人の言葉でしか喋れず、金品を貢ぐ以外の他人とのコミュニケーションがわからず、拒絶されたと思いこむとキレて暴れだす」ような存在だと位置づけている。

「カオナシ」は“新たな日常”説く人なのかもしれない。いや、「今の世の中はカオナシ国」なのかもしれない。

新たな生活様式のことでもう一つ。
いわゆる「自粛」なるものがいう行動規制はだいぶ緩んできた。この自粛なるもの、医学と経済のせめぎあいの中で、主役であるはずの人間一人ひとりの行動や心理に対する「視点」が全くない。
たとえば料理を提供したり、一緒に食べるという行為は、それ自体が極めて人間的だということ。
共食は人類に共通で、それによって食文化は発展してきた。
集まった人たちが同じものを食べながら時間や場を共有することで無意識に“関係性”が築かれる。
食べるということは胃の腑を満たすだけでなく、コミニュケーションとしての意味も大きい。

もう一つ、外国の大学の研究班のレポートを読んだ。
イギリスのイースト・アングリア大学の研究チームのレポートだ。
“休校や大規模集会の禁止、一部サービス業の営業停止は、感染症の拡大抑制に効果はあった一方、外出禁止や生活費必需品を扱う店舗以外の営業停止は、感染者数や死亡者数に顕著な効果は認められなかった。また、公共の場でのマスク着用の義務化にも特段の効果は確認されていない”と書かれている。

「カオナシ」には眼だけは書かれている。
マスクは息苦しい。しかし、着用を怠ることへの「世間の目」の方が怖い。

自粛解除によって安倍は“夜の街”に出歩くようになった。
コミュニケーションンを図るための夜の会合の場が、部屋が、どういう設えになっているのか。
知る術も、知る由も無い。

2020年6月6日土曜日

アクセサリーとしての「ブルーリボン」

拉致被害者の会の前会長だった横田滋さんがついに力尽き、黄泉の国へと行ってしまわれた。

世の中はコロナ問題に多くの人の関心が集めっている。そんな中での横田さんの死。どう受け止めればいいのか。

「コロナ禍」の中にあって、多くの人は「新しい日常」という言葉に惑わされている。
日々の暮らしが、その積み重ねが日常だ。

めぐみさんが拉致されて以来、横田夫妻の日常は娘を北朝鮮から取り戻すことに終始した。40年以上にわたって。
温厚な人柄に見える横田さんも時には激しい言葉で政治家を責める時があったと聞く。
1400回の講演活動、署名運動。常人に出来る技ではない。

拉致被害者の会の「象徴」はブルーリボンだった。はじめは普通のリボンを安全ピンで胸に止めていた。
20年以上前から立派な「バッジ」に変わった。

車を走らせ、新潟にある被害者の会事務局のようなところを訪ねた。
バッジを求めて。
たしか2千円だったと記憶している。そして、幾ばくかの寄付をしてきた。

バッジは今は手元には無い。若い友人に託した。

民主党の野田政権時、野田の襟にはいつもバッジがあった。そ姿に「まやかしの政治」を感じた。第二次安倍政権になって、安倍はもちろん、すべての閣僚や議員がそれをつけていた。

小泉訪朝以来、北との交渉の道は閉ざされた。安倍は「任期中、在職中に解決する」と大見得を切っていた。

横田夫妻をはじめ、被害者家族の会のメンバーは機会あるごとに官邸を訪れ、一刻も早い救出を穏やかに訴えていた。
横田滋さんの胸中は察するに余りある。心の中では目の前の机を叩きたいような思いだったのではないか。安倍からは毎回「空言」のような返事を聞かされていた。

政府に、政治に頼る以外に救出の方途は持っていないのだから。
自力では動かず、動けず、安倍は盟友トランプに仲立ちを要請するのみだった。
横田さんたちは、そんな他力の動きにも幾ばくかの期待を持ち、進展を祈った。
家族会のメンバーは知っている。高齢化し親は亡くなっていくことを。

予想の中にあった横田滋さんの死。家族会の打撃。

今に始まったことではない。以前から思っていたこと。
政治家がつけている「ブルーリボン」は彼らが“日常”として付けている議員バッジとは意味合いが違う。

安倍は「外交の安倍」と大手メディアはもてはやす。
かれに外交的手腕などは皆無だ。

結局、家族会は誰もいなくなった・・・ということを恐れる。

ブルーリボンは政治家にとっては「アクセサリー」だ。
無意味な飾りを外すべきだ。

それが横田滋さんへの唯一の手向けにも思えるのだが。

2020年6月3日水曜日

安倍政権への限りない憤怒

鳴り物入りで設置され、安倍の“私的諮問機関”のような様相が見て取れる
政府のコロナ対策専門家会議。
安倍の記者会見に座長代理が常に同席している姿を何回も見ていて、その異様さに驚いていた。

政治家と政治記者との会見に医学者がアドバイザーの如く補佐する。やはりおかしい。そして時には“政治”の分野にかかわる発言もする。

コロナ問題を巡っては、医学者による「専門家会議」、「有識者会議」、「諮問委員会」があるという。
その有識者会議のは医学者だけでなく、他分野の人たちも加えるべきだ。
経済界から一人加わったようだが、社会学者・心理学者・宗教学者・哲学者も加えるべきだとかねがね思っている。

科学者の知見に他分野の有識者も加えなければ「まともな会議」にはならない。

それはさて置きだー。
安倍の錦の御旗のような専門家会議。その議事録が無いという。
議事録の無い会議。それは会議そのものが無かったというに等しい。
座長も、座長代理もそれを承知で会議に参加、名を連ねているのか。

国民の生命にかかわる会議に議事録が無い。そのことをメンバーは了承しているのだろうか。
学者の良心として、それへの参加は拒否すべきだ。

知人の医師が言っていた。怒気を含んで。
「その会議で自分が何を発言したか。その発言の正確性を確認し、次に意見を述べる際の参考資料だ。あらゆる学会で“議事録”が無いということはあり得ない」と。

その時の専門家会議で、何が議論され、賛成意見だけでなく反対意見があったであろうことは議事録でしか確認しようが無い。

菅官房長官は「議事録があると自由な意見の開陳が妨げられる」と“暴論”で事を正当化しようとする。

世の中、連日「三密」と連呼されている。
政権の「密」とは、密室で密議を凝らし、内容は国民に対して秘密にする。ということなのだ。

企業や官公庁などで「不祥事」が露見すると、当事者は一様に「第三者委員会」で協議して原因や再発防止の検討をお願いする。流行の手法だ。
第三者委員会などではなく、当事者の例えば経営者で結論が出せることまで。

第三者委員会という隠れ蓑。それは政界とても同じだ。

あるはずのものを隠す。徹底的に隠す。身に不利益が及ぶから。典型的安倍的手法。


「歴史的緊急事態」と安倍は公言した。
安倍は新型コロナ対応のさまざまな場面で「専門家の意見を踏まえて」判断したと繰り返し述べてきた。
その判断のもととなった専門家会議の議論は当然、誰がどんな発言をおこなったのかも含め、すべて国民に公開されなければならない。

政府は今回の新型コロナを、3月10日、公文書管理のガイドラインに基づく「歴史的緊急事態」に指定した。
「歴史的緊急事態」では当然、平時よりも厳格な公文書の作成と管理がおこなわれなければならないはず。

コロナ感染の判断基準。
「37.5度以上4日以上」。PCR検査への目安。この数値に多くの人は振り回された。この目安設定にも、専門家会議の中で異論があったと聞いている。異論は隠蔽された。そして無駄な時間が費やされた結果、今はこの基準は「無意味だった」とされるに至っている。

だから、国民の「混乱」に拍車がかかるのだ。
安心を得ることが出来ない。それは政治の致命的欠陥だと思うのだが。


マスク、コロナ騒動の当初、感染防止への有用性は無いとされてきた。しかし、マスクは消えた。社会的混乱を引き起こした。
そして「アベノマスク」が登場する。
WHOは(テドロス事務局長は信用が置けない人物と思うが)以前、マスクの有用性に少なからず疑問を呈しているようだ。

我が家はまだ届いていない。その処置に悩む。
10万円もまだだ。それの使い方にも悩む。
原発時の8万円の時を想起する。

コロナに終わりは見えない。漠然とした不安に国中が覆われている。
安倍は「有事」の宰相でないことだけは確かだ。
コロナを巡っての彼の行って来た「愚策」の数々がそれを物語っている。

憤怒の川でも渡ろうとするか。

2020年5月24日日曜日

今、ボクが考えている「正しさ」ということ

大方、人は「正しくありたい」と思っている。
その場合の「正しくある」とは、自分たちの物事への向き合い方を見つめなおし、複眼の視点で問題が抱える様々を考えてみることだと思っている。


「正しく知って正しく恐れよう」。原発事故後、この標語のような言葉をずっと聞かされてきた。
しかし、何が正しくて、どう怖がればいいのか。正しく知る術を持ち得なかった。テレビの登場する「専門家」という名の学者。彼らの見識は、知見はばらばらだった。

結局何もわからなかった。

テレビや新聞は、大方その解説を「専門家」に任せた。専門家とは“学者”の代名詞。様々な解説が飛び交う中で人々は迷い、戸惑い、不安を募らせていた。
不要不急の外出をするな。外出するなら「マスク」「帽子」は必須。
帰宅したならまずウガイ、手洗い。着ていたものは玄関で脱ぐ、はらう。

原発には「安全神話」があった。それが崩壊した。
人々は何が正しいのか分からなくなった。

人は常に「正しい側」に居たいという本能がある。
その「正しさ」は時として間違った方向に向かい、他者を糾弾する、差別するという「正しくない」方向に走った。そして、それが「正しいこと」とされてしまった。
福島の食品は忌避され、排除され、福島ナンバーの車は県外に出ることを許されないという風潮が「正しさ」として拡散された。

それは今ほとんど姿を消した。差別、糾弾に飽きたからだ。非を認めたわけではない。

そしてコロナ渦。新型コロナの感染が拡大、深刻化するにつれて、再び「正しさ」の押し付けが始まった。専門家や有名人らの新型コロナウイルスについての見解が入り乱れ、「正しさ」争いが激化する。

国は無力だった。やたら権力の行使に走った。
突然のように総理大臣が「全校休業」を宣言する。
それは“市民生活”の実態、そう、”現場“を知らない「お上」の発想。
教育現場の混乱や教師、父兄らの困惑は実体験した「当事者」でないとわかるまい。

そして、緊急事態宣言。おかしな日本語が“粗製乱造”されていく。
不要不急の外出はするな。
三密を避ける。
そして、すべてが”自粛“”自粛“。
外出者を8割減らさないと40万人が死ぬ。そんな”理論“がまかり通っていた。

マスクの「有用性」、いまも医学的な、科学的な正解は無い。
しかし、マスクをしていないと医療機関はおろかコンビニまでも“着用義務付け”が正義の言葉として押し付けられる。

手作りのカラフルなマスクが流行っている。そのマスクは”善意“に基づいて他者への好意として作られたものもあることは百も承知だが。

戦時中、子供も「防空頭巾」を強要されていた。祖母は綿入れの防空頭巾に空襲による火災の火がついて、頭巾が燃えていることに気付かず、大火傷を負った。

75年前の光景とマスクの時代の光景が交錯する。

やたら「自粛」が強要されている気がする。
”解除“への動きがある中でも、”自粛“は正義の御旗だ。

戦時中、自警団という組織があって市民生活を見張っていた。非国民という錦の御旗を掲げて。
空襲警報発令と自警団がメガホンで叫ぶ。電灯にボール紙を黒く塗った傘で明かりを隠す。明かりが漏れていたら自警団から激しい非難と攻撃を受ける。

町の人出を”市民警察“が見張っている。強制された時間内営業を見張っている。時間外営業を攻撃の的として、営業阻止の行動やSNSでの攻撃に精を出す。
飲食店の死活問題、「生存権」はそこには存在していない。“市民警察”は月光仮面となり、“間違った正義”を振りまき、行使する。

安倍晋三は「コロナの時代の新たな日常を取り戻す」と語り、生活ルールの細部にまで言及する。それは正解なのか。
馬鹿馬鹿しい政治の典型だ。
 なぜなら、今は異常事態で非日常のまっただ中なのに、これを「新たな日常」などと言うなんて。生きるために必死で働き、苦労している人たちに、「それが日常」だなんてあり得ないからだ。

西村担当大臣も東京都知事も「新しい生活様式の時代」とほざく。
今の生活様式は「コロナ」が終息するまでの仮の生活様式、それも自粛ではなく“強粛”されたもの。
 安倍の発した言葉で、生活ルールの細部にまで踏み込んだ発言で、またひとつ、無意味な、新しい「正しさ」が生まれてしまった気がする。
 そもそも、「多様性」を求めていたはずの政府が、個人の生活スタイルに枠を設けるなど、民主国家のすることではない。

コンビニでもスーパーでも客と店員との間にはビニールによる境界が出来ている。
レジの前には足跡が書かれ、そこで待機しろと強要される。

他県の人間が来ることを拒否する。駅に「来るな!」というプラカードを持った人が立つ。
井上ひさしの「吉里吉里国」の再来か。

見えないものは恐ろしい。放射線もみえないものだ。だから人々はより恐れた。
コロナも顕微鏡で拡大されたウイルスの写真しか見えない。
だから人は恐れる。ワクチンもない、治療薬もない。
「新型コロナ」のことは実は誰もわかっていないはず。
わかっていない方、未知の事だから人は恐怖にかられる。
わからないことをわかったように言う人たちがいるから人々は戸惑う。
原発時と同じような光景。

 何より、自粛とは、自らの判断で、慎めばよいのであって、誰かに要請されるものではない。現状は、強制的に慎む、「強粛」というべきだろう。そんな矛盾した行動を、国民に連呼するような人の「正しさ」に負けてはいけない。
 我々はいま、新型ウイルスより恐ろしい「正義」という伝染病に立ち向かっているようだ。

誰もが政治に望んだのは「コロナ対策」。コロナの終焉。
しかし政治の世界は全く別のことに関心があった。
検察官の殊遇。その裏にあること。
その政治は正しさのかけらもない。

すべてを疑う。疑うということの正しさ。原発でまなんだこと。

出来ないことの言い訳に終始する国。
少なくとも望んでいるのは、「ワクチン」であり、「治療薬」なのだが。

マスク644億円のムダ金、コロナ患者受け入れた病院の破産危機。

「正しさ」をめぐる混乱した頭脳は、明るい春の光景にはきっとなじまないのだろうか。

2020年4月30日木曜日

"f複合汚染”

かつて、「複合汚染」という言葉が流行った時代があった。その言葉を生んだのは有吉佐和子の小説“複合汚染”。
もちろん小説は公害を主としたものであったが、今の「コロナウイルス」問題を考えていると、その言葉が浮かび、さまざまな事象にそれが当てはまるような気がして。

「コロナウイルス」に関してはわからないことだらけだ。
「ワカラナイ」がこの問題についての結論。

だいたい、このウイルスがどこで発生したのか。
武漢はそうだろうが、ヨーロッパやアメリカを席捲しているのは「武漢」からのものなのか。

あのクルーズ船での集団感染。
なぜ、14日間、密閉空間に人々を隔離しておかねばならなかったのか。

このウイルスが「何者」なのか、まだ、専門家と称する人たちもわかっていない。もちろん政府もだ。

あの14日という数字の“正当性”は何処にあるのか。
未知のウイルスとされながら、既知の如くに対処されてきた。

最初のころの大いなる疑問。

マスクについて書く。
当初、マスクは感染者が咳やくしゃみを防御するために用意されたものだったはず。
原発事故時の「マスク」とは意味が違うとされてきた。
WHOも医師会も「感染防御にはマスクは役立たない」としてきた。だから、それを信じた。いつの間にかの「手のひら返し」。

マスク狂奏曲の開演。そして「奪い合い」「転売」のいつの世にもいる他人の不幸を利得にする輩。
どうにかしてマスクを手に入れる。そんな世情を見て安倍は人気回復の“秘策”として、突如「マスク2枚の贈り物」を言う。
しかし、「贈り物」はカビが生えていた、縫製もデタラメだった。
それは、特に幼児向けとして配られたもの。

多分、カビのマスクを使って入れば新たな感染症が生まれるかも。
それごらん、複合汚染じゃないかい。

オリンピックのことしか頭になかった安倍と小池と森とバッハ。
ようやく気付く、このウイルスの厄介さ。1年延期で、とりあえずオリンピック問題を収めての安倍と小池のグータッチ。

それを機に「コロナ」は一気に「政治利用」されている。
小池は知事再選の布石。天敵だった自民との共同歩調。
「コロナを機に日本の社会システムを変える」と豪語される女帝様。
安倍は総理大臣の地位をいかに安泰にさせるかに考えを巡らす。

そうだ、カネで釣ろう。政治家特有のカネがすべての世渡り術。
「一人10万円」の「見舞金」。

これは、本当に困っている人や医療機関に回すべきだと思うが。
医療現場は「過酷」なのだ。機材も資材もない。

そして、緊急事態宣言。
各自治体も同調。

子供は学校にいけない。大人は自粛・自粛で戸惑いの日々。

諺にいわく。「二兎を追うものは一兎も得ず」。

コロナ対策と経済問題の両立を目論む。
コロナ担当相に、経済再生担当相を兼務させる。

コロナは終焉の兆しとてなく、経済は赤字だらけの、赤字増殖の実相。

PCR検査が、検査ですよ。それが何よりの「医療手段」。
検査を受けられない人、多々あり。
窓口は基本的に「帰国者・接触者相談センター」なるところ。

もはや「帰国者」はいないはず。

医療崩壊が叫ばれている。当該医療機関では。
人間ドッグや健康診断をやっている病院は、それらをすべて中止。
患者は減っている。多分、赤字になるだろうという素人の推測。
こんな形の医療崩壊だって出てくる。

老人ホームや老人収容施設では「集団感染」が相次ぐ。
スーパースプレッダーは誰だ。

唯一の期待は治療薬、ワクチン。
アビガンやレムデシベルや。
ワクチン、思い出すのは「丸山ワクチン」騒ぎがかってあったこと。

緊急事態宣言は「延長」されるという。
「専門家会議の意見も聞いて」と安倍は言う。
あの政府の専門家会議って何だい。科学者としての知見は安倍政治を補完しているようなもの。

福島県には未だ原発事故による非常事態宣言が出されたまま。やっと排気塔の切断、解体作業が。切断によってあの周辺は汚染されるかも。  

緊急事態宣言が延長され、友達と遊びたいという子供の願いは届かず、大人は、巣籠、籠の鳥生活を余儀なくされる。

「朝三暮四」のお国の姿勢。意味不明の専門家会議。

テレワークという言葉も聞き飽きた。

「日本を丸ごと洗濯したく候」。竜馬の声は今は無意味。

PCR検査を希望する人がいくら電話をしてもつながらない。
そりゃそうだ。限られた人員で対応しているのだから。
保健所の管轄は市町村。人員を割けないものか。

「オペレーター増員してお電話お待ちしています」。通販みたいにはいかないけど、通販で買い物する主婦は増えているんだろうな・・・。

政治は複合汚染の主役かも
fuku

2020年4月16日木曜日

“感染列島”を生ききる

正直、心底疲弊している。
「新型コロナウイルス」の騒擾の中で。テレビのワイドショーの無意味さが国民を混乱さす。出てくる専門家の勝手な意見にも何が正解なのか、受けとり方に戸惑う。。
事の本質を見失いがちになりそうな己への危惧。

日増しに周りからも非常時感が伝わってくる。

リハビリに通う病院。行くたびに「様相」が変わっている。
入り口で「問診表」を渡され、検温。
待合室の椅子にはテープが張られ、いわゆる流行の「ソーシャル・ディスタンシング」。
いきなりちょっと”余談“。テレビに出てくる専門家やコメンテーター、司会者。ソーシャルディスタンスと申されているが正確には違う。

コロナ騒動が始まってから、やたら「カタカナ語」が乱用されている。
エアゾル・クラスター・ピークアウト・オーバーシュート・ロックダウン・・・。
PCR・CRP・アビガン・・・。

病院の話に戻る。
マスク着用・アルコール消毒。面会禁止。雰囲気がどこかピリピリと。
院内感染を防ぐための最低手段。病院は患者を守る。患者も病院を守らないといけない。患者としての義務だ。
そんな思いでもろもろ考えを巡らすが・・・。

10年前、「感染列島」という映画があった。あらすじは・・・。
“2011年1月、東京のある病院に患者が救急搬送されてきた。その患者は異様な亡くなり方をした。悪魔のウイルスが日本に舞い降りた瞬間。当初は新型インフルエンザとされたが、そうではなかった。
感染は瞬く間に院内に広がり、医療崩壊が現実のものとなり、感染は日本列島全土にひろがった。患者数千万人。
主人公の医師は患者に血清を輸血する方法を採る。第一患者から採取した血清を知り合いとなった患者に打ち、その子は回復に向かう。
そして半年後にワクチンが完成する。沈静化に向かう。
他方、ウイルスの正体を探す医師は旧知の医師を頼りに、その足跡を追う。
ウイルスの正体は、感染源は海外の洞窟に潜むコウモリだと突き止める。“

おおよそそんな内容の映画。まさに新型コロナに揺れる今を描いたような。

緊急事態宣言が出された日の夜、早朝に繁華街を取材していたテレビカメラが、路上のゴミから逃げていくネズミの姿を撮らえていた。
ぞっとした。

あのカミュの「ぺスト」の始まりは、主人公の医師が階段でつまずいて転んだ黒い物体。ネズミの死骸だったから。

「ペスト」の終末にカミュはこう書いている。
“ペストの終息を喜び、歓喜の声を聞きながら、この歓喜が常に脅かされていることを思い出した。
ペスト菌は決して死ぬことも、消滅することもない。数十年間も、家具や布製品の中で眠りながら生き残り、寝室や地下倉庫やトランクやハンカチや紙束の中で忍耐強く待ち続ける。そして、おそらくいつの日か、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目覚めさせ、どこか幸福な町で死なせるために送り込むのである“

今、カミュの「ペスト」という本が売れているという。さもありなん。

COVIDO-19をめぐり、この国は揺れに揺れている。
指導者の立場にある人は、なんら定見を持たない。絶望的な国。
マスク2枚を全国民に配るという愚策。466億円。
病院の看護師さんも言っていた。マスクに不自由さを覚えながらも。
肉屋の親父も言っていた。
「466億の金を医療施設の充実に回すべきだ。医療従事者の保全、保護のために使うべきだ」と。まったく同感だ。

検査・隔離だけではことは済まない。
陽性患者への治療薬が必要だ。ワクチンも必要だ。その為に国の予算が
使われるのなら納得出来る。しかし、安倍の人気取りに予算が使われることに、例えマスクに不自由している人でも大喜びできるだろうか。

今、治療薬に「アビガン」という錠剤が有力候補に挙がっている。すでに完成している薬品。投与に踏み切るべきではなかろうか。
原発事故の後、各家庭に自治体の決断で「安定ヨウ素剤」が配布された。
飲む許可を国が出さないうちに一部の人たちが飲用した。
もしかしたら、ヨウ素剤は「精神安定」の効果を発揮したのかもしれない。
「アビガン」についても同じことが言えるかも。

安倍は全国に緊急事態宣言を適用するという。
一所帯10万円を支給するという。昨日までは30万の補償だったが。

揺れに揺れている政府の、安倍の対策。
絶望的な指導者像。

絶望かー。

カミュは「ペスト」の中にこんな言葉を書いている。
「絶望に慣らされてしまうことは、絶望そのものよりもさらに悪い」と。

カミユの言葉を反芻しながら、この感染列島を「生ききる」つもりだ。

2020年4月6日月曜日

「タイガーマスク」と「アベノマスク」

今から10年ほど前の12月25日、群馬県の児童相談所の前に真新しいランドセルが10個置かれていた。伊達直人という名前で。タイガーマスクの漫画の主人公の名前で。
伊達直人はその後相模原市などに出現。ランドセル以外に筆記用具やプラモデル、食品などを置いて行っていた。
タイガーマスク運動と名付けられ、“善意”として拡散された。

原発事故。津波災害。あの頃も人は人に対して優しかった。

政治が劣化し、機能不全を起こしてから久しい。その中で新型コロナウイルスによる災厄が起きた。予想通り「パンデミック」が起きた。

すべてが「後手後手」の対応がもたらしたこと。

2月のある日から、マスクが店頭から消えた。買占めがあり、高価な転売があり、なんでも金儲けにと考える輩が居た。
次にトイレットペーパーが消えた。

人間は人間に対して優しくなくなっているように感じる。

官房長官はマスク6億枚の確保を明言したが、画にかいた餅だった。
ある時から国会はマスクで口を覆った人たちの群れと化し、安倍は記者会見で得意満面に「1所帯2枚」のマスクを郵送すると大見得を切った。

時を同じくして、医師会やWHO(こいつは曲者集団)はマスクはコロナウイルスの予防には役立たないと言った。

医者がマスクの有用性に疑問を呈し、政治家はマスクで口を塞ぐ。

今更ながらの見方だが、武漢で感染爆発が起き、チャーター機が数回、在留日本人を救出し、千葉の三日月ホテルに逗留させた。
ここまではある意味順調だった。

問題は大型クルーズ船ダイアモンド・プリンセスの乗客・乗員の扱い。
「三密」に背くかの如く、“監禁”された。
厚労省の指示だ。
香港で下船したスーパースプレッダーの残滓が船内に残り、感染を拡大させた。
乗客を直ちに下船させ、陸地で対応すべきだった。

結果、下船を許された乗客たちは通常の交通機関で帰宅。ウイルスが拡散された。

政府の動きは鈍かった。何故だかわからない。何かがあったからだ。

WHOはパンデミクス宣言を出さず、模様眺めが続いた。

そして今。感染者は全国に拡大し続けている。
感染源の追跡調査不明とテレビは言う。

PCR検査が問題にされていた。その検査が十分になされていれば「感染源不明」の患者は減ったはず。

「PCR検査を保険適用することを決断しました。国民のみなさまは安心して検査を受けられます」。安倍は公言した。

実態は違う。検査をしたくても保健所が首を縦に振らない。保健所の物理的事情もあるだろうが、検査を受けられない感染者が町を自由に歩き回る。
自覚症状の無い人は特にだ。
経路不明の感染者拡大。「検査」がなされなかったことによるもの。

医療、検査体制があまりにも不十分だった。
厚労省は何を考えていたのか。医師会も表面には出なかった。

検査をしない、できない国。韓国ではドライブスルーも含めて出来得る最大の体制をとっていた。

感染者が拡大し、死者も増える同盟国アメリカ。日本に在留する米国人を帰国させるという。
日本の医療施設はパンク状態。突きつけられる悲惨な現実の数々。

安倍は明日、「緊急事態宣言」を出すという。

ある歴史学者・哲学者の言を借りる。
 “今日、人類が深刻な危機に直面しているのは、新型コロナウイルスのせいばかりではなく、人間どうしの信頼の欠如のせいでもある。
感染症を打ち負かすためには、人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある。この数年間、無責任な政治家たちが、科学や公的機関や国際協力に対する信頼を、故意に損なってきた。その結果、今や私たちは、協調的でグローバルな対応を奨励し、組織し、資金を出すグローバルな指導者が不在の状態で、今回の危機に直面している“。

明日、安倍が国民の信頼に足り得る「言葉」を役人の書いた原稿を読まずに語り掛けることができるのか。

それによって、「コロナウイルス」に対する国民の態度も変わり得ると思うのだが。

2020年3月28日土曜日

「政治判断」なるものの怪

「五輪」と「コロナ」。コロナウイルスが急速に拡大していく中、当然の事だが、五輪の延期が決まった。安倍は自らの主導権を言いつのり、IOCのバッハ会長は40日以内に結論を出すという前言を翻し、延期は自分の判断だという。安倍の提案を受け入れたと。

電話会談に陪席した、小池都知事や五輪担当大臣、森JOC会長はただ、電話会談の“権威付け”のための付属品だったのか。
東京オリンピック。その責任者は都知事のはずだ。安倍は首相であってもIOCと直接話し合い、五輪に関することを決める立場では無いはずと思うのだが。

こんな決定ずっと前から為されるものだった。大方の国民も他国の多くが予想したこと。英断でも決断でもない。

♪何を今更言ってるのか。気まぐれ夜風に情けなんってあるものか。捨てっちゃえ、捨てちゃえ、どうせ拾った地位だもの~そんなコロンビアローズの唄が頭の中で聞こえてくる。
嘘で拾った恋じゃもの~と続いて出てくる。


「延期でよかった。中止でないもの」。
と言うことは「中止」も視野にあったということか。

電話会談後の安倍と小池の「グータッチ」。その意味わからん。
強固な関係ができたということか。

何かとカタカナ語がお好きで、教養指数とばかりに発音よろしくお使い召さる小池。横文字使って、それがわからない記者に「あんたこれぐらいのことわからないの」と颯爽とショール翻して立ち去る小池さん。

決まり文句は、選挙時は「都民ファースト」。今回は「アスリートファースト」。ハイソサイティーは上級国民は「ファースト」がお好み。

安倍が突然ほざいた「一斉休校」のお触れ。あれで、教育現場や子を持つ家庭はどれだけ混乱させられたか。世の非難受けると、再開などは担当閣僚に振る。
責任回避の上手さ。

専門家会議なるものの議を経ないでの独走発言。うん、格好いいぜ。さすがは三権の長。
それからは何でも「専門家会議」。この専門家会議というものもよくわからん。
誰が選んだメンバーなのか。

国民に自粛を呼びかけながら、都内の高級レストランの庭園で、花見の宴に興ずる内助の功著しい昭恵夫人のご乱行。国会で追及されて例の如くうろたえながら、いわばですね~を繰り返す醜さ。
まさに
夫婦善哉、いや、三文漫才。
昭恵はまさに濃厚接触の「ハイ・ポーズ」。ウイルス拡散の「お手本となる笑顔」。
スーパースプレッダーだ。

原発はコントロールとの嘘。嘘で固めた人生行路。
原発はコントロール出来てもバカ女房はコントロール能わず。

安倍にK-1イベントを誹る資格なし。

強いリーダーシップの大きな勘違いを恬として恥じない晋三クン。

「五輪延期」でカタがついたらその翌日は百合子姫の大号令。

これでグータッチの謎が判明する。
延期決定で、安倍は任期一杯の首相の座を確保。挙句、子飼いのNHK記者に「4選」と言わせる。
小池は自民と手を組み、再選を確実なものに。

オリンピックという自己の政治利用。

前日に「東京ロックダウン」を匂わせ、会見では「オーバーシュート」を連呼。外出規制。家をでることまからぬ、のお達し。
テレビで流れるや否や都内のスーパーは食料品確保のための爆発的買い物行列。
またも出現。買いだめで束の間の”安心“を得る都民の群れ。

そんな不安が「スポット効果」を呼ぶことは原発事故後の世相で体験済みなのに。

我々は3蜜の世界にいる。
換気の悪い密室空間を避ける。
人の密集する場所は避ける。
近距離での会話、発生する密接場面を避ける。

「密」の世界は「ミチ」の世界。同じ「ミツ」なら壇蜜がいいな。

安倍がまた無意味な会見をやっている。経済のV字回復を目指すと。
オリンピックの延期に未練がましい言葉を愚痴めいてのプロンプター会見。

自民党の族議員の集まりではバカバカしいことが言われている。
和牛券の発行、お魚券の発行。
実態が飲み込まれていないのだ。

政治判断とはなにか。それには重大な責任を伴うというのが憲政の常道。
格好付けはいい加減にしようぜ。

「ペスト」以来、人類とウイルスのことを考えている。勝敗ではなく、人類の歴史として。
きょうの記者会見でNHKの記者がしていた。
いつになったら終息するのか、その出口戦略はと。

バカだね、こいつら。
「コロナのことはコロナに聞け」。禅語の一つ「松のことは松に聞け」をもじる。無意味だけど。

余談。
安倍首相曰く「PCR検査を保険適用にした。これで全員が検査を受けられるようになります」。
あんな安易な発言はどんな口から出たのだろうか。
seiji

2020年3月22日日曜日

人の死せんとする、その言やよし。

論語にこういう一節がある。

「曾子言ひて曰く、鳥の将(まさ)に死なんとする、其の鳴くや哀し。
人の将(まさ)に死なんとする、其の言ふや善し。」

口語体にすれば、おおよそこういうことだ。
「鳥の死にぎわの悲鳴には、人の胸をえぐるような悲痛さがこもっている。
人が死を前にして言う言葉には、真実がこもっている」。

新型ウイルス問題が医療を含めて大問題になっている中、書かねばならぬことがある。
安倍晋三夫妻の“犯罪”の一つである、「森友問題」。
学校法人「森友学園」の国有地売却問題を担当していた財務省近畿財務局赤木俊夫氏が、佐川宣寿元国税庁長官の指示で決裁文書改ざんを強制され自殺に追い込まれた事件。

その遺書が週刊文春で「公表」された。

最後の手書きの部分。
“今回の問題は、すべて理財局が行った。指示のもとは佐川元理財局長と思います。最後は下部がしっぽを切られる。
なんて世の中だ。手がふるえる。怖い。
命 大切な命 終止符“


NHKの元記者の相沢氏が公表、公開に貢献した。彼の正義感とNHK内の“安倍内閣”との相似性。
彼は彼でNHKの内部を暴露する。
超本人は当時の東京の報道局長小池某。

官僚の「悪事」は安倍が国会での答弁で「私や妻がかかわっていれば、総理はおろか国会議員も辞めます」と興奮して喚いた一言。この言葉が悲劇の引き金。
官邸の指示か、財務大臣の指示か。

財務官僚は安倍の「狂言」を正当化するため、資料の破棄、改ざんに血道をあげた。その張本人が佐川。
赤木氏はいわゆるノンキャリア。キャリアの上級官僚から徹底的ないじめをうける。嫌がらせを受ける。「パワハラ」の典型だったような。

「公務員の犯罪」は地位や身分の乱用で起きる。保身のために起きる。

財務省に大阪地検が加担した。地検特捜部長は不起訴を決め、函館地検の検事正に栄転。また大阪地検の次席に舞い戻りの出世。

例えば元TBS記者の山口某の強姦問題。
閣僚の相次ぐ不祥事。もみ消され不問に付され。

なぜ乗り切ってこられたのか。理解不能だ。
そして、安倍が言えば何でもまかり通る空気が国民にも伝染し、「意志を持たない民」が誕生している。

籠池側の訴訟はすべて棄却。籠池は有罪、佐川はお咎めなしの栄転。大阪地検特捜部長も前述のように栄転。

腐りきった日本の官僚組織の実態を物語っている。それが赤木夫人の“決断”で日の目を見た「遺書」。
奥さんは国と佐川氏に計約1億1300万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。

この提訴を司法はどう扱うのか。再び問う。

政治家の”犯罪“はこれまでも多々あった。司法が機能したと思えるものもあたし司法は死んだと思われるものもあった。

安倍内閣になってから、「司法」は無いに等しい三権の一つとなった。

森友事件、もう一つの問題は安倍夫人の言動、行動。秘書官とされていた
谷査恵子氏はすべてを知っている。しかし、今は異国の地に飛ばされている。



今、新型コロナウイルス問題で、世界は騒然としている。
このコロナ問題でもいきなり「一斉休校」を言い出したり。自分が言ったことの「負の連鎖」には気がまわらない。
面倒になってくると省庁に丸投げする。

コロナの問題からは手を引いてもらいたい。

森友問題。次は野党が佐川を国会の証人喚問に呼び出せるかだ。
もはや刑事訴追の恐れがあるためという言い訳は通用しなくなっているはず。

そしてメディア。
心ある記者には圧力を掛ける。東京新聞の望月 衣塑子記者はめげない。
閑職に追いやられる記者もいる。
前述のNHKの相沢記者はNHKを退社し、大阪の新聞社に身を置いている。
直近では朝日新聞の福島ともつながりが深い
青木 美希いう人は記事審査室に移動させられたこと。朝日新聞においておや。

遺書の公開を機に、この問題を国民は放っておいて良いわけはない。
官僚は誰のために働いているのか。政治家ではなく、国民のためのはず。そうでない現状は政治の仕組みが崩壊しているという事の証左。
国会は政治家が嘘をつく場所になり、官僚が公文書と言う事実を抹消する日本の政治。放っておいて良いわけがない。

それにしても「文春」。
田中角栄は立花隆の「田中角栄研究」で田中金脈を書かれ、児玉隆也の「悲しき越山会の女王」と相まって、世間の指弾を浴び、志半ばにして、潔く首相の座を去った。
これは月刊誌の文芸春秋。
今回の「安倍ゲート」は週刊文春。まさに「アメリカのウオーターゲート」事件をもじってだが。

今の日本のジャーナリズムを考える。考えて、また考える。

2020年3月11日水曜日

9年前と同じ「この国の姿」

今、新型コロナウイルス、COVID-19のまさに“パンデミクス”のような騒ぎに、日本はおろか全世界が慄いている。

今の社会構造は、原因は違うが、あの「3・11」の時と重なって見える。
それは、人間は、少なくとも10年前に起きた大惨事から何も学んでいないということ。
危機管理という問題から、目を逸らしてきたということ。
原発についていえば「事故は起こらない」という安全神話の中に身を置いてきたということ。

それを安全性バイアスと呼ぶかどうかはともかく、勝手に起こらないものとしてきた。原発事故は。
政府というものは、「調べない、知らせない、助けない」。そんな国の姿を9年間見続けてきた筈だが。
当時のこの国の姿はあまりにも異様であり、異形だった。

国は、常に“目くらまし”を図ってきた。それは今も続いている。
「復興五輪」とは何だ。その「イカサマ」に気付いているのは、事故の被害者である、強制避難の「罠」にはめられてしまった未だ6万人に上るという福島の「当事者」だけだ。

五輪のためについた「嘘」、アンダーコントロール。そのまやかしを気付かないふりをして、「聖火リレー」に血道を上げる一部の人。
端的な話、リレーのコースだけは整備され、除染も進められた。
一筋、裏側に入るとどうだ。「廃墟」という言葉しか浮かばない。
そして高線量地域がまだ存在しているということ。

廃炉の問題、汚染水の処理問題、崩壊された地域社会、家庭・・・。

アンダーコントロールというまやかしも、今度の「新型コロナ」ではNot under controlだ。

正しく知って正しく怖がろう。こんなセリフを何十回も聞かされた。
その「正しさ」が何を指すのかいまだもってわからない。

同じセリフを、「コロナ」でも聞かされている。テレビの向こうにいるタレント評論家、専門家という人たち。

「3・11」時も専門家が数多く登場した。登場させた。
そして、我々は“正しさ”が何か判らなくなり、右往左往し、デマに苛まれ、「一億総ヒステリー状態」の中に身を置いてきた。

曰く。
不要不急の外出は避ける。
外出時にはマスク必携。帽子必携。帰宅時には玄関先でコートをパタパタと払う・・・。町内会から貸し出された線量計で家の周囲を計測する。

そして生活の混乱。ペットボトルの水を求めての行列。
近くのスーパーから食料品は消えていた。
そしてガソリン不足。

1号機の爆発のテレビ映像に恐怖を覚えながら、生活の手段を考えていた。
あの日から数日間、どんな食事をしたか記憶が無い。

それが刊行されるかどうかは不明のまま、連載しているコラムの原稿を届けに行った。FAXもパソコンも使えなかったから。
慣れ親しんだ町はほとんど人はいなかった。どんよりとした空気に覆われていた。

デマのチェーンメールが送られてくる。もちろん“知り合い”からだ。
最初はデマと返信していたけど、労力がばかばかしくなり止めた。

やがてビッグパレットに富岡、川内の人たちが避難させられてきた。
何千人の「集団雑魚寝」。

あのころもし新型ウイルスが発生し、感染が拡大していたらどうなっていたのだろう。
あの時の光景に怯える。

そして2020年の今、放射能に変わりCOVIDO-19に人々は怯えている。
テレビは相変わらず「正しく知って正しく怖がろう」と言いながら、何が正しいのかの「解」は示せない。

おなじみの「風評被害」。それによる差別とイジメ。

当時は水が、ガソリンが無かった。放射能測定機器もなかなか手に入れにくかった。

今はマスク不足、トイレットペーパー、ティッシュペーパーの欠品。そして、医療体制。PCR検査機・・・。
もしかしたら、医療崩壊への危機。
高齢者の切り捨て。

今度のコロナウイルスの件、政権は事態を、当初は「甘く」見ていた。
拡大しないものとして。

官邸の危機管理。感染症の専門家はいなかった。結果厚労省に丸投げ。
「調べない、知らせない、助けない」の「論理」が働く。

そして、政治家は現場を知らない。現場主義の思考がない。
専門家も、“研究医師”だ。臨床医師が加わっていたのかどうか。
いわゆる刑事事件でも「初動捜査」が事件解決のカギを握る。
政治家はまずもって「初動」から間違えていた。
クルーズ船への長期拘留。患者を拡大させた原因の一つではないか。

武漢からのチャーター機での帰国。日本のホテルの中での滞留。
状況は大違いだ。

3・11時、政府は国民に知らせることをためらった。放射能を測定しても公開しなかった。

「危機管理」ということを政府はもっともっと真剣に考えるべきだ。
官僚機構や官邸官僚が的確な「民情」を上にあげないから、安倍の「独走」が世間を混乱させる。

原発事故当時の「非常事態宣言」はまだ解除されていない。理由はわからないが。そして「ウイルス」では「緊急事態宣言」。法に基づいた私権の制限も起こる。

だから、3・11は過去のことではない。そこから学ぶことを学ばなかった権力者の群れ。
そして、あまりにも似通った9年前と今。

2020年3月2日月曜日

覚醒しろよ、内閣記者会。

官邸の記者クラブ。内閣記者会とも永田町クラブと言われている。
そこに多少の出入りはあったものの、約20年間所属していたものとして一言書く。

今更ながらだけど、権力とメディアの関係。それは常に「緊張」がともっていてしかるべきだ。
記者が安倍に“同化”し、安倍の猿芝居に手を貸しているような今の在り方に今の政治の世界の異常さとメディア界の凋落を感じる。

2月29日の記者会見。記者会見というより安倍の演説会だった。
プロンプターを読み上げるしか能のない安倍。
言葉尻だが、万全を「マンゼン」と読んでいた。毎度の誤読。
そして、内容は形容詞を並べ立て、大方の人が周知のことを言っただけ。
全校休校の言い訳。自らが決断した。責任はすべて私にある。またも出ましたある種のヒーロー現象。

安倍内閣になってから、記者会見は自己宣伝の場に化した。
この日の会見は、国民生活を直撃しているコロナ問題について、各種の疑問に答えるべきはずの、特別な会見のはず。国民生活を大きく左右する重大な会見、長時間かけての説明ややり取りが行われるものとある種“期待”していた。
しかし、その期待は見事に裏切られ、いつもの会見と同じようなものだった。

“期待”は見事に裏切られ、空虚さだけが残った。
あれで「国民に対して丁寧な説明をした」とほざかれてはたまったもんじゃない。
記者会見を安倍が申し入れたのか、記者会側が申し入れたのか。
どちらにしても、安倍の独演会。

首相の記者会見は1時間というのが慣行だった。
記者会見は基本的には記者クラブが主催するもの。
確かに、事の是非はともかく、首相会見の前には各社の代表者会議というのがあり質問項目を決めていた。しかし、それは代表質問をする幹事社が何を質問するかをそうだんするもので、それは“当局”に事前通告されていたが、その他は「自由」だった。首相の答えが判然としないと、何回も重ねて質問する、いわゆる「二の矢、三の矢」を問うことも自由だった。
幹事社の質問があらかた終わると「各社、自由にどうぞ」と声をかけ、最前列のキャップをはじめ、後方の記者も質問を繰り出していた。

会見の仕切り役は当局ではなく、幹事社の意向によっていた。
会見の冒頭発言に15分も首相がプロンプターを見ながら喋り捲るなんて言うこともなかった。
佐藤栄作首相時の「テレビだけに直接話します。他は出て行ってください。やりましょう」というけんか腰。記者団は「出よう出よう」と席をたった。広い会見室で一人カメラに向かって話す宰相の姿はみじめだった。

今は官邸に置かれた内閣報道官という人が会見を仕切る。
一人一問という制限を課す。質問者は所属と氏名を名乗ってから質問してください。手が上がる。報道官はその人の名前を言って「どうぞ」という。
なんだい、知り合いじゃないか。ならば名乗らせなくてもいいじゃないか。

細川内閣になってから、彼がペンで記者を指して質問するという異様な光景がうまれた。
福田康夫内閣時、記者の質問に「あなたと私は考えが違うんです」と言わせたこともあった。

過日の会見はわずか32分で終わった。打ち切られた。強権発動。
記者席から「まだ質問があるんです」という女性の声が聞こえたが、一瞬の躊躇を見せるようにして安倍は会見場を後にした。

権力とメディアの間に自由闊達な応酬がないというのは大げさに言うわけではないが民主主義に反する。
そんな会見の在り方を了としたのは記者の側だ。「時間無制限一本勝負」。
今回の会見はそういう重大な会見のはずなのに。

32分で数問の会見しか行わず、それもAP通信の記者も含めての「出来レース」と映った。

記者会見の意味をなさない。それを許す内閣記者会の記者の、記者としての矜持。

例えばだ。専門家の意見も聞いて全校休校にした。それは、いつ、どんな専門家だ。その疑義は残ったままだ。それが彼のいう「丁寧な説明」なのか。

今日、国会で、参院予算委で「化けの皮」がはがされ始めた。
しかし、国会の場でも彼は言う。「質問通告が無いから答えられない」と。

官房長官の「懇談」では記者はレコーダーやスマホを籠にいれて差し出していたということもあったと聞く。

茶番劇のような会見があって、きょうの紙面は安倍批判。その乖離、甚だしくはないかい。

この日の会見の幹事社は朝日新聞とテレビ朝日だった。もちろんそれらの記者は知らないが・・・。

新聞協会で、記者会見の在り方のついて真摯に再検討する時期にきている。
32分の会見を了とするような会見なら、各記者の疑問に答えない会見なら止めたほうがいい。
叔父さんにならって、テレビカメラに向かってプロンプターを読みあげていればいい。

何人かの首相に執拗に質問をした記憶がある。
しかし、それで何らかの職務上の不利益を被ったことはない。

2020年2月28日金曜日

殿、錯乱状態にあらせられ。

まずは言葉の疑問から。
「全国の小中学校、高校を春休みまで、休業とします」。突然の安部の声明。
どのテレビを見てもスーパーで“休業”を“休校”とカバーしてやっている。
郡山市でも“休業”と通知を出している。
普通の感覚と知識を持った人は誰しも「休校」だ。
役所言葉に、業界用語として学校は休業と呼ぶのだろうか。

COVID-19の問題が起きてから安部政権は何も手を打ってこなかった。
対策費は150億円。他国は、国民の生命と生活を守るために億ではなく、兆の単位の国家予算を用意している。
甘く見ていたんだな。いや、今でもか。

クルーズ船の対応に失敗した矢先、新型ウイルスはまさに燎原の火の如く、ほぼ全国に拡散されている。
東北には感染者やいない、そう大見栄を切って、パーティーを行った秋葉首相補佐官の開き直り。東北にも感染者はいる。
福島にも21人。いずれも陰性だが。
それらを国も県も隠す。

万策尽きた格好の安部は毎日、「お仲間」の中に身を置いて、どうやら心の平静を保ってきた。
でも、それも限界。
お山の大将は力づくに出る。

「一斉休校」。

それが、市民生活にどれほどの影響が出ることなのかを認識する気さえない。
前日は「自衛策の要望」、翌日は「暴挙」。
その間に誰かと相談したのか?協議したのか?。そんな痕跡もない。
大胆に行きましょうと“進言”した奴がいたかどうか知らないが。

メディアと称するものが様々多様化した。
PCR検査を受けるのが陰性か陽性かの分かれ道。とされている。
しかし、その神頼みのような検査もなかなか、というかほとんど受けられない。
PCR検査の結果が唯一の物証とされる世間。

原発事故後、農産物は例えば農協にある検査機器によって「ND」未検出の測定結果を待たねばならなかった。
同じような光景だ。

地球上にはセシウムをいう放射性物質は常に存在する。「ND」と言っても数値は決してゼロではない。
“コロナ”、きわめて微細なウイルス。体内に一つでも残っていれば、いや、残るものだが、陰性が陽性化するケースもあり得る。

リハビリに病院に通っている。小学生の子供を持つ療法士は困惑していた。
奥さんもリハビリ療法士で仕事を持っている。休めない。
故郷、岩手県から親に来てもらい、家にいる子供の面倒を見てもらうかどうか腐心していた。

簡単に一斉休校と言うのは楽だが、そのことが与える影響は計り知れない。
看護師だってそうだ。今夜も家族会議が続くだろう。

医療の現場に与えるPCR検査のことも含めて、医師会会長の姿は見えない。
世界医師会の会長はどう考えているのか。

こんな一事をもってしても、医療崩壊がこれまで言われていた問題以外に始まっている。

きょうになって安倍の「カケ友」の萩生田文科相も強制ではなく、自主的な判断の要請だ、とかばい始める事態に。

何も手を打っていない、PCR検査も受けられない、などなどの批判が相次ぐ中、ついに安倍は錯乱状態になったようだ。
安倍の決定には専門家は関与していない。

関係閣僚会議の対策本部に、医学者、教育者、社会学者などなど、まともな専門家を加え、鳩首協議すべきことを独断でやる。
この国は、まったくもっておかしい。子供の将来のことが考えの中に入っているのか。いない。それは、それぞれで考えろという得意の丸投げ。

トイレットペーパーがなくなっていた。ドラッグストアに買いに行った。
ものの見事に棚が空。
デマが買占めの原因らしい。

医療は崩壊、社会構造も崩壊。教育も崩壊。中小企業も倒産。飲食店も閉店。株価は下がる一方。国そのものが崩壊していると言えなくもない。

ウイルスに責任があるわけではない。
つとめて、政治の責任、政治の不作為、政治家の無知、それらが絡んだ“複合汚染”だということなのか。

何がどう転がるか。数日様子を見るしかないのが悔しい。

2020年2月26日水曜日

静かに進行している「パンデミクス」

先月か、「不条理」について書いた。
カミユの「ペスト」、そのエンディングにはこんなことが書かれている。
“リウー(主人公の医師)はこの町から立ち上る歓喜の叫び(ペストは終焉したという当局の声明を聞いての)を聞きながら、この歓喜が常に脅かされていることを思い出していた。というのも、彼はこの喜びに沸く群衆の知らないことを知っていたからだ。それは、様々な本の中で読めることだ。
ペスト菌は決して死ぬことも、消滅することもない。数十年間も、家具や布製品のなかで眠りながら生き残り、寝室や地下倉庫やトランクやハンカチや紙束の中で忍耐強く待ち続ける。そして、おそらくいつの日か、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目覚めさせ、どこか幸福な町で死なせるために送りこむのである“。

カミユの「ペスト」は1947年に刊行されている。わずか70数年前にこんな「文学」があったということ。
現代の黙示録のような気がしてならない。

多分、同じ頃か、日本では結核菌が大流行していた。カラ咳をしている人は結核患者とされていた。近ずくなと大人から口を酸っぱくして言われた。結核菌は何処にいるのか何処からくるのかわからなかった。
結核患者への療法は「サナトリウム」というところに患者を隔離し、有効な治療薬はなかったはずだ。
いま、結核菌を持つ人は少ない。

これまで我々が知ってきた菌、ウイルス。インフルエンザがその代表だが、6つに菌に脅かされてきた。
そして7つ目が今回の「COVID-19」。新型ウイルス。

科学文明は進み、我々は便利で快適な生活を得るようになった。テレビのCMがそれを象徴している。しかし、生命体であるはずの「ウイルス」に対しては、その防御策や治療薬はまだ無い。AIによる豊かな生活とは無縁だ。

今度の「事件」」、数々の「わからないこと」が多すぎる。
“震源地”は本当に武漢なのか。カエルやヘビが感染源なのか。
ならば、なんで中国政府は化学工場を爆破するのか。

ダイヤモンド・プリンセスという豪華客船の怪。船籍や保有会社が最近やっとちょこっと伝えられる。船籍イギリス、所有者はアメリカ。

船長は船内の”録音・録画“を聞けば、どうやら日本人のよう。
船の中のことはすべて船長に権限があるとされてきた。
しかし、船長の「権限」はどれくらいあったのか。無いに等しい。

長期間にわたる船内での“隔離”。隔離は成功しなかった。蔓延に火をつけいるようだし、死者もでた。
大黒ふ頭に着岸後の検疫体制の不備。船内の“隔離体制”の不備。
下船は厚労省の指示待ちだという船長。

素人考えだが、すぐに全員下船させ、しかるべき隔離措置をとるべきだったのではないか。

メディアの特にテレビの問題。昼のワイドショーは何を考えているのか。
興味本位。その一言。それがテレビの存在意義か。
視聴者の不安をやたら煽ってはいないか。

感染と発症とは全く違う。しかし、テレビの扱いは感染、即発症。
もしかしたら、COVID-19はすでにして日本の中にも侵入していて、「仲間」の到来を待って、一斉蜂起したのかもしれないという”妄想“が湧く。
感染源の特定や感染経路の探索はもはや不可能。

いつ、どこに登場するかだれもわからない。
誰しもが「菌」の中にいるのかもしれない。

マスク(それはウイルス防御に役立つかどうかは別)の買占め屋が登場し、ネットで高値で売るという卑劣な輩がやはりいるということ。

消毒液も品切れ。これも買占めの対象か。

新型ウイルス事件が起きてから、これはつとめて「政治問題だ」と言ってきた。
しかし、政治は機能していたのか。していない。
今頃、なにやら指示を出す。

対策会議は政府だけ。学者など専門家は含まれていないようだ。
前日の専門家会議の提言は聞くに値するが、国の指針は遅きに失した。

肝心な「初動」が無意味であり、政治の「空白」が事を大きくした。
政治の要諦は「想像力」だ。想像力を働かせれば、先手、先手と手を打てたはず。

今日になって安部は「イベント中止」と言い出した。もう民間ではやっていること。
医療体制の構築、治療薬の開発。PCR検査も所管の保健所は逃げている。

国は、地方自治体に振る。保健所は医療機関に振る。
みんな責任回避だ。

原発事故の当時が浮かぶ。保健所に「ホールボディーカウンター」の検査に行けたのは、騒ぎがとりあえず一段落してから。

「お役所仕事」とは昔の人はよく言ったもんだ。

正しく知って正しく怖がろう、恐れよう。原発事故時に言われた“標語”。
どうやって正しく知るのか。国からの「情報開示」はなはだ心もとない。
正しく怖がっている。でも、どこへ行けばその不安は解消されるのか。

やはりあらゆることが、「不条理」にあり、我々は、その不条理にさいなまれている。

安部の野望だった東京五輪。五輪のことは夢のまた夢。中止するなら早いほうがいい。まともな関係者や選手には気の毒だが、諦念を持ってもらうのも政治の課題。ヘビの生殺しからの脱却。そうあるべきとも思うのだが。

新型ウイルスの蔓延は、今が盛りなのだ。

2020年2月8日土曜日

マスクは何処に消えた?

中国、武漢発の「新型コロナウイルス」。依然、世の中は騒然としている。騒擾状態といえるかも。死亡者も。

連日、ワイドショーは「専門家」を呼んで、さまざまな“見解”が伝えられる。

「正しく知って正しく怖がろう」ー司会者のご託宣。
今は、何が正しいのかわからない。正しいことを知る術はテレビだということか。

例えばマスク。手洗い・洗顔・マスクと言う。しかし、マスクにどれだけ“効果”あるのか。
「正しく知った」人たちは、日本人を含めた感染者の拡大とともに、マスク買いに走った。あっという間の品切れ。中国から「爆買い」に来た中国人のように、奪い合いのような光景は見られないものの、近所のドラッグストアでマスクを買えないで途方に暮れる母娘の姿を見て、入荷の見通しはありませんという店員の応対は冷酷にすら見えた。

マスクは必要不可欠なものなのだろうか。

WHOの危機準備担当局長は「マスク着用は感染予防にはならない」と指摘している。手洗いの方が効果的だという。
マスクは医療関係者などの間で、感染拡大を抑止する助けにはなるが、一般の人のマスク着用は必ずしも感染予防にはならない。咳など呼吸器症状がない人には必要ない。とも指摘する。
そしてその会見の中で「パンデミック(警戒レベルが最高度の世界的大流行を意味する)ではなくインフォデミック(根拠のないフェイク情報が大量拡散すること)が起きている。との見解を示した。

マスク不足に対しては、医療従事者などに優先的にいきわたるようにと警告。
買占めなどに警鐘を鳴らし、価格のつり上げにも遺憾の意を表している。

因みに、厚労省のホームページを見る。「マスクは、咳やくしゃみによる飛沫及びそれらに含まれるウイルス等病原体の飛散を防ぐ効果が高いとされています。咳やくしゃみ等の症状のある人は積極的にマスクをつけましょう。
一方で、予防用にマスクを着用するのは、混み合った場所、特に屋内や乗り物など換気が不十分な場所では一つの感染予防策と考えられますが、屋外などでは、相当混み合っていない限り着用する効果はあまり認められていません。
咳や発熱などの症状のある人に近づかない、人混みの多い場所に行かない、手指を清潔に保つといった感染予防策を優先して行いましょう。」と書かれていた。

これらが信ずるに足る正しい知識かどうかはわからない。正しく恐れることへの答えかどうかもわからない。

原発事故で経験した一部学者への不信。
国民の生命と安全を守ることへの無策ぶり。

9年前、「放射能汚染」が言われたとき、防護服を持たない(当たり前だが)市民の出来ることは、不要不急の外出は控える、外出時にはマスクをする。手洗い、洗顔、着ていった服は表ではたいて入る。

そう、公共機関からもマスコミからも“知識”を刷り込まれた。
日本列島の半分はマスク姿があふれていた。

でも、ドラッグストアでマスクは自由に買えた。

今回の「新型ウイルス問題」、いつの間にかマスクはどこにも売っていないという状況。
発生当時は中国から来日した中国人がマスクを爆買いしている光景をテレビは半ば揶揄するように報じていたが。
事が日本に飛び火すると日本人によるマスクの「爆買い」が発生。
目端の利いた奴は大量に買い込みネットで法外な値段で売っている。

スーツケース一杯にマスクを買っていた中国人を笑えない。
同じようなことをしているのだから。悲しいぜ。

ニュースというものは、大きなものほど真相はよく分からない。
情報はいくらでも作れるし、加工するのはもっと簡単だ。権威のある機関(例えば政府機関とか大新聞社とか大学教授)が発している情報だから信頼できるかというと、まったくそんなことはないことを、我々は経験済みだ。
自分の中の知性、リテラシー能力をフルに活動させる以外にない。
何が真相に近いのかを「総合的に判断」するしかない。

今の政府には、いやその他の権威には常の不信感を持っている
大体、感染源は何なのか。全く不明だ。

武漢の海鮮市場のウイルスが突然変異したとされてはいるが、こと中国のことには常に懐疑的なことが伴う。

新型コロナウイルスと呼ばれているものがどの程度の危険性を持っていて、自分の生活とどのように関係してくるか、そのリスクをどう捉えるか。
この「リスク」には、感染するリスクだけでなく、過剰反応してストレスをためたり、他者を攻撃したりすることで社会が乱れるというリスクも含まれる。現時点ではそうしたリスクに国は踊らされているような気がする。

日本政府は初動で後れをとり、変化に対する想像力を欠いていた。
大統領選に血道を上げるトランプのツイッターは黙したままのようだ。

来日が予定されている習近平主席に安部は気を使いっぱなしだ。
自民党の二階は都の知事に依頼して大量のマスクを中国に送らせた。

20年ほど前に話題になった本に「チーズは何処に消えた?」という物語がある。二匹のネズミと二人の小人が食べてしまったチーズの塊を捜し求めていく物語。
 小人のホーは、新しいチーズを探していく中で、迷路を駆け巡りながら、気づいたことを壁に記録していき、とうとう新しいチーズステーションを発見する。
 ホーは、自分が学んだことを次のようにまとめた。
変化は起きる。
変化を予期せよ。
変化を探知せよ。
変化にすばやく適応せよ。
変わろう。

消えたマスクを憂いながら、こんな物語を思い出していた。
今の世相や政治の在り方にどこか通じる気がして。

2020年1月28日火曜日

「コロナ」肺炎と「ペスト」そして不条理。

過日、運転免許更新手続きのため、運転免許センターに行った。
去年、自動車教習所で後期高齢者の講習を受け、「合格証」を貰っている。

いつものように手続きは簡単に終わり、交付と思っていたが、あにはからんや。
眼の検査が通らず、眼鏡を治して再度と言う羽目に。

確かに、1年ほど前から視力が弱っている実感あり。
白内障の疑いと、以前医師に言われたこともあったが、なかなかレザー手術の施設がある眼医者と遭遇できずにいたことはたしか。
しかし、かかりつけ医の言う白内障の症状は今の症状とはちと違っており。眼医者からはカリユーニという白内障の進行を遅らす点眼薬を処方され、使ってきたのだが。

眼鏡屋に行き、検眼を繰り返し、「遠視退化、乱視進行」ということで眼鏡を発注。出来上がるのを待つばかり。
たしかに、パソコンは見にくくなっている。

以上、近況。老いると言うことの悲しさ、面倒くささ。
新聞を読み、テレビを視ることにさほどの不自由さは無いが。

世を憂うることは多々あり。
政治家の堕落、メディアの日本語の使われ方。まったく話題にすらならなくなった拉致被害者の問題。懲りずにスーツの襟にブルーリボンをアクセサリーのようにつけている政治家を見ると、ひっぱたきたくなる。
拉致問題解決のための「行動」はどこにも見られないから。
被害者家族の横田一さんは入院中のままだ。高齢だ。

横田さんに何かがあった時だけ、メディアは騒ぐのだろうが。

拉致被害者家族にとっては正月もなにも無い。

中国の正月、春節。その直前に武漢で「疫病」が発生した。
患者は瞬く間に世界中に広がろうとしている。
得体のしれない中国と言う大国。
発生元の武漢を封鎖した。1千万員いた住民は“封鎖”の前に5百満人がすでに武漢を脱出していたが、今、約500満員が「隔離されている」言うこと。
最初は武漢の食品市場の動物が原因だとされ、人から人への感染はないとされていた。
しかし、感染源は果たして“動物”かどうか、今は解明すらされていない。

「武漢封鎖」のニュースに接した時、アルベール・カミュの「ペスト」という文学作品のことが浮かんだ。
始まりはリユーという医師が階段でつまずいた一匹の死んだ鼠。それが感染源。
リユーはそれが「ペスト」だと気付く。町はパニックになる。最初は楽観的だった市当局も慌てて対応に乗り出す。
アルジェリアのオランと言う市は外部と完全に遮断されると言うもの。

カミュはこの小説で人間の不条理を書いたというが、今のコロナウイルスの蔓延もどこか「不条理」に覆われているような気がする。

不条理か・・・。我々は常の如くにさまざまな「不条理」に晒されている。

日本に来ている中国人は例によって「マスク」を爆買する。中国ではマスクの販売を中止させる。

日本は武漢にいる在留邦人の帰国のため、チャーター機を飛ばすと言う。
明日帰国だと。

国会が開かれている。

もう政治家たちの嘘やごまかし、逃げにはうんざりだ。
職責も果たせず、国会議員ていうのは「偉い人」だと勘違いし、常に国民を愚弄している。

武漢発の「疫病」。世界経済をも混乱に陥れている。
交通網と言うことで言えば世界は一つだ。
中国の団体観光客を渡航制限しても、事は収まらない。

我々が出来ることは、身を守ることは手洗いと嗽だという。マスクがまたも高機能のモノも含めて売れている。
マスク、手洗い。あの原発事故当時の光景を思い出す。
「避難」と言う言葉からもあの頃を思い出す。
強制手段で避難を強いられた人たち。避難した後の一種の「隔離現象」。
未帰還地域では“動物”達が我が物顔に行動し、人のいない家の中には動物の死骸もあると聞く。
あれから9年・・・。

原発事故ほど不条理の最たるものは無い。
世界の最強国に成りあがった中国、それを「最怖国」と呼んでみたくもなる。

不条理とは何か、不条理とどう向き合うか。
もしかしたら、カミユの時代をはるかに超えた時代からの人間の永遠の課題なのかも。

2020年1月12日日曜日

年が明けたら戦争があった

「去年今年 貫く棒の如きもの」。高浜虚子の句である。

1秒という時間で年が変わる。今年は去年の延長であり、一本の棒によってつながっていると解するべきか。
「棒」とは時間なのだろうと考える。年が変わろうが変わるまいが、時間は流れる。方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして」という記述にあるように、時の流れだけは止まらない。
「時間」という代物は、頼んだわけでも無いのに勝手にやってきて、勝手に去っていく。
毎年のように思う事だ。

年が明けたら、「穏やかな正月」という願いもものかは、トランプは、イランの革命防衛隊のソレイマニ司令官をドローンで殺害した。
その端緒は去年の12月30日にある。
アメリカによるイランへの基地を狙った爆撃。そして米軍の反撃ともいえるソレイマニ襲撃。
イランは報復に出る。イラクの米軍基地をミサイル攻撃し、「第三次世界戦争」という言葉も脳裏をよぎった。
トランプのいわば「思いつき政治」がさらなる戦争を予感させたが、政権内の諫言をいれて、両国の関係はとりあえずは“落ち着いている”が。

とばっちりを食ったのがウクライナの民間機。イランのミサイル攻撃で搭乗していた176人が全員が死亡した。
誤爆だったとイランは釈明、謝罪。

「中東は火薬庫」という見方は今も続く・・・。火種は常にくすぶっている。
安倍は“沈黙”でやり過ごした。イランとは良好な関係にある。アメリカには楯突くわけにはいかない。
ゴルフ三昧で、何も語らず、時が過ぎるのを待つ作戦にでた。

そして、「戦闘地域」に近い中東に、自衛隊を派遣した。日本のタンカーを守るためにとして。
そして安倍は中東3国の意味なし外遊に出かけた。サウジ、オマーン、UAE。
「積極的平和外交」が何を指しているのか。
自衛隊の派遣に理解を求めるために、だそうだ。

またも夫人同伴だ。“私人”である限り、彼女の旅券は外交旅券では無いはず。
航空運賃の払うべき。
そんなことは誰も意に介さない。

アメリカ、イランの戦争勃発を懸念して、原油価格は高騰している。
株価も乱高下。

街のガソリンスタンドでは、すでにレギュラー150円になっていた。安いスタンドでも。

強固なナショナリズムが台頭し、定着化している。
7月からのオリンピック。
警備費を強化して総額3兆円のオリンピック。
カルロスゴーンの「国外逃亡」許したように、各所に“穴”がある。
オリンピックが無事に終了するのかどうか。
危惧の念はより高まる。

選手や関係者の「安全」を最優先させるため、市民生活は不便を強いられる。

しかし、何があろうと、少なくともテレビは、すでにして「メダル」の話題に血道を上げ、やはり、国威発揚、強固なナショナリズムを作り出すことに専念している。

「めでたさも中くらいなりおらが春」。一茶の句が身に染みる。


終わりと始まり

安倍政治が終わった。菅政治が始まる。「同じ穴のムジナ」の終わりと始まり。   ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカが書いた詩にこういうのがある。   “戦争が終わるたびに    誰かが後片付けをしなければならない    何といっても、ひとりでに物事...