先々週、学生時代の友人の訃報が届いた。あまりにも愕然として気力すら失せ、彼の事を思い、学生時代のことを思い、何もする気が起きなかった。
彼の名は小澤という。大学の新聞学会にいた。
中学・高校と新聞部にいた身としては、大学でも新聞部のようなところに入ろうとなんとなく思っていたのだが、何をどう間違えたのか音楽研究会なるところに飛び込んでしまった。
主因はその音楽研究会吹奏楽部の部長を中学の先輩がやっていて、「来い」と誘われたことによるのかもしれない。
彼と知り合ったきっかけは定かでは無い。新聞学会の部室に年中出入りし、近所の食堂や喫茶店によく一緒に出掛けた。
彼は足が不自由だった。すごく不自由だった。いつも転びそうな歩き方をしている。
並んで歩くと自然に彼の手が伸びて来て肩を貸すような具合になる。
それが二人、いや新聞学会の仲間達にとっては全くの普通の関係、姿だったのだ。全く苦にならないような関係だった。
彼は大学卒業後、科学技術情報センターに就職した。総理官邸から溜池のほうに坂をくだったところにそのビルがあった。
官邸界隈をうろちょろしていた僕は、時々彼の職場に顔を出した。
「ここは上は皆役立たずの科技庁からの天下りだ」と臆面もなく言ってのけていた。
福島に来てから彼ともだんだん疎遠になった。お互いそれを望んでいたわけではないが時の流れだ。どうしているだろうか。時々気にはしていたが。
一昨年脳梗塞を患い、歩行が困難になった時、彼のことを思い出していた。
御茶ノ水駅から大学までの坂を一生懸命下りてくる姿。
大学界隈をうろついた彼の姿。
彼の訃報を知ったのは弟さんからの手紙だった。肺炎だったという。発症したのが1月20日。悪化して行って亡くなったのは1月31日だったと言う。
1月20日、まさに肺癌の手術をして入院中だったのだ。亡くなった31日、翌日は僕の誕生日だった。再入院した時の病室がホスピス病棟。
そこでもなぜか彼の事を思っていた・・・。
彼の足が不自由になったのは高校くらいからだと書かれていた。原因も治療法もわからない疾患だったという。
彼の訃報はいままで人の死をさまざま見知って来た身でもあまりにも衝撃的だった。絶句だった。
このからから亭、ようやく再開にこぎつけたのに、2週間近く間を空けてしまったのはその衝撃の余波だった。
新聞学会の同級生だった奴をようやく探しだし連絡がつき、あらためて彼の晩年の様子を聞くことが出来た。
70歳まで杖を突きながらも勤務していたという。その後しばらくして体調がすぐれなくなり、療養施設で1年間手厚い看護を受けながらの最後だったと聞いた。
様子を聞いて気持ちの整理がついた。で、ブログ再開にこぎつけた。
彼の墓参はまだ叶わない。花を手向けてねんごろにと思えど果たせない。ただ頭をたれるのみだ。
もろもろ「死を想う」。特に桜花の季節を迎えるとなると・・・。
2017年3月28日火曜日
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