2017年3月11日土曜日

“帰還”するといえども

入退院を繰り返して、過日、ようやく帰宅となりました。
帰宅後もほとんどが寝た状態でした。

肺癌そのものはどうやら摘出成功のようで、傷もだいぶ癒えてきました。

問題は「痛み」だったのです。手術に伴う神経の損傷、あるいは過敏。
どうももともとこの種の痛みには敏感だったようで。

疼痛緩和のための入院が長く・・・。
とりあえずは“帰還”しました。
退院後も副作用を伴った痛み止めを服用中です。
薬には相性があるようで、そのクスリにたどりつくのに時間がかかり、痛みは緩和されつつあるも副作用の症状もろもろ。

最たるものが眠気とだるさ。よってほとんど寝ているといったような状態で。

パソコンに向かう気力とてなく、無気力、怠惰のみの後期高齢者だったのです。

きょうばかりは「からから亭日常」を復元させねばなりません。
「3・11」後、「仮設が無くなるまで毎日書き続ける」と豪語しました。

一昨年の脳梗塞でそれが途絶えました。その後はご承知の通り。数日おきであたり週刊のようであったり。そして今回の途絶状態に至り・・・。

慙愧に耐えないのです。

きょうでまる6年です。きょうだけは書かないといけないとおもい慣れない手付きになりながらキーを打っています。
思考能力も大幅低下のようですが。

6年を一括りで語れる言葉なんて持ち合わせていません。
それぞれの6年があったのですから。

それぞれの人がそれぞれの思いで、置かれた場所であの日に思いを馳せると言うことでしょうか。

どんなに言葉を並べてみても、6年前のこと、その後の6年間のこと。語れるものではありません。被災した当事者ではありません。
しかし、一人の人間として、福島県に居住するものとして、考えることは山ほどあるのです。

一生、考えて行かなければならないことばかりです。

原発事故を含め、3・11は人のこころを大きく変えました。良いとか悪いとかではなく。

3・11は「分断」と言う言葉を如実に示してくれました。特に、放射能にまつわることどもは県外・県内の分断。県内どうしの分断、被災者、避難者同士の分断を招きました。

「人間が分断される」。

光景が変わったところもあれば変わらないところもある。
しかし「フクシマ」にあっては多くの事が変わった、変えられてしまった。ということになるのです。

単に6年と言う時日が経過したに過ぎないかもしれません。しかし、6年を契機にいろいろなことが変わろうとしているのです。
変わらざるを得ない状況が作り出されているのです。

最たるものが「帰還問題」です。今月中に一部の帰還困難区域を除いて、その動きが加速されます。
大きな選択を住民は迫られます。

病気を経験した者から言えば、医療機関が全く整備されていないところへの帰還は大問題なのです。
帰還者の多くが高齢者であると言われることからしても尚更のことなのです。

除染やインフラ整備。或る程度改善されたといわれます。
医療機関への言及はあまりありません。
住民へのアンケートによればそれが一番の関心事・問題事なのですが。

極端に言えば、病院が無いということは生きる権利の剥奪でもあるのです。

6年・・・。新たな軋轢が始まる時とでも言えましょうか。
県外避難者への支援打ち切りに始まって・・・。

6年と言うのは歴史の通過点です。

悲劇を悲劇として捉える。そんな「素直な感性」がより求められてくるのです。

東芝の例をもってしても原発事業は儲からない。あの大企業の存立すらあやうくしている。アレバ社だってそうだった。

原発は経済成長や”豊かな暮らし“に逆行している。素直な感性の中で、そのことを考え直すための6年と思ってもらってもいい。

もろもろ、6年以降は、新たな困難の始まりだ。
そんな気がしてもならないのです。

とりあえず力尽きました。きょうはこの辺で・・・。
「復活」する考えですので。

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