2018年3月30日金曜日

「無責任の体系」ということ。

政治学者丸山真男の著作の中に「無責任の体系」という言葉がある。
かつての軍国主義時代のこの国の統治システムを言い表したものだ。

極東軍事裁判で「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、かって朝鮮総督であった官僚は「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」と答えた。

丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的に大きな力にひきまわされる精神」と分析した。そしてそれを「無責任の体系」と位置付けた。

 この「無責任の体系」という言葉は、大きな事件を起こした組織が幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われた。

 丸山真男は「無責任の体系」の構造として、上位から「神輿」、「役人」、「無法者」の三つの類型を置き、軍幹部や佐官、民間右翼らはそのどれかに当てはまると書いている。

さしずめ、今の統治機構に当てはめるなら、神輿は首相であり、無法者は安倍信者たちかもしれない。

今、二行か三行に行間を空けて書いている。それは典型的な「官僚文書」の書き方だからだ。
行間は上司や決裁者の手直しが入れやすいように考え出された書式を真似てみた。

森友問題、佐川の証人喚問、予想通りの結果だった。“刑事訴追の恐れ”という逃げ口上の連発。
かつての“記憶にありません、ございません”の連発が思い起こされる。
証人喚問と言う立法府の持つ国政調査権行使も“抹殺”されたに等しい。

証人喚問の宣誓文と補佐人と言う名の弁護士の入れ知恵で連発される答弁にはあまりにも乖離がありすぎる。

真実は語られていないという事。

専門家と称する人達がメディアで「解説」らしきことを言う。
国民感情とは、それは、かけ離れている。

国は「専門家」によってなりたっているのではない。あくまでも国民大衆によってなりたっているはずだ。

政治家は政治の「専門家」だろうか。違う。
マックス・ウエーバーの言葉を借りれば「職業としての政治家」だ。

国民は選挙と言う民主主義の原則で、政治家の首を切ることは出来る。だから常に己の保身を図り、その「職業」が無くならないように意を用いる。

官僚の首を切ることを国民は出来ない。首を切れるのは政治家だけだ。だから官僚は国民の意向をさほど気にしない。身の保全は左右されないからだ。
生殺与奪の権を握る政治家にだけ、政権にだけ尻尾を振る。

無責任の体系の無責任たる所以だ。
「公文書の棄損、改竄は日本の政治史に残る悪行だ」。小泉進次郎をして言わしめた歴史の改ざん。それが、歴史の隠ぺい、改竄が日本の歴史を正史としなくなっている。

日本語を読めない、使えない政治家が教育を語る。笑い話にもならない。
麻生太郎という男はどこまで「バカ」なのだろう。
「T PP」のことを森友ばかり書いて日本の新聞は書かないと言い切る。そんな新聞に存在価値は無いというようなことを断言する。

無知も甚だしい。ちゃんと大きく書いているではないか。
大臣の机の上には毎日大量の新聞の束が置かれている。重要な、その省庁に関係する記事は秘書官が、事務官が付箋をつけている。

麻生が辞めるとか辞めないとか、無意味な政局記事に労力を費やすより、彼の発言がいかに無知であり嘘であるかをもっと書くべきだ。
マスメディアまでが無責任の体系の中に組み込まれているこの国。

ほんと、国民が覚醒する以外にこの国は取り戻せないのではないか。

怒りに狂いながらの日々。脳梗塞の後遺症でリハビリに通っているが、最近腹が異常に膨らんできた。運動しないからだ。自己責任だ。他人任せのリハビリではダメなのだ。自らが努力しないと。
僕は「無責任の体型」の中にある。そう自覚することしきり・・・。

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