2019年6月9日日曜日

“暴力的“な社会、あるいは世間

しばらく入院していました。脳梗塞のリハビリ、あらゆる検査。
白い天井を見上げながらいろんなことを考えていました。
忍び寄ってくる老い。その身が何をどう考えて生きていくのか。
つまり老後をどうやって生きていくのかということかも。

病院で登戸の“通り魔事件”を知り、農水省事務次官の子供をころしたことを知りました。
まだ、それを自分の中でどう整理し、考えればいいのか。一言では言いきれず、確たる考えもみつかっていません。

あの時、瞬間的に頭をよぎったのは、これは「8050問題」の象徴的事件だ、ということでした。
高齢者の運転事故が連発しました。凄惨な事故。
これでもか、これでもかと言わんばかりのテレビの放送。

入院中、家内は「買い物難民」になっていました。
家から数百メートルにあった「スーパー」が唐突に無くなってしまったからです。

帰宅後買い物に来るまで行きました。
高齢者の交通事故。それは自己催眠、自己暗示の世界に導いてくれる物でした。
完全に自己を「萎縮」させてくれました。

自動運転の電車、横浜シーサイドラインで機械の故障による逆走事故がありました。人間の運転に運行は変わりました。
人間が運転する自動車は機械が運転する車に取って代わられようとしています。
嗤える出来事、世相。

おかみはタクシーを使えと奨励します。免許証を返納しろと迫ります。
しかし、その乗務員は大方が「高齢者」です。
安全のためにタクシーを使う。しかし、そのタクシーが事故を起こす。
嗤てはいけないけどやはり嗤える。

少子高齢化はますます顕著になってきています。
それが顕著になってきた30年前から、国は無策の策すらも取ろうとして来ませんでした。無策、不作為が与えた影響は大なるものがあります。

戦争だけではなく、形を変えた暴力はいつの時代にも存在します。

死語になったような言葉に「交通戦争」というのがありました。
あおり運転という暴力。それを警察は大方罪に問いません。
半ば公然とあおり運転と言う行為がまかり通っている感じがします。

形を変えた暴力。公害や原発事故。それらの事象は国が推進してきたものです。
貧困・差別・偏見。我々の社会は、そんな構造的暴力の上に成り立っています。

そんな暴力、罪科から抜け出す方途はないのでしょう。
2千万の蓄えが無いと老後は過ごせない。責任を放棄した「おかみ」の言い分です。
数年前には「人生百年安心プラン」などというお題目で人気取りはかった政権。

幼子や乳呑児を殺める「親」。施設で殺される高齢者。
そんなこんなの出来事に行政はあまりにも無策すぎるし、自分たちが果たすべき役割を認知せず、叱責の声が頭を通り過ぎるまでとりあえず頭をさげてお詫びだけはしてことを済ませようとする風潮。

「人類に与えられたことの全てには為政者が、政治が関わっている」。

テレビのワイドショーのコメンテーターと称する人の中に、キチンとした時代認識をもって語れる人がどれほどいるか。
大方は“ギャラ稼ぎ”の感情論ばかり。

それでも懲りないテレビ。
お前らいつまでも正義顔してんじゃねえよ。

見えないものを見る眼を養ってくれよ。ネット礼賛から引いてくれよ。
いつの頃からか蔓延しているミーイズムの発想。

暴力的社会構造は「平成」という時代から引き継がれている「政治課題」なのに、それが国会で議論されたと言うことは未だ聞かない。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...