2020年6月25日木曜日

「カオナシ」の国

新型コロナウイルスの感染拡大は、とりあえず収まっているようだ。
第二波、第三波が来るのかどうか、それは何時、何によってか誰も判らない。
そう、COVID-19に関しては「誰も、何も判っていない」、いわゆる専門家と称する人たちだって。いわんや政治家に於いておや。

「コロナ」が起きてから、いろんな言葉が、カタカナ語を含めてお上から、メディアから発せられ、時には戸惑うものもある。

ソーシャルディスタンスという言葉もその一つ。「新しい生活様式」として要求される条件の一つ。この言葉は間違っている。それには、人と人との間の距離を言うのでなく、人間関係の中での距離、いわば「差別」を内包したものだからだ。
ソーシャル ディスタンシング、いや、フィジカル ディスタンシングというべきだ。

行動変容という言葉もその意味がよくわからない。
カタカナ語を含め、意味がよくわからない言葉の乱用が事をより複雑化し、混乱のもとともなっていると考える。
不要不急の外出という「言葉」だってそうだ。
何が不要で、何が不急なのか。戸惑う。

「新しい生活様式」の中には、疑問を感じることが多い。
その一つが「マスク」のことだ。

いま、マスクを着けていない人は居ない。全国民がマスクで顔を覆っている。
顔の見えない人だらけだ。顔が見えないということは人間本来の“コミュニケーション”がとれない社会だ。

名古屋の東山動物園の企画官、上野吉一さんはこんなことを言っている。
“口元というのは表現の道具です。例えばチンパンジーは怒ったら歯をむき出し、うれしい時は口が半開きにゆるんでます。
離れたところからでも顔で感情を伝えています。
人間の表情筋はサルより発達しています。その半分がマスクで隠された状態で、目の動きからどれだけのことを読み取れるのか。感染対策とコミュニケーションの質を両立させる社会的デザインが必要だ“と。

国会の本会議。議席に演壇に議長席にいる人たちは全員マスクだ。
記者会見した野党の党首はご丁寧にもフェイスガード姿で登場してくる。異様な光景だ。議員の中に“感染者”がいるということか。

テレビでは連日のようにマスクの効用の話題を科学者交えてしている。
感染者の飛沫がマスクでどれだけ飛散をふせげるかというような話し。
透明なアクリル板の向かい側にいるマスクを着けた人、つまり、マスクがウイルスの飛沫を、菌その物を防御するかどうかの議論や実験は無い。

宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」に「カオナシ」というキャラクターが登場する。
真っ白な仮面で顔を覆っている。
宮崎監督は「カオナシは誰の心にも存在する」という。
「主体性が無く、居場所も無く、拾い物の他人の言葉でしか喋れず、金品を貢ぐ以外の他人とのコミュニケーションがわからず、拒絶されたと思いこむとキレて暴れだす」ような存在だと位置づけている。

「カオナシ」は“新たな日常”説く人なのかもしれない。いや、「今の世の中はカオナシ国」なのかもしれない。

新たな生活様式のことでもう一つ。
いわゆる「自粛」なるものがいう行動規制はだいぶ緩んできた。この自粛なるもの、医学と経済のせめぎあいの中で、主役であるはずの人間一人ひとりの行動や心理に対する「視点」が全くない。
たとえば料理を提供したり、一緒に食べるという行為は、それ自体が極めて人間的だということ。
共食は人類に共通で、それによって食文化は発展してきた。
集まった人たちが同じものを食べながら時間や場を共有することで無意識に“関係性”が築かれる。
食べるということは胃の腑を満たすだけでなく、コミニュケーションとしての意味も大きい。

もう一つ、外国の大学の研究班のレポートを読んだ。
イギリスのイースト・アングリア大学の研究チームのレポートだ。
“休校や大規模集会の禁止、一部サービス業の営業停止は、感染症の拡大抑制に効果はあった一方、外出禁止や生活費必需品を扱う店舗以外の営業停止は、感染者数や死亡者数に顕著な効果は認められなかった。また、公共の場でのマスク着用の義務化にも特段の効果は確認されていない”と書かれている。

「カオナシ」には眼だけは書かれている。
マスクは息苦しい。しかし、着用を怠ることへの「世間の目」の方が怖い。

自粛解除によって安倍は“夜の街”に出歩くようになった。
コミュニケーションンを図るための夜の会合の場が、部屋が、どういう設えになっているのか。
知る術も、知る由も無い。

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