2021年1月28日木曜日

「知恵を出せ、知恵を」彼はしばしば口にしていた

 

今年最初の投稿です。体調ままならぬまま年を越し、はや2月が目前。

圧迫骨折の後遺症は強烈であり、だんだん背骨が湾曲してくるという具合。

椅子の背もたれに背骨が当たるだけで痛い有様。痛み止めと共存するのは情けない状況なのです。

 

政治は政治の態をなしていません。

コロナ禍は、政治の貧困を露呈させてしまった。

政治に知恵が無くなった。

国民と政治の間に信頼関係が無くなった。

 

現役時代の彼との交流、彼の言動、行動が様々思い起こされている。

まさに「過去への旅」をしているような。

彼とは田中角栄の事。彼が好んで使った言葉に「決断と実行」があった。

 

昭和40年代の事。政治の中心課題に「本四連絡橋」の問題が大きく横たわっていた。

神戸―鳴門ルート・児島―坂出ルート・尾道―今治ルート。

その3ルートを巡り、どのルートを選択するか。地元の政治家、首長らを筆頭に、連日のように世論もマスコミも沸き立っていた。

 

昭和45年だったと思う。いつものように朝、目白の田中邸にいた。陳情客をさばき終えた後、朝周りの記者が呼び込まれる。

応接セットに皆が座り終えた時、彼がおもむろに口を開いた。

「本四架橋は3ルート同時に着工する」。驚いた。彼の話は続く。

「どれかのルートを選べば、隣接県からの“恨み”が残る。

政治は公平であるべきだ。キミらもいろいろ言っていたが、知恵を出すとはこういうことだ

いがみ合っていたのでは日本のためにならない。」

田中政治の一つの真骨頂だった。

 

その3ルートは、明石海峡大橋、大鳴門橋・瀬戸大橋・瀬戸内しまなみ海道と呼ばれ、人々の往還が日常化されている。

 

今の時代に通用するような話も一つ。

話のきっかけが何であるかは忘れたが、彼はこんなことを言った。

「君たちは我々を批判することが仕事だ。どんどんやればいい。わしらはその批判に負けないような政治をすること、それがわしらの仕事だ」と。

 

彼が総理大臣の頃、記者会見は概ね1時間だった。幹事社が各社の意向を取りまとめ、その内容は秘書官に通知した。「出来レース」はそこまで。あとは最前列の各社のキャプクラスが自由に質問した。官僚の司会者もいなかった。まして、追加質問は認めないとか、一人一問とか、当局側が質問者を指名するなんてことはなかった。活発な議論があった。答弁が飽き足らないと二の矢、三の矢を放つのも自由だった。

今はどうだ。特に安倍以降・・・。

各社の質問を認めます。指名します。報道官と呼ぶのか広報官と呼ぶのか、その人の裁量に任されているようだ。よくよく見ていると、答える首相は常に紙を見ている。質問内容はすでに手渡してあり、その人を指名すると言った具合の”猿芝居”会見。

「後に予定がありますからあと一問で」。

 

記者会見とは政府と国民との仲立ちをする重要な予定なのだ。首相は記者が納得するまで答えるものなのだ。

 

アメリカの政権が変わった。報道官も変わった。サキ報道官の記者会見は時間無制限だそうだ。

ドイツの首相のメルケルは国民に不自由な生活を強いる会見時、メモも見ないで2時間真剣に話しかけたという。

ニュージーランドの女性首相も毎日記者会見を行い、全ての情報を国民に開示したという。

 

田中角栄なら、今のコロナ禍にどいう対処をしただろうか。

対策を小出しにして、後手後手を踏むことは無かったろう。

想像力を働かせて「知恵」を振り絞って、1年前のコロナが蔓延する前に、大きな「網」を被せていたのではないか。

国家の緊急事態が予想される中、「自分の言葉」で連日のように国民に話しかけけていたのではなかろうか。

 

コロナは人災である。しかし、その指導者は余りにも心もとない。

その指導者の下で生命すら左右されかねない。

我々の現在地だ。

 

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