敗戦後,転々と居が変わり、落ち着いたのが初台の家だった。
食糧事情がやや良くなり、一家は丸い卓袱台を囲んで夕餉をとっていた。
“家長”は祖母だった。
「ご飯は黙って食べなさい」が家訓のように言い渡されていた。
隣に座っている弟は奇妙な特技の持ち主だった。
黙々ともぐもぐとメシを食っている時、なぜか突如居眠りを始めるのだ。妹とそれを見ながらクスクス笑っていると弟めがけて祖母から箸が飛んでくる。
「ご飯の最中に寝る奴がいるか。起きてちゃんと食べなさい」。
子どもたちで無意味な、しかし、楽しいおしゃべりは禁止。胃の腑を満たすためだけのような食事は眠気を催し、睡魔の誘いには勝てないということだったのだろうか。
こんな子供時代の些細な出来事を思い出したのはコロナ禍での“食事の作法”が云々されているからだ。
いやだな~。マスク装着・黙食(誰が名付けた知らないけれど)・密を避ける。
コロナ時の「三大神話」。政治家や専門家なる人がこぞっていう。これって正解なんだろうか。
政治家がどれほど事を知っているのだろうか。
専門家とは何だ。学者か研究医か臨床医か。
揃たように「飲食が、飲食が」という。会食は4人までという。5人になったらダメ。4と5と間に何の差があるのか。
折しも厚労省の役人による、23時過ぎまでの23人による大宴会が東洋経済に抜かれた。
「自粛・自粛」がお上の方から連呼される。テレビはお上の広報機関に成り下がっている。そんな中でのこの報。か当たるべき言葉もない。
下々に自粛という名の強制を強いながら国は何をやっているのか。誰しもがそう思う。官僚は世間をなめ切っている。
我慢にも限界がある。
オリンピックの聖火リレー。沿道の観衆はまさに「密」だ。可笑しさ満載ながらスポンサー企業の大型バスが大音量で先導する。だれも咎めない。
リレーは粛々と進んでいる。
「書を捨てて、街に出よう」。だって“偉い人”がやってるじゃん。
密になって街で歌おう。花見は駄目でもオリンピックなら許されるらしいから。
自粛をやめよう。花の下で酔おう。
コロナ患者が増えるぜ。患者の収容できる病院は所管は厚労省なのだから。
何故か知らぬがコロナは元来厚労省の所管のはず。それが新たにコロナ担当相は経済再生相にされ、ワクチンは河野太郎に。
厚労省、メンツ丸つぶれのまま現在に至る。厚労省の「意趣返し」の飲み会か。
ワクチンはとてもじゃないがいきわたっていない。
コロナ専用病棟やエクモなどを十分に担保した病院をつるべきだ。それが政治というものだ。
東京発のテレビ。棒グラフは見飽きた。ワイドショーは一億総コロナ評論家
都会には海の生物が出始めたらしい。「まんぼう」。「ドクトルまんぼう」は北杜夫。病院の理事長と嘲笑しながら話し合った。
この病院にはワクチンは来ていない。“医療従事者”も接種できない。
看板倒れとは我が国のワクチン政策をいうのか。
自宅での“黙食”の頃から10年ころか、この国には高度経済成長なる「化け物」が到来した。人々は喜んで文明の真価を享受した。
「一家団欒明るい夕食」。食事と笑い声が重なり合っていた。
当時の専門家は軒並みご託宣。「楽しい食事が健康のもと」と。
「人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない。科学はかつて我々に止まることを許してくれたことがない。」
夏目漱石の言葉だ。