2017年5月27日土曜日

官僚たちの“反乱”

かつて中曽根内閣時、官房長官には後藤田正晴が起用された。
後藤田は就任要請を固辞したが、国のために身を投げうつという思いで就任を受け入れた。

中曽根も後藤田も旧内務省の官僚。しかも後藤田が先輩。二人きりの時は後藤田は「中曽根くん」と呼び、中曽根は「後藤田さん」と呼んでいたと言う。

自論の憲法改正、自主憲法制定を表の議論に持ち出そうとする中曽根を後藤田は強く諌めた。国民の多くはそれを望んではいないと。
その進言を入れ、中曽根は憲法論議を“封印”した。
中曽根は長期政権を築いた。

かつて城山三郎の書いた「官僚たちの夏」という本があった。テレビドラマにもなった。
主人公のモデルは佐橋滋。ミスター通産省と呼ばれた男だ。
彼を含め、時の通産官僚はこの国の産業政策がいかにあるべきかについて知恵を出し合い、時には言い争いにもなったが、常に念頭にあったのは国であり、国民だった。政治家にも立ち向かって行った。この本はノンフィクションだ。

そんな時代もあったということ。

今、安倍1強政権と言われている。彼が何かに秀でている訳でも無いのに、そんな政治状況になっている。
安倍の側近として、安倍を支え続けているのが菅官房長官だ。
究極の「イエスマン」だ。

森友問題と加計問題はその「構造」が全く同じだ。酷似している。
安倍をとりまくこの国の「構造汚染」だ。

“天下様”の御意向に服従する官僚。それこそ白を黒と言いくるめる官僚。
国益よりも私益を優先する官僚。
かつて官僚に付されていた「公僕」という言葉は安倍の辞書から消された。

加計問題を巡り、安倍の意向を受けた、あるいは忖度した内閣府と文科省の文書。
前の事務次官が「反旗」を翻した。どこかに官僚としての意地と経綸を持っていたからか。

彼の行動を「官僚たちの反乱」と位置付ける。彼に賛同する官僚たちもいるからだ。

菅はその文書を怪文書とし、無視を決め込もうとしている。最近、テレビに映る菅の表情は醜さを増しているようにも見える。表情は全く冴えない。

おかしな理屈を官邸や自民党は言う。退官したのだから民間人だと。
現職で有ろうと退官した身であろうと、言っている“事実”には変わりはない。

もし官僚が入省時に「官僚とは」というまともな教育を受けていれば、政治家の言うがままに動くことは無いはずだ。

今の自民党の国会議員はまともな教育を受けていない。まともな人間は育っていない。“教育機関”であった派閥が無くなったからだ。

ある時期、派閥解消は「天の声」のように叫ばれた。マスコミもこぞってそれを主張した。

現代政治史の逆説的悲劇だ。

福島県会津若松市出身の政治家で伊東正義という人がいた。東大卒の官僚経験者だ。
農林省にいた時代、時の農林大臣河野一郎に歯向かったこともある。
後年、竹下内閣が退陣した時、自民党総務会長だった伊東に「後継」の要請があった。伊東は固辞した。
「本の表紙を変えても、中身を変えなければだめだ」。中身とは自民党の腐敗体質を指している。

会津藩士の末裔だ。会津に今も語り継がれる「什の掟」。その結語は「ならぬものはならぬものです」。

因縁めくが長州藩の血を引く安倍晋三は、このことを、この史実を何と聞くのだろう。

“怪文書”扱いにするのがおちなのだろう。

敢えて言う。今の無能な議員達の集団である自民党がなぜ生まれたか。
「自民党をぶっ壊す」と豪語し、選挙で大勝し、なんら抱負経綸を持たない“素人議員”を誕生させてしまった小泉純一郎にその責任の一端があると。

だから「他に適任者がいない」という項目に丸をつけてしまう有権者が多数存在すると言う世論調査の結果。

蟷螂の斧があってもいい、いや、あるべきなのに。

2017年5月23日火曜日

僕は「コッペパン」で育った。

「無信不立」、信なくば立たずという論語の言葉がある。政治家が好んで“座右の銘”と言って“格好つけ”に使う言葉だ。

今の自民党議員の多くは座右の銘に「晋なくば立たず」としているのだろう。

共謀罪、改憲、語るに落ちている。

北朝鮮のミサイルで大騒ぎだ。
Jアラーとは鳴らないが地下鉄は止まり、徒歩の避難訓練なるものが“正気”で行われている。

“狂気の沙汰”にしか思えないのだけど。

北朝鮮のミサイルが「正確」なら、そして日本を狙うなら、その目標は首都でも、米軍基地でも無い。

原発施設だと思っている。

弾頭に「サリン」を載せているとかなんとか”煽り“はあったが、「原発」とは誰も政権内の人間は言わなかった。

もし、日本でテロがあるとすれば狙われる可能性の大きい施設は「原発」だ。
「原発テロ」をたくらむ奴らを「共謀罪」で“防止”できるのか。

東京ブッラクアウト・原発ホワイトアウト。

横暴を極める安倍政治。知性が完全に欠如している政権内部。

教科書検定のことを思い出した。
「パン屋」とされていた部分は”異論“が出され、「和菓子屋」に替えさせられたという。

僕が小学生の頃、給食は必ず「コッペパン」だった。おいしいのか、まずいのかわからなかったし、覚えてはいない。マーガリンが付けてあったような気がする。

商店街にパン屋さんはあったけど和菓子屋さんはなかった。
米は配給制、米穀手帳がいわば“身分証明書”。
外食券食堂がやがて出来て行ったが。銀シャリに味噌汁、タクワンふた切れ。

昼飯は、給食は食べられたのだ。コッペパンで僕は育ったのだ。
「コッペパン」には幼少期の郷愁が染みついている。

なんで「パン屋」が教科書から排斥されるのか理解不能だ。

国会には暴言居士が渦巻いており、教育の「片鱗」すらうかがえない。

共謀罪で国会は騒然としている。その必要性もぼくにはさっぱりわからない。
一応「一般人」と書いた名刺は持ち歩いているが・・・(笑)

「人は一般的に内容よりも外見で判断する。内面で判断できる洞察力を持つものはマレである」。ルネサンス期のイタリアの政治思想家マキャベリの言葉だ。

彼の有名な著作「君主論」。それをどう読み下し、読み解くのかは難しいところだが、これにならって“マキャベリズム”という思想が生まれた。

“どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定される”というものだ。

安倍は「君主論」の良いとこどりをしているのかもしれない。もちろん、その本を彼自身が読んではいないだろうが。

2017年5月21日日曜日

やがて美味いコメが出来るのだ

裏の田んぼに水が入り、どこからともなく鴨が来て水の中の餌をついばむ。
カエルの合唱が始まる。

先日、6面の、界隈のいくつかの田んぼで田植えが行われた。稲が植えられた。褐色の水面に若い緑が彩りを添える。

稲は瞬く間に育っていく。カエルの合唱も大きくなる。

大好きな待ちわびた光景、季節。

福島のコメを思う。

「3・11」前には福島のコメは出荷量で全国の上位を占めていた。
原発事故後、それは激減した。
品種改良も進み、「天のつぶ」という新銘柄米も生産されているにも関わらず、福島のコメの出荷量は減ったままだ。

作付面積を減らした農家もあれば、農地を“転売”した農家もある。

近所の農地も宅地転用された。そこには家が建った。帰還困難区域の人たちが数軒。町内の光景が変わっていく。

聞くところによると、その農家は
高齢になり、作業が辛くなった。後を継ぐ“若者”はいない。やむを得ない事情これありだと。

耕作放棄地となった田んぼもある。毎年、老夫婦がなにやら”口争い“をしながら田の手入れを行っていた。
今は、その”持ち主“の姿も見かけない。

福島県産のコメは「全袋検査」が今でも行われている。すべてがND,放射性物質未検出。

福島県産のコメはなかなか食卓にはあがらない。いまだに忌避されているようだ。

そのコメを忌避する人に限って、安全・安心を言う人にかぎって、コンビニなどで食品加工物を多分に含んだ食材を買っている。

健康に影響がある食品は加工物を含有しているものだと思うのだが。

福島県産と書かれたコメは売れない。

手前味噌のようだが福島のコメはまことに美味なのだ。

しかし、「美味さ」は「風評」にかなわないということか。
福島と言う名前は忌避され、他県のコメとブレンドされ「国内産」と表記されて売られている。
しかもその「消費先」は、いわゆる「外食産業」だ。

しかもその買い取り価格は大幅に低い。

福島のコメについて言えば、生産と消費のバランス、需給関係が壊れて行っている。
10年後、この国のコメ事情がどうなっているのか。推測に値することが可能な頭脳も知識も持ち合わせないが。

田んぼのある光景、カエルが泣く風情。10年前、ここに家を買った理由の一つだ。

贅沢な“初夏”を味わっている。

そこには光景としての「美しい国」があると思っているのだが。

安倍首相夫人が福島市にやってきた。福島市郊外の田んぼで、小林福島市長と田植えを“楽しんだ”ということだ。

まさか福島市の名誉市民とはならないと思うけれど。

豊葦原の瑞穂の国、子供の頃習った日本の別称。今騒がれているのは瑞穂小学校。

いやはやなんとも・・・。

2017年5月14日日曜日

「仮設」という言葉に過敏になる

この国は今2020年の東京オリンピックを「ゴール」にしてあらゆることが動いているようだ。

安倍の“共謀政治”は2013年のIOC総会で「TOKYO」の札が掲げられた時から始まった。

あの「3・11」からわずか2年後。東北の民は自分たちの生き方さえも見い出せず、さまざまな苦難を強いられている時、多くの被災者が「仮設住宅」で辛い日々を送って居る時、IOCの会場で安倍は狂喜乱舞していた。

宰相のあんな“子供じみた”、幼児性丸出しの振る舞いを今まで見たことは無い。
醜かった。
なんで「どっしり」構えて決定を受けとめるという“風格”すらなかったのだろう。

あの時から、ブエノスアイレスの地で、安倍の政治目標が出来上がった。
東京オリンピックは主催国の宰相として迎えるということが。

そのための地ならしに手を打つことに余念がなかった。
ブエノスアイレスで「福島の事故」を、まだ汚染水が海中に流れ出ているのに「アンダーコントロール」と「放言」したことを手始めに。

安倍も森も小池も同じ穴のムジナだ。

共謀罪をテロ対策法案と名前を変え、オリンピックでのテロ防止に役立てると言う。
2週間のオリンピックのために我々は一生“自由”を束縛されるのだ。
改憲をオリンピックまでに成し遂げるという。

オリンピック憲章にはその「政治利用」を堅く禁じている。憲章に何が書かれていようと、憲法に何が書かれ、その理念がなんであるかは安倍には無関係のことなのだ。

リオでスーパーマリオを演じた如く、満員の観衆の中で、テレビ中継の中で“主役”を演じたいのだ。

「サイコパス首相」ととりあえず彼を位置付けておこう。


オリンピックの経費負担をめぐって、国や東京都、関係自治体、それに組織委がなにやら言い争っている。

「オリンピック関連の仮設施設の経費をどうするか」ということのようだ。
なんで、オリンピックの施設に、2週間しか使わない施設に「仮設」という位置づけがされるのだろう。
ならば、6年間「仮設住宅」にいた人の心情はどうなのだろう。

福島はじめ、宮城、岩手の東北3県の家を失った人がしかたなく住みついた「仮設」。
熊本地震の被災者が暮らす「仮設」。

「仮設」という言葉からあなたは何を思い浮かべますか。

そこで人生の終焉を迎えた人も数多くいる。

「仮設」と言う言葉は我々の神経を逆撫でするのです。

他の呼称だっていくらでもあるのに・・・。
小池の大好きな「カタカナ名前」だってあるでしょうに。

野球招致で浮かれている場合じゃないんです。福島は。

あの人達、政治に携わる人たちには「ことば」のデリカシーが完全に欠如しているのです。それは「福島」を無いものにしたいとする心根が垣間見えると言うことなのです。

今、この国は“滅び”に“亡び”に向かって突き進んでいる。
オリンピックは政争の具であってはならないのに。
誰かの名誉欲を満たすためにあるのでもないのに。

そして、まだ900億円ものカネがかかるという。大方は都民の負担になる。

オリンピックは安倍の政治的野望の道具だ。そんな「仮説」は無謀でしょうか。

2017年5月10日水曜日

読売記者の気持ちを“忖度”する

またも政治ネタで恐縮ですが・・・。

衆参両院の「集中審議」が終わった。
議論は安倍の“完敗”と見たが、この時点で安倍は改憲に“御執心”とうことをまざまざと、改めて見せつけてくれた。

なりふり構わず、“失言”の数々も棚に上げて。失言とはまさに失った言葉。
今までとは違ったことを平気で言う。

失言ではないが、「暴言」の最たるものは「読売新聞に言いたいことは書いてある。いまさら国会で言う必要は無い。読売新聞を熟読しろ」。

読売の“インタビュー”で語っていることが本心だ、と。

発言から忖度出来ることは、いや忖度では無い、読売は安倍政権の「広報紙」だということ。読売には本心を言ったということ。
国会で発言をせずに一介の“御用新聞”の方が大事だと言わんばかりの思考。

読売の読者は政府広報紙を読まされていたということになる。
すくなくとも読売はジャーナリズムではないということになる。

読売のどこの記者がどこの指示で安倍の発言を取材し書いたのか。デスクは黙って通したのか。

取材では無い。言っていることを書き写しただけ。いかに社主であり主筆であるナベツネがある意味日本の政治を牛耳り、安倍の政治指南役を果たしているとはいえ、読売の記者はこの一連の経緯をどう受け止めてるのか。

“読売新聞、ジャーリズム放棄宣言”

総理・総裁の使い分けと言う安倍の“浅知恵”。
三大紙と言われる中で、朝日、毎日は安倍を批判する。特に毎日は厳しい。

ちょと視点を変えれば、安倍の狡猾手法よりも、それに乗った読売の姿勢こそ問題ではないのか。

一昨日の夜、読売本社のある界隈の飲み屋で、社の姿勢について嘆き悲しんだ記者とていただろうにと思いたい。

ナベツネの意向を“忖度”した読売の記事。いや、忖度では無いかもしれない。
あの「憲法発言」はナベツネが付けた知恵なのかもしれない。

政治記者になた時、初めて勉強の為に読んだ本はナベツネ著の「派閥」という本だった。参考になった本だった。自民党政治を知る上での“知識”をもらった本だった。

父親より年上であろうナベツネの進言を入れるのに安倍は躊躇することは無いはずだ。

新聞社を排斥して臨んだ引退会見の佐藤栄作がだぶる。

日本のジャーナリズムが壊れて行くさまを見たような気がする。

安倍政権のメディア対策。げに怖ろしか。

さすが報道の自由度72位の国だけのことはあるなと。


2017年5月7日日曜日

「一般人」という"肩書"

週明けのあすから、国会は「共謀罪」を巡って騒然とした空気に包まれるだろう。
共謀罪って狂暴罪?

「改憲発言」も「共謀罪」も“モリトモ隠し”なのか。辞職を公言したのだから。

その共謀罪、法案にテロがどうとかの名称を付けてはいるが“換骨奪胎”をはかっているものであり、戦前の治安維持法の“再現”だ。

あやふやな法相の答弁。
「一般人は含まれない、対象では無い」というものの、「テロリストです」という看板を掲げていない限り、極端な話し「国会議員と検察・警察関係者以外はすべてこの法律の対象者たりうるのだ。

法相に業を煮やした政府は官僚を参考人として答弁させる決定を強行して決めた。阻止しようと委員長の肩に手をやった野党議員に「テロ」だと叫んだ。
所詮、この程度の認識の議員が審議に当たっていると言う事実。
この程度の議員によって我々が、日常が“支配される”と言うこと。

だったらさあ、国会の委員会で、与党が共謀して、綿密に手順を打ち合わせて半ば暴力的に法案の強行採決をする。これって立派な狂暴罪じゃありませんかね。言論の府における「テロ」ではないのですかね。

この国は2020年の東京オリンピックを軸にあらゆることが決められていく。
安倍は公言した。「オリンピックでテロを無くす為に」と。
もちろん共謀罪のこと。

かたやオリンピックまでに「フクシマ」は無いものとする。“復興”と言う言葉も消える。

“この国にはなんでもある だが希望だけがない。”



「希望の国のエクソダス」に書かれていた一行。17年前に小説家は今を予測していた。

“安倍の安倍による安倍のための政治”。

我々はそこから逃れる術を持ち合わせていない。

持ち合わせていないわけではない。それを為そうとしていないのだ。



週明けから10年間借りていた街中の事務所を移転させる。通うのがきついから。
その整理に取り掛かる。難儀なことだが致しかたない。

小物を片付けていてふと気づいた。

名刺の肩書を「一般人」としてみようと。

世の中、「肩書社会」である。肩書が物を言う。長年の経験からして思う事。
役員の名刺を持っていた時と、“無職”になってからの個人事務所の名前だけ書いた名刺とでは”扱い“が大きく違う。

人と交わる環境にある限り、「名刺」というのは単なる儀礼としてだけでも必要な場合がある。交換と言う慣習。

だから、この際、今の政権へのささやかな抵抗として、また、テロリストではないという弁明のために、全くの冗談としての作業として、“一般人”と肩書を付けた名刺を作ってみようかと思った次第。

その“意味”を受け取った相手が理解してくれるかどうかは別物。
洒落ですよ、洒落。

でも、いくら一般人を名乗って見たとて、その法律の災禍が襲ってこないわけではない。

国会議員と警察官だけが適用されないと言われるこの法律。
警察官に果たして「識見」はあるのか。

定年後の警察幹部がどこに天下ったのか。マスコミは全国規模でその調査報道をしてみればいい。

1961年か62年か。「警職法改正案」というのが国会で審議されていた。
警察官独自の判断で「一般人」の日常生活に立ち入ってくるという法律。

反対を叫ぶデモの群れの中に一介の高校生もいた。
自由を何項目にもわたって保障した憲法下にあって、自由が大いに束縛されると思った高校生。

連日のデモもあってか警職法改正案は廃案になった。
あの時向き合った機動隊員の”怖さ“を今も覚えている。

しかし、なんでこんな国になってしまったのか。“時間”だけ共有してきた自分にもわからない。

2017年5月5日金曜日

「無視」すべきことなのだと思うが・・・

昨日変な夢を見た。夢でうなされ、夜中に起きた。

大きなスクリーンから“ビッグ・ブラザー”の声が聞こえる。

戦争は平和だ
自由は隷従だ
無知は力だ

「1984年」の声が聞こえる。

そして何やら人を殺せと命じられている。それを実行しようとしているのだが、なかなか出来ない・・・。

嫌な夢から醒め、いつのも自分のベッドにいることを認識し、そこに座り込んでしばらく考える・・・。夢の正体を。

今は2017年だ。

過日、首相は「日本会議」系の集まりにビデオメッセージを寄せた。
「自民党総裁の安倍晋三です」と“肩書”を名乗りながら、2020年に憲法を改正する。第9条に自衛隊を明記する。教育問題を、高等教育を無償化する。

そんなことを言っていた。スクリーンに見えるのは、まさに“ビッグ・ブラザー”の生き写しのようだった。ジョージオウエルのディストピア小説「1984年」再来の光景。

日本会議というのは全くの私的な集まりだ。団体だ。
そこで国の最高法規の扱いを公言するという厚顔ぶり。さすがに肩書を「総理大臣」とは言ってはいないが、自民党政権下では総理、総裁は一体化されている。

私的な、いわば“仲間内”の集まりで憲法について公言する。

憲法について、しかも具体的な内容について語るのは国会の場でなくてはならない。

「私語」なのだ。

しかし、マスコミの扱いは大きい。

「無視」に値するようなことが新聞にはデカデカと書かれる。

重ねて書く。幣原喜重郎は焼け野原に立ち尽くす人々を見てこう考えた。
二度と戦争を起こしてはならない。起こさないためにはどうすればいいのか。
軍事力を放棄して、戦争は二度としないと世界に向けて“宣言”することだ。

その旨をマッカーサーに申し出た。そこまで覚悟したのかとマッカーサーは驚いたと言う。そして出来あがったのが憲法9条だ。

「憲法第9条の③ 陸・海・空の三つの自衛隊は我が国を他国からの侵略から守るために存在する。専守防衛に徹したものであり、他国との紛争には先制関与することは出来ない。その主たる任務は国民の生命と財産を守るためのものであり、災害派遣など前記の目的を遂行するための組織としてのみこれを認める」。

こんな条項でも追加しようというのだろうか。

内容はどうでもいい。とにかく「改憲」なるものを成し遂げたいと言う子供じみた思考なのだろうか。

安倍は政治音痴だと思う。外交音痴だとも思う。

その「音痴」は謳う歌に我々は唱和させられるのか。
とんでもない。
嫌だね。

「平和を守るためには戦わなければならない」という人がいる。戦うとはもちろん戦争のことだ。
「他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、断固としてこれと戦うことは、自衛の戦いであり、平和国家と矛盾するものではない」という人もいる。

“平和のための戦争”というのは有り得るのだろうか。

「先の大戦」だって、口実は平和を守るための戦争だったはず。


夢の続きだ。
戦力を放棄した平和を希求する国。それを国是として内外に宣明した国に、攻撃を仕掛けてくる国はあるのだろうか。
平和ボケと言われようがなんと言われようが、そんな国は無いと信じたい。

中途半端な「抑止力」を持つより「丸腰」の方が戦争に巻き込まれないと思うのだけど。
そんな国を無法に攻撃した国は国際社会から葬られてしまうと思っているのだけど。

「専制と隷従、圧迫と偏狭」。
そんな言葉が頭の中を渦巻いていた。

2017年5月3日水曜日

「分断」の中の憲法

憲法は施行70年を迎えた。70回目の憲法記念日。
このブログを初めて10年以上になる。
毎年5月3日には憲法について書いてきた。

70年、人間の年齢で言えば「古希」。
世界一長寿の憲法なのだ。

古来稀なりというところか。70年、それが血肉となって育まれていたものと解釈したいのだが。

よくぞ持ちこたえていてくれた。これからもそうであって欲しい。
切に望むものだ。

「憲法記念日」にあらためて憲法を読む。特に前文を。
そして、
そこに書かれた理念を再確認し、美しい日本語として、一字一字を追う。

今の憲法が制定された時、公布された時も含めて僕は小学生だった。憲法の何たるかを知る年代では無かった。
中学に入って、それが教科書にあったかどうかは記憶にない。
どうも自分で勝手に「憲法の世界」に入っていたような気がする。
高校時代は憲法の虜になっていた。読むたびに感動した。文学的ですらあった。

前文も9条も僕は好きなのだ。

改憲論議が日増しに勢いを増しているようだ。
自主憲法制定とそれは同意語か。
「押し付け論」がその理由なのか。

「押し付け」ではないと思っている。
昭和天皇の意向、幣原喜重郎首相の意向、近衛文麿の意向・・・。
マッカーサー司令部の担当者と幣原らが論議・検討して擦り合わせて出来たものだ。

特に9条は、戦争放棄は幣原が言い出したものだ。史実は残されている。日記として。あの戦後の焼け野原になった東京の光景を見て、幣原は「戦争放棄」を決意したという。
その申し出にはGHQも驚いたと言う。

しかもGHQの草案には国会論議の過程で大幅な修正がなされている。
「丸ごと押し付け」論、それはある意味今はやりの言葉で言えば“フェイク”に近い。

「機は熟した」と安倍は言った。改憲の機が熟した、環境が整ったとう。
一強と言われていることで舞い上がっているのだろうか。悲願なのだろう。祖父の意向を継承した。

しかし、憲法のどこを変えたいのか。はっきりしたことは敢えてかどうか言わない。

各マスコミの世論調査がしきりだ。改憲を巡って。
その社によるがおおかた拮抗しているようだ。単純に言う。改憲と護憲。

それは憲法をめぐる国民世論の「分断化」を意味している。

その分断は天皇制にまで及んでいる。
象徴天皇とは。象徴としての天皇の行為と安倍とはその捉え方が違う。
女系天皇を認めないとする政権の意向。

悠仁親王から先の天皇制の在り方を「先送り」して恥じないのは、「今さえよければ」という感覚だ。
国家百年の事を考えるのが政治の本来の姿だ。

憲法の主旨は、国民主権・戦争放棄・人権の保障だ。

象徴天皇はその行為に忠実であるが故に、慰霊の旅や被災者の慰問を続けられている。
「シンボル」という英語を「象徴」と訳するとしたのは白洲次郎だ。
なぜ「エンブレム」ではなかったのか。GHQ草案が。

憲法第1条。「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。

その象徴としての天皇の行為に異を唱える改憲派の政治家。

天皇家と今の政治家とはあきらかに「分断」が見て取れるのだ。
この第1条だけをみても国民主権と象徴天皇制は「共存」しているのに。

あのNHKでさえ、史実を検証した結果に基き「押し付け論」を排除している。
今朝の朝日新聞は幣原の言を憲法学者の故宮沢俊義が記した日記の存在を明らかにしている。立教大学に保管されていると言う。

GHQ草案を“象徴天皇”とされる昭和天皇が「いいじゃないか」と了解された経緯。

安倍は東京オリンピック後に「改憲」を国民投票に付す意向だとされる。
いいじゃないか。やってみれば。
改憲・護憲が拮抗しているとはいえ、国民投票にどんな改憲案が提案されるのか。
70歳の血肉は、そう簡単には腐肉にはなるはずがないから。