2017年8月10日木曜日

封印した“記憶”を解く決意

長崎の原爆忌の平和宣言で田上市長はこんなことを語ってくれた。

「人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。

 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験した街として、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

人間が人間に対して人間の言葉で、自分の言葉で語る。

広島の市長も自分の言葉で語っていた。自分は体験していないものの、学んだ結果として。

「このような地獄は決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨たらしいめに会うのはあなたかもしれません。
それゆえ、皆さんにはぜひとも被爆者の声を聞いてもらいたいと思います」と。
「被爆者の体験に根差した良心への問いかけと為政者に対する誠実な対応への要請をわれわれのものとし、世界の人々に広げ、次の世代に受け渡していこうではありませんか」。

長崎市長は「福島」にも言及した。寄り添うと述べた。
被爆者代表としてあいさつした深堀好敏は88歳。

「私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います」と力強く語った。
彼は表舞台では発言しないタイプの人だったが、今年は自ら公募に応じて語った。

広島でもそうだ。今まで被爆者であることを隠し、凄惨な記憶を、思い出したくない光景として“封印”してきた高齢の体験者が語り始めた。

勝手に想像させてもらう。
自分たちが封印を解き、語ることが、亡き家族や友人への「手向け」になると思い至るようになったからではないか。
人間はいつしか命果てる時が来る。72年前に果てた人、生き延びてやがて果てるかもしれない人。

後代にその「事実」があったことを伝え、託しておかねば、「生命を全うした」と自分に納得できないからではないかと。

72年前の記憶。それはその場で体験したものだ。記憶を無くしてはいない。

72年後の日本。倉本聡の「「歸國」というドラマではないが、政治家や高級官僚はつい数年前に体験したことの記憶をなくしていると強弁する。快適な環境の中で見聞きしたことを。

「記憶にありません」「記憶がございません」。

歴史を抹殺しにかかっている。

それは「絶対悪」の平成版なのかもしれない。


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