2017年10月24日火曜日

あらためて「民意」とは「言葉」とは

新聞の選挙情勢調査は当たる。
予想されていたこととはいえ、開票と同時に出されるテレビの与野党獲得議席数。やはりそうか・・・。
自公の三分の二以上の議席獲得。激しい危機感に襲われた。

早速動き出した安倍はどんな政治を打ち出してくるのだろう。
公約の前面には出さなかった改憲を言ってくるのは間違いない。

あえて「三分の一の民意」と言ってみる。
自公に投票した人は有権者の三分の一に過ぎないのだから。

獲得議席数が「民意」として名付けられ、「民意」を得た人が赤絨毯の上を闊歩する。

自民党が獲得した票は有権者の三分の一。しかし獲得議席は285。

議会制民主主義を“はき違えて”いる人達にとっては、あくまでも「数」は力であり、それなりの振る舞いをまたぞろしてくるのだろう。

落選した人達に票を入れた有権者。彼らの「民意」はどこに反映されるのか。
今の安倍自民には少数野党への敬意もそこに別の民意が存在していることを認識すらしないだろう。

それが何故だかはわからない。安倍は民進党憎しで凝り固まっていた。その民進党を「解党」させてしまったことに満足感をおぼえているのだろう。

希望の党、希望が失望になり、絶望にと変わり果てた。それでも50議席は確保した。
ふってわいたように生まれた立憲民主党、55議席を確保し、野党第一党となった。

とりあえずは分散された野党。アリが巨像にどれだけの戦いを挑めるのか。
小池騒動の中で、それでも政治家の矜持を保とうとした野党系無所属が20人ほどいる。それと立憲民主がどこまで合体できるのか。野党が野党で有り続けるためには「分散野党」がどれだけ一体化出来るかにかかっている。

人には持って生まれた「性質」というものがある。変わると公言して変わり得なかった小沢一郎のように。
安倍の虚言癖は治らないだろう。謙虚さや丁寧さは(それは政権を担う者にとっては一番の必須要件なのだが)実行にうつされることはないだろう。

だから考える。
285という数字は安倍への信任票だったのか、自民党と言う、長い歴史を持つ保守政党への期待票だったのかを。

民意が最大限、可能な限り反映される選挙制度でなくてはならない。今の選挙制度は民意を一番反映しにくい制度だ。
捨てられたに等しい多くの死に票。その票の中に存在する民意。

自民党の得票率は48%だった。獲得議席は75%だった。
比例区では得票率33%、獲得議席は66。

しかも自民の獲得票は安倍支持票だけではないということ。

小選挙区で落選、比例区で復活当選。選挙区で示されたその人個人に対する「評価」が比例区で、政党と言う傘の下で当選とされる。有権者への裏切り制度だ。

おかしな民主主義だ。選挙制度を変えなければまともな議会制民主主義は形成されない。

議席数は民意を正当に反映させていないという制度。

しかし議員からはそれを口に出すものはいない。今の方が自己にとって好都合だから。国民本位では無い、議員本位、政党本位。


この国の政治家は「言葉」を持たない。

失言だけが話題となる。本人は失言とは思っていない。その時は。
「あんなやつら」「排除」・・。

ケネディーが演説で語った言葉。
「合衆国が諸君に何を為すかを問うな。諸君が合衆国に何をなせるかを問え」。

この言葉はアメリカの若者を奮い立たせた。この言葉によって考えた。

日本の政治家にはそれが無い。考える手段である言葉を持たない。「コトバ」の応酬に推移している。


「言葉」の無いなかで、この国は政治もどき行為が続いて行くということ。

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