2019年9月20日金曜日

「凡庸な悪」~東電裁判に思う事~


東電福島第一発電所の爆発事故。あれから8年以上になる。
事故の後処理は次々に新たな問題を引き起こしてくる。

原発は「国策」だ。それがあの大事故を起こし、多くの災害関連死を生じ、
今尚安堵をえていない県民もいる。

東電の責任問題、東電の当時の経営陣に責任が求められるのは当然だ。
自然災害が原因の一つであることは間違いない。
しかし、「15,7m」の津波が予想され、その対策が指摘されていたにも関わらず、それを無視するに至っていた会社の幹部。

なぜ秋霜烈日を旨とする検察は不起訴という結論を出したのか。それへの疑義は消えていない。
検察審査会がようやく起訴に持ち込み、出された判決は当時の経営者3人とも無罪。

その結果を知った時、アンナ・ハーレントの「凡庸な悪」という言葉を改めて思いだし、その凡庸な悪について考えた。

言うまでもないが、ハーレントの「凡庸な悪」とは、ナチス政権下にあって、ヒトラーの側近だったアイヒマンは毎日大量のユダヤ人をアウシュビッツに送り込み続けていた。
戦後、裁判にかけられたアイヒマン。その裁判を追い続けたハーレントはアイヒマンが無罪を主張したことに驚愕した。
「ヒトラーから命令されたことを実行したまで。私は思考能力を失っていた」。
それを称してハーレントは「凡庸な悪」と呼び、名付けた。

原発事故の被告3人はまさに「アイヒマン的」言い訳を繰り返した。
東京地裁の永淵裁判長は「3人が巨大津波の可能性に関する報告を聞いていたとしても対策を講じてもあの事件がおきるまでに工事が完了していたとは思えない。事故を回避するためには原発の運転を止めるしかなかった」と述べた。

原発を止めていてもいいじゃないか。現に、あの過酷な事故が起きた後も数日の停電騒ぎで、今は電力問題に“危機”は起きていない。

被告と裁判長に共通している思想。
「国策としての原子力至上主義」。国の施策に盲目的に従っていた。従わざるを得なかった。だから「無罪」だという発想。

人間には「安全性バイアス」という心理があるという。願望を込めて事故は起きないとする思考。
東電の3人にそのバイアスが働いていたことも事実だ。

いま、日本を覆っている想い空気は「責任逃れ」だ。その一環としてこの判決の事を思った。
説明責任があると言いながら説明はしないでもまかり通る。
道義的責任はあるといいながら、責任はとらない。

責任とは何なのだろう。

過去の日本人は「責任」を誰何されることを「恥」と捉えていた。
戦争がその倫理観を消してしまった。

控訴は出来るのか?民事での裁判は出来ないのか。

福島の地にいて、多少東電と関わりあいを持った経験がある。
その時思ったことの一つ。
「原子力を扱うあの会社は“伏魔殿”だ」ということ。

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