2016年6月20日月曜日

「伝わらない怒りと悲しみ」

若いころから「沖縄」には関心があった。理由の一つは返還前の、パスポートを持たねば“日本”の中に入れなかったという経験。そして、なぜ日本でありながら日本でではないのかと言うこと。それを知りたいがために、沖縄に関する本をいくつか読んできたこともあるかもしれない。

沖縄返還以前は、本土復帰の前までは、沖縄県ではなく、そこは“琉球県”であり、県知事という呼称は無く、代表は「琉球主席」だった。その主席選挙を巡っての「本土」の干渉は“醜かった”。
本土の政府の意向を無視するかのように、主席には屋良朝苗氏が選ばれた。
 

沖縄の基地問題をめぐり、菅直人が首相だった時、国会の答弁で「いま、琉球処分という本を読んでいるところです」と言ったような言葉を口にしたとき、鳩山と同じように、“見切り”をつけた。

3・11後、沖縄と福島を「並列」して書いたことが何回もある。

共通する言葉は「棄民」。

昨日那覇市で行われた「元米海兵隊員事件」の抗議する県民大会。6万5千人が参加したと言われる。

自民党・公明党は参加をしなかった。それぞれの本部の意向だ。

政党とは何なのだろう。

政党人である前に県民ではないのか。所属議員ならともかく、一般党員まで、「拘束」しなくては、また「拘束」に従わなければならないというのはなぜか。

在日米軍基地に70%以上が存在する沖縄。その基地に「守られている」本土。
沖縄県民が抱える苦しみや悲しみをなぜ受け入れることが出来ないのか。

海の向こうはやはり“異土”なのだろうか。なぜ理解しようとしないのか。

沖縄戦最後の”司令官“、太田実中将。彼の最後の電文、遺言。

「糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

“高配”はあったのだろうか。無かったと思う。

3日後、6月23日。沖縄にとっての「特別な日」がくる。慰霊の日だ。県民集会があるはずだ。そこに参加するのは・・・。
政党のいかんを問わず、そこに存在するのは「個人の意思」であるべきだ。琉球人、沖縄人としての。

あの3・11から5年以上。福島のことは、福島県民の悲しみや怒りはどこまで伝わっているのだろう。

「もう福島はもとにもどったのじゃないの」。そんな言葉もしばしば耳にする。
汚染物質を運び込む中間貯蔵施設。建設は遅々として進まない。

その“完成”にどれだけの人が、どいいう人が尽力しているのか。
確保されて建設用地は見込みのわずか2%。
搬入予定のフレコンバッグは未だ「野積」のまま。

その「黒い塊」のある“ふるさと”への帰還を促進する動き。
担当の大臣や副大臣、政務官は2~3年で代わる。
任期の間だけ当たり障りの無い無意味な「説明」をしていればいいということか。

福島にいる東電の関係者や復興本部の人は、福島の現況を見ているはず。
5年と言う歳月は「捨てられた歳月」と言えなくもない。

「われは一人の死の意味に長く苦しまむ 6月15日の警官として」。
「石投げて迫るを追えどつきつめて信じたしこの民衆の声」。

60年安保時の警察官だった人が詠んだ句だ。

いつ詠んだかは定かではないが、組織とは距離を置き、個人としての、ひとりの問いを発し続けた人もいるということ。

本土と沖縄の「分断」、福島とその他の地との「分断」。

どう理解し、読み解くのか。「未完成」のままで終わるのかもしれないというある種の“恐怖”。



2016年6月19日日曜日

“オリンピック”と“政治”と“第三者”

「舛添狂騒虚曲」が一応おさまった。収まったというか、「そしてだれも居なくなった」って気配だ。

以前、東京都の職員だった大学の先輩が、いみじくも言っていた。
「東京都庁って伏魔殿だぞ」。

もう何十年前に聞かされてことをふと思い出したりして。

舛添の不行状、不行跡、吝嗇さ。決して“揶揄”ではなくて、あまりにもばかばかしかった。
「SEKOI」という“言葉”を世界に広めてくれた。

政治資金の云々という批判が数多くあり、政治資金規正法は「ザル法」だとこぞって指摘されていたが、彼の政治資金団体の収入は判然としない。
無いに等しいような感じすらする。

要は「東京都の税金」の無駄遣い、不正使用ということのではないか。
その海外旅行などのバカバカしさ。それには都庁の職員も“おこぼれにあずかっている”。都議にもいるだろう。

「政治には言えない事と機微がある」。そう答弁したマスゾエのい弁が、政治と言うものの実態をいみじくも問わず語りに語っていた。

だから「伏魔殿」なる言葉を思い出した次第。

「税とは何か」。あらためて考える材料が提供されたということ。
税金というものに、納税の義務という憲法で国民に課せられた、数少ない義務。
その憲法の”理念“がまったく翳んでしまったということ。

あの鳴り物入りで導入された「ふるさと納税」なるものが、今や「一つの商売」と化しているようなこと。

それらを含めての税を考える“視点”が、バカバカしさの中から垣間見えてきて。

舛添の「延命」のための言い分、“大義名分”は、大方「オリンピック」だった。リオ五輪まではどうにか・・・。
あの次期開催地の代表者への五輪旗受け取りに執着していた。

これまでもあった閉会式での「旗」の受け渡し。その市長や知事の名前を、顔をどれくらいの人が知っているのだろうか。
旗の受け取りに何の意味ありやだ。
「デラシネの旗」を、根無し草の“経験”を持つ人が多い都民にとっては尚更だ。

オリンピックに「固執する」政治家。どこか安倍と通底しているの感ありだ。

安倍が東京オリンピック招致ではしゃぎ回ったあの醜い光景。

リオでも大統領代行が汚職問題で疑惑が取沙汰されている。
オリンピックを巡っては電通幹部の「カネ」にまつわる疑惑が報じられている。

IOC幹部へのいわば「わいろ」の問題も指摘されている。

「オリンピック」って何だい。

東京五輪をめぐる設計や施行、エンブレムをめぐるカネがらみの不祥事と疑惑の数々。

「オリンピック」って何だい。

ドーピング問題も含め、「国威発揚」のスポーツの祭典は、その理念はともかく、今やカネと疑惑まみれの祭典に化そうとしている。
政治がそれを極端にまで利用しようとしている。

こころのどこかで「オリンピック不要論」が頭を持ち上げてくる。

そして、舛添の“政治資金”の不適切支出問題。
彼が雇った弁護士が第三者。
誰かに「進言」されたものかもしれないが。

この第三者たるもの、全くのまやかしの「第三者」。主犯、マムシの善三。
ロクな調査もせずに「不適切だが違法性は無い」。

東電の炉心溶融めぐる報告書。東電が“指名した第三者委員会。ロクな調査もしていない調査報告書。

佐々木善三なるヤメ検弁護士。“輝かしい経歴”の持ち主。政治とカネの渦中にいる「闇の帝王」だ。

東電の第三者委員会なるものみも彼は名を連ねている。

報告書の提出が、何故今の時期なのか。選挙と関連しているように思えてならない。
「官邸からの指示があった」。当時の清水社長へのヒヤリング結果も「推測」の域をでていない。
官邸に問い合わせた、ヒヤリングはしなかった。そんな杜撰な「報告書」を今さら仰々しく提出なんてなんてこったい。

当時の「官邸」なるところに問い合わせの一つもすることくらいなぜしなかった。それが弁護士と言う資格を持った、検事を務めてきたもののやる仕草かい。

じゃ、マスゾエ問題も、この報告書も、数々の政治とカネにまつわることどもも。”官邸からの指示“って例え勘ぐられたって致し方あるめえと。

またまた日曜妄語と相成りました。言い訳は一つだけ。諸般私事多忙であったとしか。

それにしても、今この国は、またしても「黒い霧」と「深い闇」に覆われていると。少なくとも「第三者」なるものは公平・公正では決してないと言うこと。

あらためて納得なり。

2016年6月12日日曜日

「言いくるめる」政治。

「言いくるめる」。言い包めるという言葉がある。

辞書によれば、「言葉巧みに相手を信用させてだます。口先でまるめこむ」ということだ。

鷺を烏と言いくるめるという類語もある。明らかに正しくないのに、ものの道理を強引に言い曲げることのたとえ。

“政治”の場で、この「言いくるめる」作業が行われていることが悲しい。

参院選は事実上の選挙戦に入っている。いかにして自分たちが「権力」の場にいられるか、居ようとするのか。そのために有権者と言われる国民をいかにして「いいくるめる」か。そんなことが行われているように思えてならないのだが。

まして今度の選挙からは新しい有権者として18歳になった若者240万人がそれに加わることになる。

「エセ民主主義」の可能性だってある選挙戦で彼らを言いくるめることに巻き込んで欲しくはないと思うのだが。

東京都知事のあの「せこい」事件、これにはあいた口がふさがらないってことなのだ。

自治体に上下はないものの、やはり東京は日本の首都だ。そこのトップがなんら「倫理観」も「道徳観」も持ち合わせていなかったということ。

生粋の江戸っ子は怒りに震えているのではと。

なんとかかんとか言って都民を国民を言いくるめようとしている。不様なんだよな。

「言いくるめ」の材料に使ったのが“第三者”。なにが第三者だ。雇ったヤメ検の弁護士じゃないか。
さすが元特捜の敏腕検事。違法性と不適切なんて言葉をうまいこと使い分け、どこか「煙に巻こう」としているように見て取れてならない。

黒を白と言いくるめようと、時には高圧的、威圧的な態度にも出る。
彼の御取調べを受けた被告は、ま、お気の毒様とでも言いたくなるような。

少なくとも第三者とは、南町奉行か北町奉行のようなタマではなにといけないのに。

ヤメ検の“不行き届き”で”杜撰“な調査結果。肩書が肩書だけに「司法の権威」すら失墜させかねない問題だとも思えてくるのだが。

3.11後特にそれを感じる。当事者が当事者能力から逃れ、いかにも公正さを装うかの如く第三者という隠れ蓑の中にひそむあわれな姿を。

企業の不祥事、多発している。調査はすべて第三者とされる。

じゃ、その企業の経営者は何をしてきたのか。
無責任社会をいつからこの国は「容認」するようになったのか。

「江戸っ子をなめんじゃねえよ」とタンカを切っている御仁も見かけた。

せこい言い訳や言い逃れはもうやめようぜ。

せこい、醜い政治にはもう飽き飽きしてるはず。それを座視している悲しさ。

都知事だけじゃない、この手のこと。あのマムシの善三が弁護を引き受けてきた政治家がいたと言うこと。

「闇の帝王」と呼ばれたヤメ検の“悪徳弁護士”、田中森一。刑務所の中で彼は論語を学び続けた。論語から悟ったこと多々ありだったという。

「道徳」とか「倫理」とか。市井の民に押し付ける前に自ら学べよ、政治家さんよ。

世も末だ、なんて思ってしまうのはなんともはや間尺に合わないぜ。
出直せよマスゾエさんよ。旧知の者からの忠告にならない忠告にて。

友情ある説得なんて出来かねます。

2016年6月5日日曜日

“欺瞞”の国を生きているということ

嘘をついてはいけない。最初にうけた“道徳教育”だった。
嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれる。最初に受けた“罪”への戒めだった。
下される”罰“の教えだった。
うそついたら針千本の~ます。というのが友達との日常会話にあった。
嘘は罪、という歌もあった。
嘘から出た真という喩えも落語の世界ではあったが・・・。

たしか総理大臣経験者だったか。ナチスを例にとって「嘘も百回も言えば本当になる」というようなことを壮語していた人もいた。
そう、まさにナチスのゲーリングの思考がそうだった。

「国民は指導者たちの意のままになるそれは簡単なことだ。
自分たちが外国から攻撃されていると説明するだけでいい。
平和主義者に対しては、愛国心が無く国家を危険にさらす人々だと批判すればいいだけのことだ。この方法はどこの国でも同じように通用する」と。

とりあえずは外国からの攻撃を経済的危機と置き換えてみればいい。

欺瞞と嘘は意味合いが多少違うかもしれないが。
政治の世界を垣間見ていて、あらためてつくづく思う。今のこの国は欺瞞国家だと。
どちらをみても「嘘八百だらけ」だと。

「断言します。御約束します」と大見得を切ったにも関わらず、「新しい判断」だと豪語する。
“嘘”が“新しい判断”という言葉に置き換えられる。

消費税増税をめぐる最近の話し。

「正義の反対語は何か。新しい正義だ」と論壇で述べていた人もいたが。

とにかく消費税10%は2年半先送りされた。先延ばしされた。

目先を考える人にとっては、あるいは「正しい判断だ」と映るかもしれない。
しかし、2年半後はどうなっているのか。
消費者物価一つにしてもだ。

社会保障は、どうも“手抜き”されるようだ。そのための「口実」を新しい判断が示したのだから。

政治家も官僚も、マスコミもこぞって言う。「財源はどうする」と。財源は無いと。これから考えると。

財源・・・。入るをはかり出るを制する。そんな教えが、経済という言葉の日本語での出自にはある。

無駄を省くのだ。増税による財政再建。一般会計でもまだまだ“節約”の余地があるはず。
為政者の奢侈を戒めるのも一つだ。

何よりも「伏魔殿的」な特別会計。まるで不可侵であるかにような国家予算の仕組み。

何本も放った矢も折れた。もはや刀も尽きたとも思えるのだけど。

とりあえず「放った」安倍の甘言。何でだ。

彼は「経済」は単なる政策の、受けのいいと思われる取り口だ。

何を目指すか。「改憲」以外に無いでしょ。
選挙に勝つためには将来のこの国の経済まで、財政まで気を配る必要はなにということだ。とも聞こえている。

消費税問題も、まだ予想はつきにくいものの、衆院解散をめぐる「降ってわいたような」政権与党内の“軋轢”、それをめぐる報道も、どこか「出来レース」とも思えてくる。

全てを織り込み済みの猿芝居か。永田町特有のキツネと狸の化かし合いか。

みんな「ふりをしている」んだ。

「新しい判断」、この言葉だけはどうしてもいただけない。

何でもかんでも「新しい」にしてしまえばいいのだから。「古い判断」の固執したことへの謝罪のひとつもない宰相の下で暮らしていくと言うこと。

誕生日には家族そろって焼肉を食べに行こう。そんな約束を家族が交わしていた。その直前になって「ラーメンにする」と父親が言う。
家族は「約束が違う」と怒る。父親開き直る。「新しい判断だ」と。

そんな例えはいかがでしょうか。

東電も、いまだ「欺瞞」でことをすり抜けようとしている。


てなことをこのところ思ってきたのです。

前回、体調不良の「愚痴」を書いたため、どうも各方面の方々に心配を掛けました。
ようやく回復基調にあります。上振れの傾向にあるようです。

が、梅雨になって、季節変動値が加わるとまたどうなるか。
乱高下一服感のある中での「週一ブログ」でございました。

選挙の季節です。事実上の第一声は、またも「福島」でした。きっとこれまで二回も勝ってきたから縁起がいいとでも思っておられるのかもしれませんが。

2016年5月23日月曜日

不思議な国の”宰相A”

久方ぶりに書いている。書かないことがストレスになり、かえって体調不良をもたらすから。

悲観的に言うのではないが、やはり加齢というか年齢によること大なのだろうか。
どうも免疫力が著しく減退しているようだ。医者にもそう指摘されたが。

激しい偏頭痛に襲われること数日。薬でそれが治まると、今度は、身体中に強い痒みを伴った湿疹。眼の中にまで。

気力も体力も減退してくるという“負の連鎖”。

そして、見聞きする世相の動きに連日のように“義憤”を覚えるというストレス。

ざっと言えば、これが近況なのでありまして・・・。


大上段に振りかぶったようなものの言い方をすれば、今のこの国は「不思議な国」だと思う。その不思議とはアリスが住む”夢“の国では無くて、摩訶不思議な理解しがたいことが平気で起き、平気で行われているということだ。

数日前、安倍は国会でこう述べた。大音声で公言した。

「立法府の長は私だ」と。

数年前にも同じようなことを言っている。間違いを指摘されてもなんら恥じ入る気配すらない。

憲法を知っていて、あえて言ったのか。知らないで言ったのか。
小学生でも知っている三権分立を理解していない。

立法府の長は議長だ。その議長が何も言わないということの違和感。
そのことを定例である記者会見で聞かない衆院記者クラブの面々。

選挙があれば議長は終わりだ。お役御免だ。
大島君よ、いまのうちに“正論”を言っておけよ。


「三権分立がどうのこうのと言ったって、その長を決めるのは俺だぜ。
人事権は俺が持っているんだ。現実論として俺がすべての長だと言って何が悪いんだ」。

そう“うそぶいて”いるんだろうな。「宰相“A”」は。物書き一人がその“国”に舞い込んだとて、なんの「歯止め」にもならないってわけだ。

そう言えば、去年の今頃の国会でも、共産党の委員長の質問に「ポツダム宣言については、つまびらかにしていないと堂々と無知を晒して、恥じるところもなかったし。

国会での答弁、多くは紙の読み上げだが、時に自分の言葉で喋るとなると、なんでもかんでもいきなり喧嘩腰だ。

憲法を知らない首相。昭和史を知らない首相。経済政策にも疎い首相。

かつて沖縄のことを問われた時、「琉球処分」という本を今読んでいます、と答えた菅もそうだ。

一国の宰相が、おおむね無知であると言うこと。それは何党の政権であるかが問題ではない。あまねく「器量」の問題なのだ。

毎夜の如く宴席で数時間のメシを食ってる時間あるなら、家でメザシを食って本でも読めよ。国を真剣に思っていた先人にならい。

とにかく、これほど無知で、独裁的な、そして幼稚な首相を見たことが無い。


「安倍さんはずるい政治家です。安倍さんを表現するとき、無知と無恥の二つの“ムチ”に集約できると思っています。
彼はまず歴史を知らない。戦後の日本人が築いてきた歴史を踏まえていない。
過去の世代へのルスペクトが全く無いんです。
安倍さんのずる賢さは、自分の考えに同意する人を登用し、反対する人をクビにしてしまう。安倍政権のやり方は“法による支配”ではなく“人による支配”なんです。人事に手をつけて、自分に都合のいい解釈をひっぱり出してきて、後のことは考えない。実に危険な考え方であり、無恥としか言いようが無い・・・。」

こう批判しているのは、安倍の政治思想史の(履修したかどうかはわからないけど)恩師である成蹊大学名誉教授の加藤節氏だ。

先生からも見放された駄々っ子はこの先どんな道を突き進むのだろう。

御先真っ暗だ。いえね、自分の事です。目がもう翳んできて・・・。ストレスが倍加しているようでね。明日は医者に・・・。

またも暫時「沈黙」という抗議行動に出ます。沖縄県民がそうであるように。

2016年5月12日木曜日

間尺に合わないこと

間尺に合わない。損をするという意味だけでは無い。どこか納得がいかないという解釈で使わせてもらう。

自動車税の納付通知が来た。なんと7千円も高くなっている。
13年以上乗った車。排ガス規制がなんとやら。
その“公文書”の行間からにじみ出ている「お上」の言葉。

「お前の車はもう13年以上も乗っているんだぞ。この排ガス低減を目指す“先進国”にあって、そんな車に乗っていることは世の中に公害をまき散らしていることになるんだぞ。
ハイブリッド車や電気自動車に早く買い替えなさい。新車に買い替えなさい。
言うことを聞かないから”罰“として税金を上げてやる」と。

車を買い替えれば“優遇税制”が適用される。新車を買えば自動車メーカーは儲かる。新車出荷台数は国の経済指標の一つだ。
自動車メーカーは儲かるよ。いや、儲けさせねばならないのだ。

車の面倒を見てくれている整備士くんが言った。
「車は10万キロ乗ってからパフォーマンスがよくなるんですよ」。

そう、彼はちゃんと車の面倒をみてくれている。手入れもしてくれている。

まだ走行距離は10万キロちょっとだ。20万キロまでは十分乗れるはずだ。

たしかに燃費はよくない。しかし、この車が発生させる排ガスってどこにどんな“害”を与えるのだろう。

たしかに、正直言えば、新しい、さまざまな装備の着いた車は欲しい。でも、買えるわけがない。年金暮らしに毛の生えた程度の収入では。

保険料も上がった。仕方ない。補償額を下げることにした。自車両保険はやめた。

自動車税、揮発油税、道路財源に消える。

車と道路と税金と。

どこかたどっていけば、電源3法と原発立地との関係にも似ているような。

「物は大事に使いましょう」。子どもの頃の“道徳”の教えだ。

車を大事に使って高い税金を払わされる。つまり、消費文明の象徴としての日常に欠かせない車。その在り方。

高齢者の交通事故が多いという。人間が運転しないで、コンピューターに車を運転させる時代。

新しい車、バックモニターやサイドモニター、自動ブレーキ。そんな車は確かに安全には資する。
その代り、人間の”能力“は低下する。判断能力も含めて。

事故が起きないことにこしたことはないのだが。

なんとも取りやすい税金なんだ。自動車税は。

折しも、いわゆる「パナマ文書」、租税回避、タックスヘイブンの事が問題視されている、されるようになった。

違法ではないから問題ではない。“当事者”とされた人たちの言い分だ。
国家予算に匹敵するくらいの“税金”が払われていないとうこと。

納税通知が来たからってわけじゃないが、なんか腹の虫が収まらないようなきがしての“戯言”。

てやんでえ、もってきやがれ、どろぼう~って

2016年5月3日火曜日

憲法の「出自」

素人の憲法論である。

日本国憲法は昭和22年(1947年)のこの日、5月3日に施行された。
だから憲法記念日と呼ばれる。なぜ5月3日だったのかは知らない。
敗戦の翌年だ。

今年は憲法施行70年にあたる。

憲法が公布されたのは前年の11月3日だ。奇しくも明治天皇の誕生日だ。今、文化の日と称されている日。

敗戦からわずか数か月で欽定憲法にかわる新しい憲法が作られた。GHQの占領下の中で。GHOの“指導”のもとで。

それをもってして、いわゆる「改憲派」とされる人々は、「押し付け憲法」という。それこそ“自虐的”ば憲法観を持っているようだ。

小学6年生の時、サンフランシスコ講和条約、別名平和条約が締結され、「平和国家日本」が“正式”に誕生した時、それを日本国民は日の丸の小旗を打ち振って歓迎した。

小学校6年生だった少年は出された習字の宿題に「平和日本」と書いて出した。その時の日本の「空気」がそれだったと思うから。

学校の先生はそれを見ながら「平和」ということについて語ってくれた。
一言で言うなら「平和という言葉は、世界が本当に平和となればその言葉を使わないで済むようになる。そんな国を作らなければね」という話だった。

難しい答えだったが、今も胸に刻まれている言葉だ。

そして中学生になって以降、“平和憲法”なるものにのめり込んでいった。
“平和”という4文字がある憲法の前文に惹かれた。

“日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。我らは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う“

ただ一つだけこの前文の冒頭にある記述だけには、今は“ひっかかる”。
“日本国民は正統に選挙された国会における代表者を通じて行動し”というくだりだ。

今は「正当な選挙」とは何かに疑念がある。そして、それは憲法をめぐる議論の中で深く掘り下げられていない。


103条からなる憲法の中には「自由」という言葉が11回登場する。
学問の自由・表現の自由・職業選択の自由・・・。


憲法はGHQが提示した”原案“に日本人の憲法学者や政治家などが手を入れ“修正”をはかっている。日本人が起草した憲法草案も参考にされている。

その一人には相馬市の鈴木安蔵という憲法学者もいる。

そして日本人がこれを入れるべきだとした項目もある。
25条、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。も多分そうだ。

公布された憲法には天皇の御名御璽が印され、幣原喜重郎以下各閣僚の名も記されている。

それは修正を経て国会で承認され、施行にいたったものだ。

「憲法には出自はない」。

国会の“正当”な議を経て出来上がったものだ。

改憲論の焦点は「9条、戦争放棄」だ。それは勿論だが、今の政権下にあっての問題とすべきは、「国民が憲法で国に制約を課す」という立憲主義の思想が、たとえばある政治家によれば、「初めて聞く考えだ」と立憲主義が公然と否定されるということ。

「すべて日本国民は個人として尊重される」という条項を「人として」を書き換えることだ。

9条だけではない。問題視すべき点は多々あるのだ。
個人と人。雲泥の相違だ。

「たいした意味は無い」と国会で言い放った安倍。

彼らに憲法を語る資格は無い。

前文にだって、日本人の手による修正が加えられている。

70年・・・。どこかに燻っていた「自主憲法制定論」が、安倍内閣の登場と共に火がつけられた。

もはや「押し付け論」は何等の意味も持たない。

「憲法が揺らいでいる」。

改憲論議を憲法を知らない国会議員にだけ任せておけばいいという時代は終わった。

街場の民主主義という言葉を時々使う。
街場の憲法論議に、もっとそれを委ねるべきだ。

個人の集合体が民主主義であるように、国民あっての国家なのだから。

「よくわからない」「あまり日常の生活には関係ない」「専門家が考えればいいことだ」。
そんな“受け身の楽観主義”は止めよう。
最低限度の生活を保障しない国家は「憲法に違反している」と指弾しよう。

身近なものとして憲法を考えるべき時なのだ。
その導火線を敷き、引き金を引いたのは安倍ではあるからなおさらに。

素人としての国民であるからなおさらに。今の「職業政治家」にそれを委ねておくわけにはいかないのだ。面倒なことだから尚更にだ。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...