2016年2月10日水曜日

マロニエの木陰~ある老女の肖像~

最近、ある歌が耳にこびりついて離れない。毎日のように頭の中を駆け巡っている。
♪マロニエの木陰♪という歌だ。戦前に作られた曲で、松島詩子の歌で一世を風靡したような歌・・・。


“ 空はくれて丘の涯(はて)に
  輝くは星の瞳よ
  なつかしのマロニエの木蔭に
  風は想い出の夢をゆすりて
  今日も返らぬ歌を歌うよ ”

東京の広尾でご主人と二人暮らしをしていた“知人”がいる。正確には居た、だ。
僕の直接の知り合いではない。家内が東京の初台で、そのころはまだ我が家があった頃、犬の散歩で知り合った老婦人の妹さんだ。
その方は2年ほど前に亡くなった。ずっと一人暮らしだったという。
家内はその方ともろもろ交流をもっていた。
亡くなったあと、その妹さんと交流を持つようになった。

その方は癌を患っていた。長年抗がん剤治療を受けていたが、その「副作用」もあってか食欲不振や倦怠などが頻繁に表れるようになり、「治療」を中断した。

体調がそこそこいい時もあれば、不調な時もの繰り返し。先月、どうも癌が骨髄に転移したらしく、激しい痛みに耐えかね、入院を決断した。そして10日後、旅立ちの日を迎えた。
亡くなったのは93歳の誕生日の前日。

入院される1週間ほど前に届いた手紙は、いつもより比較的長いものであり、人生を断片的に記したものだった。

満州、ハルビンで幼少期を送ったこと。家にはロシア人のコックがいたこと。
満州事変の難を逃れて日本に帰国できたこと。ハルビンの日本人街から避難したこと。

学校を出てから宝塚に入団してしばらくそこで仲間と家族同様の暮らしをしたこと。
その後、いささかテレビの料理番組に関わっていたこと。その後中国残留孤児を支援するためのボランティア活動に励んでいたこと・・・。

その人の手紙の封筒は手作りだ。包装紙を綺麗にとっておき、それを封筒に仕上げる。
最後の手紙の表書きに、こんな歌ご存知かしらと4小節の譜面が書かれていた。
ほとんど曲がっていない手書きの五線譜。音符をたどると、それは「マロニエの木陰」だった。

幼少期の姉と遊んだハルビンの街。そこに思い出のマロニエが咲いていたのだろうか。
初台と広尾、姉妹は週に一回は会っていたという。

初台には「高齢者見回り隊」という町内会のボランティアさんたちがいる。数人で組んで特に独居の老人宅を見回っている。
長女の方が外出着のまま玄関に倒れているのを発見したのも見回り隊だった。

次女の方が入院しているのを知って病院に駆け付けたのも見回り隊だった。
こん睡状態だったという。気を利かせたそのボランティアの人が気にしている家内に電話してきてくれた。病人の耳元に電話機を当てた。家内は電話口で大声でその方の呼び名れた名前を呼んだ。

「しゃべりたそうにその人はう~、う~と声を上げていた」そうだ。こん睡だったにもかかわらず。そして突然目を開いた、人を探すように。そしてすぐに眠りについた・・・。

生前よく言っていたという。「戦争さえなければ」と。
まだ、元気なころ、姉と二人、よく国会前のマロニエ並木を散歩していたという。

告別式には宝塚の人たちも集まった。そして、葬儀に相応しいように、静かな合唱を手向けに送っていたという。“スミレの花咲くころ”のあの歌を。

遺されたご主人は電子レンジの扱い方を憶えたと言う。

この二人には妹がいた。
劇団四季の創設者の一人、藤野節子さんだ。昭和61年、57歳没・・・。

なぜかこのところ訃報が絶えない・・・。

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