2016年2月23日火曜日

ジャーナリズムとは

またまた休載が長すぎました。
毎月恒例の「コラム」などを書くのがやっとやっとでありまして・・・。


「ジャーナリズムとは報道されたくないことを報道することだ。それ以外のことは広報に過ぎない」。
イギリスの作家ジョージ・オーウエルの言葉だ。

最近、安倍始め閣僚や党幹部からの「テレビ叩き」が妙に激しい。なぜテレビが「安倍の意向に沿わない」報道機関として“脅される”のか。

民放テレビには5年に一回、電波法で決められた「免許更新」という“義務”がある。つまり、テレビやラジオという電波メディアは、「国の管轄下にある」という“思い上がり”が彼らの中にあるからだ。電監に提出する書類は膨大であり、一苦労も二苦労もする。

ちょっと前のデジタル化の時には、いろんな意味で郵政の“介入”はすさまじかった。という“思い出”。

戦争を知っている世代と戦争を知らない世代では「戦争」というものについての”認識“に時として差異が生じる。
それが顕著に表れているのが「現在」なのかもしれない。

多少なりとも「戦争」を知っている世代は、長じてから「テレビ」というものに接した。

今、安倍をはじめほとんどの国会議員は生まれながらにして「テレビ」のある、テレビになんら“違和感”を持たないで育った世代だ。
テレビがそこにあった、共に育った世代だ。

新聞を読んで育った身が、縁あってテレビの世界に迷い込み、最初に悩み苦しみ考えたことは、テレビとは何か、テレビにジャーナリズムがあるのかと言うことだった。

テレビは報道機関としてのマスコミといえるのか。テレビがやれることは何か。テレビがやるべきことは何か。

いわゆる“マスコミ”としては、新聞からもテレビは認められず、言い方は悪いが、「蔑視」されてきた。
取材する上でも「差別」を受けてきた。

映像があるからというだけではない。いつの頃からかテレビは「市民権」を得るようになった。民放が“商業放送”と“公共放送”を自認するNHKに半ば小馬鹿にされてもだ。

大事にしている一冊の本がある。時々読み返す本だ。

「お前はただの現在にすぎない」。

TBSの社員だった人達が、テレビについて悩み苦しみ格闘して出した「結論」。
TBSを辞め、テレビマンユニオンという制作会社を作った人達。
その本は、今でも「現場からのテレビ論」として全く色褪せていないと思っているのだが。

その本の巻末にテレビに送る言葉として、テレビ(お前)に捧げる言葉として18の言葉が記されている。

テレビは時間である。テレビは現在である。テレビはケ(日常)である。
テレビはドキュメンタリーである。テレビは大衆である。
テレビはわが身のことである。テレビは窓である。テレビは対面である。
テレビは参加である。テレビは機構である。

それぞれの位置づけ、意味づけにはそれなりの“解説”が付されている。

そして最後の言葉。

「テレビは非芸術・反権力である」。

この本が書かれた遠因には三里塚闘争がある。書かれる“出発点”として。

今のテレビ屋さん達はこういう本があることを知っているのだろうか。

政治の世界では、テレビを”支配“していると思い込んでいる人たちが、放送法というものを”捻じ曲げて“解釈し、停波をちらつかせて脅しにかかり、テレビにあらゆる情熱を注ぎこんだ人たち、内面と向き合ってきた人たちの「熟考」した思索さえ、無き物にしようとしている。

放送法をめぐる議論、それを持ち出す政権のいかがわしさについては、多くの「識者」の言に委ねる。

ただ、それらの動きを聞きながら見ながら読みながら、去来した「テレビについてのこと」。

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