2016年2月24日水曜日

「公平」「中立」、そして「主観」と「客観」

以前こんなことがあった。
NHKの日曜日の「国会討論会」のこと。
ある時自民党から“抗議”があった。

「議席数の多い自民党と少ない共産党とで、発言時間が同じだというのは“公平”ではない。議席数に比例した発言時間とするべきだ」という趣旨。

たぶん、あの番組はほとんど見ないが、時間配分は一応“公平”に保たれているようだ。議論の振り方は司会の塩梅一つだが。

中立とは、どうも自民党寄りの番組つくりをしろっていうことに思われてならない。

いわゆる、新聞の社説のような「両論併記」が中立ということなのか。
二大政党が拮抗しているアメリカでは、メディアは民主党寄り、共和党寄りとはっきり分かれた論調を展開している。

民主党政権時、討論会で議席数による発言時間を設けたら、自民党はきっと反論しただろう。公平・公正の原則に反すると。

とにかく、なんにせよ、放送法に書かれている中立・公平という「定義」があらためて問われているということなのだと。

世は挙げてメディアに対して「客観的報道」を求める。
結論から言う。客観的報道なんて無いのだと。

まもなく3・11から5年となる。すでにしてメディアはさまざまな「企画」や「特集」を伝えている。
3・11であったことの事実。つまり客観。それは地震があった。津波が町や村を呑み込んだ。多くの死者を出した。
原発が爆発した。放射能がまき散らされた。

それらが客観としての事実だ。

津波の映像をどう捉える。どの角度から、どの位置からそれを撮影するか。それはひとえにカメラマンの「主観」に関わることだ。
被災者をどの目線から捉えるか。それも取材者の主観による。

取材者が意図した答えを言うか言わないかで、それが伝えられるか、られないかが決まる。

被災地の今を伝えるのも同じだ。何をテーマにするのかも同じだ。
「悪意無き意図」がおおよその報道には存在してるということ。

1Fそのものを取り上げるのか。その構内で働く人たちをどの角度から追うのか。避難している人たちをどういう位置づけで追うのか・・・。

国会の答弁も、全部を流すのは物理的に不可能だ。担当者がどこを使うかの編集。それとても「主観」なのだ。

これらのことは突き詰めて言えば、「事実と真実」という問題を直視しなければならないという命題にも直面する。

取材や編集、それはメディアの人たちにその“権利”を委ねている。委ねらた側がそれをどう受け止めるか・・・。

「星の王子さま」の中に流れる一つの思想、哲学がある。
「見えないものを視る目」ということだ。
それはわれわれの「リテラシー能力」ともかかわってくる。

事例を挙げての私論はあえてしないでおくが。

とにかく、中立だの公平だの主観や客観だの、それらの言葉には申し訳ないが、「ありきたりの言葉」では誰も説得できないのだ。

いささか無理筋かもしれないが、これらの「言葉」や「思想」は、政治家にあてはめてみた方がすっきりするのかもしれない。

「あなたにとって公正とはなんですか」と。

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