2016年2月28日日曜日

「寒夜眺月」の記

まだ夜は寒い。月の明かりが冴えわたって見える。月明かりの道はどこか利休の世界に誘われているような気さえして。

月を見ながら“妄想”する。

「この世をば我が世ぞとおもうふ望月の欠けたることの無しを思えば」。
平清盛の歌だと記憶している。いや、藤原道長の句だった。

なんか安倍晋三の世界と共通しているようで。
いや、安倍だけではない。「権力者」と言われる世界を指してだ。

最近の安倍政権は、より“独裁的色彩”を強めているように見受けられたならない。
安倍に連なる閣僚や党幹部、果ては自民党のチンピラ議員に至るまで。

「みんなあべの色に染められている」。

安倍政治の本質は何か。改憲なのか、単なるお山の大将であろうとしているのか。
いまだその「本質」はわからない。何を目指しているのかもわからない。

そして“不思議”なのは、安倍に唯々諾々と従っている自民党の議員たちだ。
何事においても「党内論議」とか「党内民主主義」がさっぱり見えてこない。

とにかくあらゆる面で「強権」、「傲慢」なのだ。
黙って俺についてこいって今は流行らないと思うけど。

「この道しかない」と安倍は豪語した。その道はどこに向かい、何を目指した道だったのか。

利休の歩いた冬枯れの道とはあまりにも落差が多すぎる。

傲慢さの表れは、「放送法」を巡る論議で顕著だ。あの「高市発言」に端を発した一連の動き。

どうも萎縮、自粛の傾向を感じる。

様々な意味で、今のこの国に生きる人たちには、“保障”された表現の自由というのは「担保」されていないようだ。それは自党の議員にまで及んでいるようだ。

大本営発表を唯々諾々と国民に流し続けたあの頃のマスコミ。それが「公平、公正、中立」なものとされていた時代。
それをいぶかしく思う人はもそれは口に出来なかった・・・。

「すべての情報には意図がある」。

そのことを再考しなくては・・・。

東電だって権力の一角にいる。メルトダウンをマニュアルが無かったなんて“ウソ”をついていたこの耐えられない欺瞞。

隠ぺい、欺瞞、秘匿・・・。それがこの国の、統治における最高の手法であるとうのはあまりにも悲しい。
それがあの戦争でも脅しを伴って安易に用いられていたということ。
その体質が、原発事故に於いても“踏襲”されていたことに激しい怒りを覚える。

「損傷」と「溶融」とどう違うのか。科学的なことはわからない。実際の被害の差異もわからない。
そこから透けて見えるのは、「過小評価」させようとする“あさましさ”だ。

いずれ政権は変わる時代を迎えるだろう。政権が変わった時に時の総務大臣が「メディア規制」のごときことを言い出したら、野党となった自民党はどんな反応をみせるのだろうか。

「この道しかない」と豪語された時、咄嗟のに「おれは我が道を行く」と書いた。道っていろんな道があるじゃないか。
寄り道、脇道、杣道・・・。
だれも“国道”だけを歩き、走っているわけじゃないのだ。

月明かりに照らされた道をみながら、そう思った。

再稼働された原発からの「逃げ道」は無い。細い一本道しかない。

奢る平家は久しからず。そんな言葉もあったよな。方丈記にもあったよな。
奢れるものは久しからずと。
方丈記が書かれたのは京都に「大地震(おおない)ふること侍りき」の時代だったよな。なんて“懐古”してしまう・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...