2017年7月11日火曜日

保存された“記憶”と破棄された“記憶”

加計問題をめぐる国会の閉会中審査。政府の側からは「記憶にありません」が連発された。

ロッキード事件を巡り小佐野賢治が連発した「言葉」。疑念や非難はあってもそれが通用してしまった国会の「負の歴史」。

記憶にありませんが国会の常用語となり、いくら押せども“記憶”という全く個人の属性に当たることが“成り立っている”。それこそ議会制民主主義の破壊行為だ。

国の公文書が1年未満でも破棄されるという方針が明らかになった。
公文書とは、その国の歴史の一部だ。

今の政権が不都合とされる公文書が破棄されるという事は歴史が破棄されることに等しい。

公文書は国立公文書館に保存されるべきものなのだ。たとえそれがメモであっても。

憲法9条を、戦争放棄をうたった部分は日本の幣原喜重郎首相がマッカーサーに申し入れたものだった。
それは国立公文書館に幣原喜重郎日記が保管されており、それが研究者によって明らかにされたからだ。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。ビスマルクの言葉を引用した秋葉原でも石原伸晃演説。安倍自民を賢者と誇りたかったのだろうがキミたちこそ歴史に学んでいない。そして歴史を破棄しようと図る。

閉会中審査、前川喜平の答弁は終始一貫していた。理路整然と事の経緯を語り、事実と違うと菅の詭弁を退けた。彼の記憶に基づいた答弁。彼の中には保存された記憶がきちんと保管されているのだ。

数多くの知識を詰め込んできた東大卒の官僚。数年前のことが「記憶にない」ということは有り得ない。すぐに記憶を無くしてしまうのなら官僚としては失格だ。

安倍は「印象操作」と言う言葉を多用した。
人は印象で物事を判断する。
“知らぬ存ぜぬ”を連発する政府の人間に、メモを5分間もひたすら読み上げる大臣に、好印象を持つ人はまずいまい。

前川の正直さだけが印象に残る。
そう、印象という事は極めて大事なことなのだ。

国会の議事録は政権といえども破棄することは出来ない。時々”改竄“をさせることはあっても。

僕は前川に信を置く。福島市の夜間中学、生徒は高齢者が多い。そこに手弁当で出向いてくる男を評価せずに何を評価すればいいのか。

マスコミの世論調査で安倍内閣の支持率は急速に下がった。読売新聞だったか。安倍自身に好感が持てないという人が急増した。

国民大衆は“皮膚感覚”で、得られた情報を加味しながら政治判断を下す。
良くも悪くも「移り気」なのだ。

来月早々党役員人事と内閣改造を行うと言う。安倍の足を引っ張り、印象を悪くさせた稲田や金田を切ると言う。
小手先細工の「人事」で支持率浮揚が図られると思っているのだろうが。
「そうは問屋が卸さない」。そんな気がする。

きょうから施行された共謀罪、先の集団的自衛権などなど。強権的な安倍政治は飽きられ始めたのかもしれない。

我がままで、独りよがりで、お仲間がいないとダメなさみしがり屋の名ばかり宰相。
黒を白と言いくるめるのに必死な官房長官。

自民党の中にはようやく、安倍に翳が見え始めたという事でなにやら批判めいたことをいう奴らも現れた。時すでに遅しの感ありだ。

こんな政治のありさまを、自民党を長年にわたって見て来た、付き合って来た身にとって、そこに巣食う記憶にないほどの見苦しい人々の群れがいることが悲しい。

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