いままで経験したことの無い大雨。渦巻く濁流。北九州地方を襲った梅雨前線が刺激されての豪雨被害。
被災者の辛さ、悲しさ、苦しさ。
察するに余りある。
経験したことのない豪雨。経験したことが無い以上、その対処も難しかろう。
いや、例え経験したことがあっても自然災害にはなすすべがないことが多い。
一時は何万人、何十万人に対する「避難指示」。
その緊迫性や必要性はわかっても、どこに、どうして避難すればいいのか。
問題はそこなのだ。焦眉の急としての。
いくら日頃から「避難訓練」が真剣に行われていたとしても、災害が発生した時間や環境によって対処の仕方はさまざまだ。
テレビでその惨状を見ながら心が痛む。
まだ大雨は続くともいう。浸水被害にあった家屋や田畑。泥地と化した街や村・・・。わが身の周りを思う。
経験したことの無い豪雨に襲われる。怒り狂ったような激しい勢いの水は1級河川の阿武隈川を決壊させる。堤防から流れ出る濁流は町をのみ込んでいく。
避難所に指定されている場所も浸水の被害を免れない。堤防がどれほど強靭であっても高さがあっても、それらは概ね、過去の「経験値」に基づいて作られている。
避難指示と避難場所と避難方法と。
「避難指示」と「経験の無い」と言う言葉は否応なく「3.11」を思い起こさせる。
想定はあったが実施されていなかった津波対策。経験したことの無い大津波。
それに起因する、経験の無さが招いた「原発事故」。
今起きている大水害が福岡や長崎、大分で無く、原発がある佐賀県を見舞っていたらどうなっていたか。
福島の時の「避難」は、場所も方法も無い。勝手にどこかに逃げてくれ。というものだった。
もちろん受け皿とてない状態で。
福島の原発事故の経験は教訓はたぶん、どこにも生かされていない。お茶をにごすような真剣さを欠くお座なりの「避難訓練」。
このところ地震も多発している。
とにかく我々は災害列島に住んでいるということ。
自然の脅威の前には対処する術がないという事。
あらたな「経験」をしたという事。
国土強靭化法がどれほどの「国民の生命と財産を守る」という政治の大原則に適っているのか・・・。
被災者への支援はどうなっていくのか。
愚者も賢者も無い。経験も歴史もない。
何時、何が起きてもおかしくない「災害列島」に我々は生きているのだ。
自然には“意志”は無い。
戦争には“意志”がある。
今の政治は、自然災害を一過性のものとみなしている。将来も未来も常に自然の災禍が予見されるとうのに。
自然災害への対処を政治の根幹に据えられないものだろうか。
“選挙は水もの”と言われた。“水商売”と自虐的に自らを言う議員もいた。
都議選の結果に政権は何も学んでいない。何も懲りてもいない。経験したことのない大敗を喫したにも拘わらずだ。
選挙には国民や都民の“意志”があった。
水は怖いのだ。災害の事だけでなくとも。
大雨が過ぎ、晴れ間がのぞいたら、今度は気の遠くなるような復旧作業が待っている。政治の世界での「復旧作業」はあるのか。
「俺を連れて避難してくれよ」。犬の眼が訴えかけてくる。
方丈記を思う。そして政権には平家物語を重ねる。
“チェルノブイリ”異聞
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