2015年9月21日月曜日

勝ってはいない、まして負けてなんかは。

“安保法案”が参院の委員会で強行可決された夜、50代の友人の一人からメッセージが送られてきた。ある会社の役員。代々自民党員だった家系。


「私は自民党員をやめようと思います。私ごときがやめてどうということはないでしょうが、私は許せない。次の選挙で自民党は大敗すべきだ。でも、代わりに政権を任せられるところもない。
日本は美しくなくてはならないのですよ。でも、今回は醜い。今夜、若者10人くらいと飲み会がありました。後半、安保について語ろうと話しました。そんなとこでしゃべったってどうにもならないけど、大事だと思ったんです」。

しばらくの時間、パソコンを介して彼と“会話”した。

もう真夜中になっていた。「遅くまでスミマセン。誰かに話したくて」と彼は書いてきた。

世論調査はともかく身近にあった一つのこと。

安倍政権、安倍支持層には「勝った、勝った」という声がある。何に勝ったのか。国会の中での野党の反対に勝ったということなのだろう。

果たして、安倍自民や公明党は、金魚のウンコみたいにすり寄った政党は「勝った」のだろうか。

全く勝ってはいない。

政治が民意と離反したという現実。
1人の自民党員を失ったという現実。

それは安倍自民の“敗北”を意味している証左だと思う。

安保法が成立したあと、安倍は別荘に行き、ゴルフに興じた。マスコミは英気を養うだとか、改造人事の想を練るとか、相変わらずの古臭い言葉でしたそれを伝えない。

ゴルフに興じる彼の姿は、その心中は、現実からの逃避としか映らない。法案成立を受けて、それはもともとありえないことではあったものの、翌日からでも、「国民に対しての丁寧な説明」をするのが、普通の総理大臣だ。かりそめにも“民主主義”を口にするなら。

集団的自衛権の行使。それは戦争になったら必ず勝つと言う”妄想“のもとに成り立っている。戦争は負けることとてある。
「抑止力」があれば戦争は起きないのか。そんな保障はどこにも無い。

ベトナム戦争。アメリカは負けるはずの無い戦争で負けた。いかなる兵器も、いかなる勢力も、農民兵や民衆の蜂起には勝てなかったのだ。

あの国会の論戦、質疑は、何だったのだろうかとも思う。

国会の中では多数が勝に決まっている。阻止できるなんて言っていたのもまやかしだ。

国会前で連日繰り広げられていた抗議行動。若者が声を挙げ、親の世代もそれに加わり、いや、そのまた親の世代まで。
成立を阻止できなかったことは断じて負けでは無い。キミたちは負けなかったのだ。

香港の傘革命、アメリカであったウオール街占拠、ちょっと前のアラブの春運動。いや、ベルリンの壁崩壊まで遡ろうか。
民衆は、その時の結果はともかく、負けてはいなかったということ。
それらが無ければ、今度の国会前行動のような路上民主主義は無かったということ。


「一国の国民は普通、自分たちの平均的レベルを超える総理大臣を持つことは出来ないし、また、一国の政治が、総理大臣の器量を超えることは無い」。
古いノートにあった、イギリスの哲学者ジョン・スチュワート・ミルの言葉だ。
ミルはさらに言う。
「国家の価値は、結局、これを組織する人民の価値である」とも。

自民党員をやめると言ってきた友人に19世紀に放たれたイギリス人の学者のこの言葉を贈る。

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