2015年9月26日土曜日

民主主義の原点は“フクシマ”にあったということ

民主主義という考え方、その理念。その嚆矢が明治時代の自由民権運動にあったと捉えるならば、その運動を提唱したのは板垣退助であったが、それに賛同、共鳴した若者たちの多くに、戊辰戦争で敗れた会津藩を擁する福島県人が、その主要な地位を占めていたとういうこと。

今も国会前を含め、「民主主義」を言う人たちが集っているのを見聞きする時、「3・11」を思い、その後の展開を思い、民主主義というものが、それまで考えてもみなかった人たちに“覚醒”させるもととなったのは、あの原発事故であり、その後の反原発運動であり、特定秘密保護法の事であり、今回の集団的自衛権、“違憲立法”、議会制民主主義の破壊。

連日の如く、それこそ燎原の火の如く広がった、「安倍政権打倒」の声と繋がっていると思えて仕方がない。

浪江の苅宿仲衛、三春の河野広中、会津の山口千代作・・・。県令三島によって弾圧された喜多方事件・・・。福島自由新聞の編集顧問を務めた高知の植木枝盛。「国というものは単位が小さければ小さいほど民主主義が徹底できる」との思考、中央集権の排除。彼らの“思想”でもあった。

苅宿仲衛の墓は3・11で倒壊した。浪江には放射能が降った。墓がどうなったのか・・・。

久しぶりで原発事故後最大の避難所だったビッグパレットに不自由な体を運んだ。
そこは何度でも言うが、人間の尊厳が全く存在しない場となっていた記憶。

基本的人権など全く存在していないような場所。そこで人々は耐えた。

多くの流浪の民がいる中で、国は原発再稼働の方針を決めた。
民主党政権だった。

官邸前、国会前は連日のようにデモがあった。
でも、その抗議集会やデモは政党色の強いものだった。社民党や共産党が前面に出た。主導していた。
そこから派生した集会やデモが郡山でもあった。政党や労組主催の。なんとも「チンケ」なものだった。

しかしだ。あの時国会前で声を挙げた人たち。
「3・11」の不条理さを経験した若者たち。
突然住んでいたところを奪われてしまった人達がいると言う不条理。
「原発」というものへの根源的矛盾。

どこかでそれに向き合うべきことを、皮膚感覚で悟っていた人たち。「福島」を心に刻んだ人たちの視点は国と言うものへの“監視”に向いた。

「3・11」を経験した人たちは、事故そのもだけでは無く、その後の国と言うものの対応を知るにつけ、政権が交代してからも、より強力に押し付けられる「不条理」に抵抗することを選択したのだ。

国会前のデモ。それは国会と言う国の在り方への抗議だったのだと思う。
集会に野党の党首が加わった。彼らは市民の声に飛び乗っただけなのだ。

市民の声を政争の具としようとした魂胆だって見て取れる。
政治の動きは、また、それをしたり顔で伝えるメディアもだが、市民の感情と同一化されていない。

国会議員がいう民主主義は、まだまだ未成熟だ。

だから原点としての自由民権運動を言い、福島を言うのだ。比較的身近にそれを“体験”したものとして。

偉そうなことを言うわけではないが、フクシマを知ると言うことは民主主義を知ると言うことにつながるのだとも。

安倍政権は完全に「福島」から逃げた。口先だけで票にしようとした。安保法制だって同じ構図だ。

自由民権運動は数ある弾圧の中で潰えた。平成の自由民権運動、民主主義を取り戻す運動は決して潰えてはならないとも思う。

“チェルノブイリ”異聞

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