なぜか昔から、葬儀の場に赴いた時、それは死者との別れの儀式ではあっても、
それは生者の儀式のように思えてならなかった。
葬儀の間中、「死」について考える時間を与えてもらったと受け止めていた。
何回、「死」について考えて来ただろう。
メメント・モリとしての告別の儀。
このところ相次いで知人の訃報に接している。
12月に入ると送られてくる“喪中葉書”。多くは友人の親、つまり90歳代や100歳を越えた人のものではあるが。
過日は同年の人の訃報が家族から送られて来た。家族葬だったという。
昨日、友人の兄が亡くなったということも聞かされた。同年の方だ。尊敬に値する仕事、生きざまを見せてくれたような方だ。
たまたま最近、毎月の連載コラムに「死について」書いたばかりだった。死者と生者のこと。死なれて・死なせてということ。
毎日、どこかでは、見知らぬ人が死んでいく。テロのより、あるいはテロにまつわることで、子供も含め多くの人の命が失われている。
死者と生者の間に“存在”するものは何か。
誰しも、必ず死を迎える。それだけは「絶対」なことだ。
そして今日、野坂昭如が亡くなっていたということが報じられた。
彼の書いた本はそこそこ読んだ。
テレビでの“過激”な発言もずいぶん聞いた。
田中角栄に対抗して新潟から選挙に出た時は、理解を越えた行動に思えた。
3・11後、その翌年だったか。彼が戦争について語った時がある。
戦前派でもない、戦中派でもない、まして戦後派でもない。焼け跡派だと自分を位置付けていた。
闇市の中で育ったと位置付けていた。戦争によってすべてのものが失われたとも。
そして、「少しは戦争を知っている身としては、あんなバカげたことは繰り返してはならない」と語っていた。
テレビでは「空気を読まないとこの国では生きていけない」と喝破し、「だから、空気を読まない、そうしないと自由に生きていけない」。そんな趣旨のことを言っていた。
戦後70年が終わりを告げようとしているこの時期。戦争を知っている人たちが、だんだんといなくなっていく・・・。
死とは何か。そんなことをしばし考えることになるだろう。
そして、岐路に立つ日本を語れる人も少なくなっていく。それをどう考えればいいのか。
漠然と時々思う。死者は生者のためにあるのではないかと。死とは生への橋渡しではないのかとも。
またこのブログ、投稿にいささか間があいた。それを懸念してくれている人がいた。
たぶん、連日の記載は無理だろうが、自分の消息を伝えるためにも、生きているという「証」のためにも、たぶん、死ぬまで続けなければならない作業なのだろう。
そんなこんなの冬枯れの日。
2015年12月10日木曜日
“チェルノブイリ”異聞
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