2015年12月10日木曜日

日常に横たわる死

なぜか昔から、葬儀の場に赴いた時、それは死者との別れの儀式ではあっても、
それは生者の儀式のように思えてならなかった。
葬儀の間中、「死」について考える時間を与えてもらったと受け止めていた。
何回、「死」について考えて来ただろう。

メメント・モリとしての告別の儀。

このところ相次いで知人の訃報に接している。
12月に入ると送られてくる“喪中葉書”。多くは友人の親、つまり90歳代や100歳を越えた人のものではあるが。

過日は同年の人の訃報が家族から送られて来た。家族葬だったという。
昨日、友人の兄が亡くなったということも聞かされた。同年の方だ。尊敬に値する仕事、生きざまを見せてくれたような方だ。

たまたま最近、毎月の連載コラムに「死について」書いたばかりだった。死者と生者のこと。死なれて・死なせてということ。

毎日、どこかでは、見知らぬ人が死んでいく。テロのより、あるいはテロにまつわることで、子供も含め多くの人の命が失われている。

死者と生者の間に“存在”するものは何か。

誰しも、必ず死を迎える。それだけは「絶対」なことだ。

そして今日、野坂昭如が亡くなっていたということが報じられた。
彼の書いた本はそこそこ読んだ。
テレビでの“過激”な発言もずいぶん聞いた。
田中角栄に対抗して新潟から選挙に出た時は、理解を越えた行動に思えた。

3・11後、その翌年だったか。彼が戦争について語った時がある。
戦前派でもない、戦中派でもない、まして戦後派でもない。焼け跡派だと自分を位置付けていた。

闇市の中で育ったと位置付けていた。戦争によってすべてのものが失われたとも。
そして、「少しは戦争を知っている身としては、あんなバカげたことは繰り返してはならない」と語っていた。
テレビでは「空気を読まないとこの国では生きていけない」と喝破し、「だから、空気を読まない、そうしないと自由に生きていけない」。そんな趣旨のことを言っていた。

戦後70年が終わりを告げようとしているこの時期。戦争を知っている人たちが、だんだんといなくなっていく・・・。

死とは何か。そんなことをしばし考えることになるだろう。
そして、岐路に立つ日本を語れる人も少なくなっていく。それをどう考えればいいのか。

漠然と時々思う。死者は生者のためにあるのではないかと。死とは生への橋渡しではないのかとも。

またこのブログ、投稿にいささか間があいた。それを懸念してくれている人がいた。
たぶん、連日の記載は無理だろうが、自分の消息を伝えるためにも、生きているという「証」のためにも、たぶん、死ぬまで続けなければならない作業なのだろう。

そんなこんなの冬枯れの日。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...