2016年4月7日木曜日

「社会通念」って何だろう

2011年3月11日夕方・・・
政府は「原子力緊急事態宣言」を発した。それは今でも解除されていない。

今の政府の頭の中にあるのは同じ緊急事態でも「国家緊急事態」だ。ワイマール憲法を勝手に解釈して緊急事態宣言を出し、独裁への道を突き進んだナチスドイツ、ヒットラー。

「緊急事態宣言」がある中で、とにかく原発再稼働の動きは強い。
大津地裁は浜岡の再稼働停止の仮処分申請を受け入れた。

川内原発ではそれが退けられた。福岡高裁宮崎支部の決定だ。

大津地裁は「福島」に言及した。福島を考え、再稼働を止めた。
福岡高裁宮崎支部は「福島」を一顧だにしなかった。

「社会通念」という言葉を裁判所の判断基準としてあげた。社会通念とはなにか。辞書にはこうある。

「社会一般に通用している常識または見解」と。

片や「福島の事故をふまえ、新安全基準でも福島の教訓は生かされていなかった」として合理性を認めなかった。

片や「事故のリスクについて、社会がどの程度まで許容するか」という“社会通念”をもとに判断したという。

おかしな論理の展開だと思う。

「重大事故の可能性は認めながらも、最新の科学的知見を超える絶対的安全性まで求めることは社会通念になっていない」とも言う。

新規制基準が社会通念を反映しているというのだ。
じゃあ何故大津地裁は新安全基準ですら“容認”しなかったのか。

揺れ動く司法の判断に戸惑う。

極論すれば裁判官の“個人的見解”に。

社会通念とは時代や経験によって違うものだ。「福島」を経験し、科学的知見なるものが、どこか“まやかし”であることに気付いた人たちもいる。
川内の決定は、社会通念から「かけ離れている」と思えて仕方ないのだが。

揺れる司法判断、裁判官個人の価値観、世界観。

違憲問題にしてもそうだ。

こういう時、「法的安定性」ということをどう理解すべきなのか。
法治国家なのか安全国家なのか。

原発問題をめぐってはまだまだ揺れる司法と“付き合って”いかなければならない。

福岡高裁の決定に安堵している人もいる。歓迎する地元民もいる。

一筋縄ではいかない「人類最大の問題」。

今、世界で一番貧しい大統領と言われた、ウルグアイのムヒカ前大統領が来日中だ。マスコミでは「貧しい」と呼称される。清貧な暮らしと精神を持っているからだ。

「世界一豊かな大統領」と呼びたい。精神が豊かなのだから。
彼は以前「福島」について、原発についてこんなことを言っていた。

「事故の責任を追及できないのは、市場原理が政策を支配しているかだ。原発にはリスクがある。日本には優れた人材がいる。技術力もあり、経済力もある。それなのに、いまだに原子力を取り入れたエネルギー政策を続け、代替エネルギーには消極的だ。そのことに驚かされる。原爆投下を被り、広島と長崎の悲劇を経験した日本が、経済的要素を重視し、国民の想いを考慮しないエネルギー政策を進めていることは信じられないことだ」。

これこそ「社会通念」だと思うのだけれど。

「原子力緊急事態宣言」はまだ生きていると言うことを大方の人は忘れているのだろう。上から下まで。そんな気はしてならない。いや、冗談めかして言えば「宣言取りやめ」宣言を出し忘れているのかもしれない。

“チェルノブイリ”異聞

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