きょうも病院だった。
病院への行き帰り、川沿いに見事な桜並木が続いているのが望める。
車を停め、車窓から伸ばした手に花弁が落ちそうなあんばい。
桜の樹の下から乱れ咲くような桜の花を眺めて来た。
3・11以来、桜に対して、それを避けたくなるような感情を抱いて来た。
せめてあの年も、その次の年も桜は薄墨色であって欲しいと願っていた。
でも、あの年も、それ以降も桜花は常に美しい。
富岡の夜の森公園の桜のトンネル。全長は2,2キロあるはずだが、そのうちの300メートルが立ち入り禁止区域を外された。
夜の森公園の桜も観る人がいないまま6年咲き続けてきたのだ。
桜としての“人格権”が僅かながらも回復されたのだ。
だからか。しばらくぶりに桜との僅かの間、僅かの空間であっても”会話“をさせてもらおうと思ったのだ。
「命二つ、中に活(生)きたる桜かな」
芭蕉の野ざらし紀行にある句だ。20年間合わなかった友人の服部士芳との再会を喜んだ句だ。
20年あまり会うことがなかった旧友と再会することが出来た。その喜び合う二人の中に、桜が生き生きと咲いている。
そういう意味の句なのだろう。
なぜ、芭蕉は「命二つ」と切り出したのか。
我々は命を自分一人のものと思っている。「命は一つ」と思い込んでいる。
それを芭蕉は「勘違い」だと喝破したのではないか。
たしかに命は自分一人のものである。しかし、その命は自分一人で支えているものではない。複数の命によって支えられているのだ。
他者の存在なしに命は無い。家族や友人など“もう一つの命”に支えられながら「命二つ」の中で生きているのだ。自分にかけがえのない命は、相手にとってもかけがえのない命なのだ。
命二つと考えることは相手の心に近づき、自分の身を相手に重ねることだ。
互いに命の尊厳を認め合うことだ。
芭蕉は多分、そう問いかけたかったのではなかろうかと推察する。
たった17文字が何百字の世界を語っている・・・。
首相主催の「桜を観る会」があった。恒例の行事。
喜色満面で写真に納まる首相夫妻。そこに群れ連なる人達・・・。
桜を観る会、その主役は桜だ。
それを見たか見ざるか。
芭蕉には遠く及ばないまでも桜に思いを馳せた人があの中にいたのだろうか。
「風雪に耐えて5年の八重桜」。
乞われてか、好んでかはしらないが安倍がこんな句を披露したと言う。
夏井なつき先生に添削してもらったらどうか。
この駄句からは何も感じ取るものはなかった。
2017年4月18日火曜日
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