2017年4月28日金曜日

「老いる」ということ


腰が痛い、どこが痛い。身体の不調を訴えて病院にくる高齢者は多い。
大したことはない体の変調でも高齢者にとっては大きなことなのだ。

若いときにも同じような変調はあったはずだ。しかしそれは若さと言う肉体や精神の”免疫力“も含めて、医者には行かずに済んでいた病もある。

老齢化するということは、痛みの感覚を自分の体内で処置できない場合もえてしてある。

病に対しての自己治癒力は低下していくと言うことだ。

だから、医者に行って薬という対処しか考えられない。

老化とはそういうことだ。

老いれば頭脳の働きも低下する。
身体の変調は頭脳にも少なからず影響してくる。

少なくとも僕の場合はそうだ。

それをどうやって食い止めるのか。

人はいろいろなことを言い、その方途を書いたりするが、すべては個人差による。

我々は“何かあったら医者”という生活に慣れ親しんできた。

「医者」と言ってもいろんな形態がある。いわゆる町の開業医の場合、時にはそこは高齢者の“社交の場”と化しているところもある。
それに苦情を言う人もいるが、ま、いいじゃないか。おしゃべりで病がいくらか楽になるのなら。

一応完全予約制の病院の場合は、そういった光景はほとんどゼロだ。しかし、そこは大方混雑している。待つ時間が長くなる。それに耐えられるかどうかも高齢者の“勝負”だ。


高齢化社会に伴って国は「かかりつけ医」制度を設け、それを推奨している。
しかし、それが医者や患者にとってどれほどの利点があるのかがよくわからない。
薬手帖なるものがある。確かに役に立つであろうことは間違いないが、元は医師の処方箋が頼りだ。

「かかりつけ医」、難しい問題と思う。例えば24時間対応してもらえるのか、専門外の医療も引き受けてもらえるのか。
専門医のいる病院を正しく選択して“紹介”できるのか。
とりあえず「くすり」ということで誤った処方をしないだろうか。
診断が的確なのだろうか。
いつでも患者を診察できるのだろうか。

病院は第一次救急、第二次救急含め、24時間体制は出来ている。しかし、病院の医師に「かかりつけ」を依頼できるのだろうか。

足しげく病院には通っているが、この「かかりつけ医」のことはなかなか理解が出来ないのだ。
きょうも病院に行った。担当の医師とこのことについていろいろ話した。

プライマリーケアというアメリカ式医療方式、制度が日本に適しているのかどうかも。
かかりつけ医で薬の処方。紹介された病院でも薬の処方。
検査は、例えばX線にしても、その病院での“検査”でなくては医者は納得しない。

結果、国民の医療費はかさむ一方だと思えるのだけど。


もう一つの医療に関すること。

どうも我々患者という人たちは医者がいつも、いつまでも今のままのような姿でいるものと“勘違い”してはいないだろうか。

患者が高齢化していくということは、かかりつけ医にこだわる限り、医師も高齢化していくのだ。

医者も老いるのだ。経験は豊富であっても新しい知見を吸収したり、正しい“判断”を下すことは難しくなっていくのだ。

チーム医療が必要だ。しかし、医師の、特に若い医師の確保は難しい。
老いていくことを“自覚”している医師と、そうでもない医師。

老いを自覚しながらも自ら医療行為に当たらねばならないという地域医療の実態。

馴染みの病院の医師がUSBを貸してくれた。ETV特集でやった福島県広野町の高野病院の記録だ。80歳を超えた老医師が400人の患者を抱えざるを得ないと言う「現実」。

政治家も老いる。かってあった70歳定年も破られた。老害政治が跋扈している。
老いた政治家にこの国の病を治癒させる“知見”や“処方”を求めるには無理がある。若い政治家はどうか。あまりにも頻繁にあるスキャンダル・・・。

はい、僕の頭の中は「病気」なのです。

“チェルノブイリ”異聞

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