2011年5月7日土曜日

「英断」という名の「欺瞞」

「国民の皆様に対して重要なお知らせがあります」。なんという仰々しい切りだし。すっかり「私は辞任します」っていうのかと思いきや。昨日の午後7時10分前後。

「国民の皆様の安全と安心のために浜岡原発の4号機と5号機の発電中止を中部電力に対して要請しました」。なんだい、こりゃ。理由は・・。「文部科学省の地震調査研究推進本部によれば、ここ30年以内に、この地域を震源とするマグニチュード8の地震が起きる確率は87%という切迫した状況にあります」。

この確率って以前から言われていたこと。きのう、きょうの話しではない。

思わず叫んだ。またもややってくれた菅の思いつき、その場しのぎ発言と。

亭主は原発推進論者ではありません。賛成か反対かを問われたら概念としては反対です。経験としても反対です。

東京電力発電所。福島第一、第二。女川、六ヶ所村、東通村・・。視察、見学に数回行きました。もちろん”健全”であった時ですが。

正面入り口を入ると敷地内には色とりどりの草花が咲き乱れ、美しい光景でした。海の波は穏やかで、陽光に輝いていました。受付ロビーのようなところでは綺麗な制服に身を包んだ美しい女性の笑顔が迎えてくれ、安全性をPRするビデオが流され、地域の子供達の遊び場もあり。

建屋の中に入ると雰囲気は一変します。カードを差し込んで何重にもゲートをくぐり、あの防護服みたいなものに着替え。出入りの際はサーバーメーターのようなものをくぐっての放射線チェック。作業員も全員が防護服。放射線管理区域や立ち入り禁止区域は数知れず。

やはり怖い場所でした。電力需給の説明をされても図を見せられても、「要らない」と思った記憶があります。「テロ対策ないよね。テロがあったらおしまいだね」。同行者と交わした会話を覚えています。巨大津波には思いは至りませんでしたが。

浜岡原発。中止には賛成です。

しかし、それが菅の口から得意そうに発せられると、ものすごい異和感に襲われるのです。国民の安全、安心を言うなら、いきなりこの時期に浜岡ではなく国の原子力政策をどうするのかをきちんと言うべきなのに。それには言及全く無く。

「確率87%、切迫」。この言葉は、今、まだ余震の恐怖さめやらぬ東北の人間の不安感をより掻き立てます。「気象庁は極秘の情報を持っている」と。やはり来るんだと。東北では一日に20回近くの余震が続いているのです。

静岡県知事や社民党党首は英断と評価しています。テレビに出てくる、いや、急に出てきた、人選の経緯不明の専門家と称する人たちもこぞって英断、英断とほめそやします。

停止させても、いったん「燃え」た核物質は、相当の期間燃えています。冷却プールに入れても冷えません。数年間は。停止したから明日からは安全。とんでもない。

あえて言います。政権維持、自己保身のための停止要請と。政治的思惑ありでの停止と。
世論調査ではまたまた菅政権の支持率上がるでしょう。小沢の影は薄くなる。自民党は攻めあぐねる。

原発をだしにした姑息な政権延命策。「この発表を機に引退ってことじゃないの」。隣でテレビ見てた人の感想。とんでもないと言ったら途端に無口になった。

遅々として進まぬ福島県民への対策。やることの愚策に次ぐ愚策。福島県民は人身御供だったのか。

東電についで中部電力もたぶん「計画停電」を言い始めるでしょう。強烈な脅し策をとるでしょう。名古屋はパニックになるかも。

浜岡原発管内の市民は戸惑っています。ビジョン無き場当たり発言は経済活動へ多大な影響与えるでしょう。それには言及無し。

為政者としてやるべきことか、言うべきことか。

菅礼賛を叫ぶ、つぶやくツイッター族ってなんだい。勢いづく反原発“運動家”。遠く安全なところに身を置いて「反対、反対」だけ言って事足れりとしょている市民運動家やそれへの同調者。

昨日の記者会見の後、菅は仙石とともに赤坂のホテルの中華料理へ。何を食べたのか。石巻の酒飲んだのかい。福島の牛肉や野菜を食べたのかい。無いでしょうね。紹興酒で乾杯。「いやいや。これで安泰ですな」。知恵袋とともに”勝利”の美酒か・・・・。保身の具にされる原発。国民の安心、安全発言。それを欺瞞と言わずしてなんという。

2011年5月6日金曜日

これって「責任放棄」じゃないの

朝、郵便受けに新聞取りに。無い。思い出しました。新聞休刊日なんですね。とにかくよく休む新聞。

今、この時期、新聞が休んでいていいのか。日々伝えなければならないことが多々あるはずなのに。メディアとしての「責任放棄」とさえ思えてくる。

被災地、避難所は、いまだテレビ受信もままならず。配られる新聞が唯一の情報源だという人多々いるのに。震災当日、手書きの壁新聞発行した地方紙もあったというのに。

中央紙から地方紙に至るまでの休刊日。どうも解せない。いつも大上段に振りかぶって能書きこいているのに。決めごとだからって休刊なのか。

もちろん紙面は無いでしょうが現場で記者さんたちは働いているでしょうし、原稿も書いていたでしょうが。

休刊日を見越してか。官邸記者の”つぶやき”も昨日は少なかったような。

正確な記事、心打つレポート、数々の解説。今、一番必要な時。休刊日返上ってのが新聞の、今、一番必要な態度じゃないかな。被災者と寄り添うならば。

新聞休刊日って、そもそもは新聞配達の少年を休ませるためというのが最初の口実だった。新聞記者も人の子よ。年に何回かは同僚と温泉旅行にでも行って、羽根を伸ばすもの必要でしょうが、それは「平時」に許されること。仕事の使命感としてこの時期の休刊に違和感あり。

国難、非常時を紙面では言いながら組織としては、平時と変わらぬ体制と。

悔やんでいる一線の記者もいるのではと。

かつて政治家は新聞休刊日を見越して、いろいろな動きをした時があった。伝えられるのが一日遅れだということを見越して。

たとえば、組閣は休刊日にはやらない。記者会見はNHKの7時のニュースに合わせるとか。

新聞業界がいまや“未曾有”の経営難にあることは事実。新聞論を言っているのではなく、この1,000年に一度の災害の中で、原発がどうなっているのかわからない中で、情報弱者を作ってしまう新聞の在り方を問いたい。

避難所や被災地にはタブロイド版の簡単な「情報」だけは届けられているのかな。そう期待するけれど。

新聞の無い一日で、ツィッターなどから、どれだけの「デマ」が拡散されていることか。

社会の木鐸、社会の木鐸。木鐸には休みはあってはならない。警鐘を乱打し続けなければ。原発の事故現場で作業員が一日休んだらどうなる。

通常編成にほぼ戻ったようなテレビ。ほとんど復活したCM。メディアの世界だけは「日常」を取り戻したような・・・。

2011年5月5日木曜日

すべてのことには時がある

旧約聖書、伝道の書。その一節。「すべてのことには時がある」。everything has its times。

天の下では何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。ではじまる数々の言葉。


捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。


東電の社長や菅総理がきのう謝罪に歩いた。原発事故による避難所を訪ねて。

清水、何しに来た。謝ってすむ問題じゃない。土下座しろ・・・。

避難所の人たちの怒りはもはや沸点に達している。溜まりに溜まっていたものが爆発した。

東電の社長にいくら罵声を浴びせてもなんにも解決しないってことはわかっていても、怒りをぶつけなければならない。

怒る方も悲しい。土下座させられ頭を床にこすりつけるほうも悲しい。変な言い方かもしれないが、避難所生活も”落ち着いて”きたから、やっと怒ることを思い出した。解決されない怒り。

時を失した謝罪行。

菅とて同じ。爆発を防げなかった。無意味な避難行を強いた張本人。すべてに時を失した国の責任者。

どことなくうすら笑いのような表情で握手を求める。これまた応じる人がいる。福島県の人はどこまでお人よしなんだ。「帰れコール」の一つも無い。総理大臣様のあなり~~とばかり正座を強いる関係者がいる馬鹿さ加減。

「一時間の予定をはるかにオーバーして五時間も」と菅の避難所見学を美談のように書くマスコミ。

五時間くらいじゃ足りませんよ。市民運動家なら市民と一緒に暮らしなさい。かつての盟友は、もちろん己が責任だろうけど、ホームレスやり、今、ボランティアやってますよ。被災地で。ともに苦しみを分かち合おうと。

「避難所の人の苦しみが痛いほどわかりました、早急になんとか」。なんで、今更、今になってわるんだい。遅すぎる。
何にも手を打てない菅。

時を間違えた後手後手の対処しかできない菅。

時、時、時。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。そうも書かれている。伝道の書には。種まきも田植えも出来なくなった。

少なくとも東電と政権は、多くの人から「時」を奪ったことは確か。
時を間違え、禍の根を深くしていることも事実。

謝罪するには避難民だけじゃない。きょうも原発の現場で過酷な危険な作業を劣悪な環境の中でやっている人達にも謝罪すべき。謝罪し、激励しに行くべき。士気を鼓舞するためにも。

その時期もすでに失した。

2011年5月4日水曜日

弟有り遠方より・・・

昨日から弟夫婦が来県中です。震災見舞いで。東京から荷物持って。

荷物の中味。避難所にいる子供たちへのおもちゃや絵本。
早速ビッグパレットの避難所に。川内村の災害対策本部へ案内されて。

避難所の中は、一時とは違ってだいぶ人が減ってきたようです。民間アパート借り上げなどで。

でも、みなさん疲れきっているようでした。

段ボールの”住居”。弟夫婦は口数少なく。テレビで見てきた光景と実際とは感じるものが違うということか。

顔見知りになった人の犬は入院したと。ストレスと感染症。

夜、酒を酌み交わしながらの原発論議。放射能汚染と、それを怖がる余りのストレスによる病気、たばこの”害”。どれを避ける、どっちを取る。
東電のずさんさ。政府の対応の失敗。彼はもともとそっち関係のお仕事。いろいろくわしい。

喋りあって何が解決するわけでもありませんが、久しぶりに酌み交わした酒。避難所の方には申し訳ないが、美味かった。そして有意義だった。

きょうは市内をあちこち見て歩き。あの校庭から土を削った薫小学校まで。
土はブルーシートでなく、凝固材を捲いた土くれとなって黒々とした小山になっていました。
壊れた瓦屋根におかれたブルーシートが鯉のぼりのように風にはためいている。

初夏のような陽気。きのう行われて半径20キロ圏以内への、一時帰宅予行演習。あの完全武装では、もはや、これからの陽気では無理でしょう。身体が。若い人ならともかく。遅きに失した感あり。

立ち寄った店でも話題は原発ばかり。当然です。閑古鳥鳴きまくり。

しかし、国道は渋滞のところもありとか。会津地方の観光地は、予想に反して人が押し掛けているところもありとか。

被災現場。今日もボランティアの人交じって「片付け」の作業が続けられているでしょう。原発の現場では何が行われているのか・・・・。

酒好きの弟。土産も兼ねて地元の酒を購入。石巻の酒から会津の酒から矢吹の酒と。

そうです。なんとなく、忘れられたような被災地。原発では無く地震そのもの。福島県の須賀川、矢吹、鏡石。まだまだ避難所暮らしの人も大勢います。地元のメディアも余り取り上げない被災地。せめて一本、そこの酒でもと。

さまざまなニュースが飛び交っています。ビンラディンの殺害、焼き肉屋の生ユッケによる食中毒死、3人にと。

アメリカにとっての「正義」をどう解釈したらいいのか。食の安全と言われつづけ、浄水場の水や牛乳で大騒ぎした人達が、生ユッケと今後どう接するのか。牛刺し、レバ刺し。全焼き肉店に”風評被害”は及ぶのか。
これまたお粗末だった国の食品安全基準。事件が起きて発覚する。

テロの報復も言われている。

安全、安心な国家とは。生活とは何?。

2011年5月3日火曜日

法の下で・・・

今日は憲法記念日。護憲派、改憲派、それぞれがどっかで何かをやっているのか・・。どうでもいいような気がしている。

大震災後初めて、新聞紙面の一面はオサマビンラディンンの記事で埋め尽くされた。震災が片隅に押しやられたとは言わないが。

ガキじみたとことを言う気はないが、法の下では皆平等で、自由であると教えられてきた。そうあるべきだと思っている。

今の日本国憲法に触れた中学生の頃から、憲法が大好きだった。特に前文が好きだった。名文だと思っている。

日本国民は憲法を守っている。遵守している。第九条の解釈をめぐって以外は。

この国は、政府は、憲法違反を犯している。かねがねそう言って来た。言い続けてきた。それはどこか。第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。

いま、震災以降、原発事故以降、この権利は失われた。我々は守って来た。憲法を。その他の法律を。しかし、法は国民を守ってくれていない。

かつて自衛隊を憲法違反だと声高に言った人達が大勢いた。政治家も言論人も。自衛隊員は肩身の狭い思いをしてきた。

原発を含め、今、被災地で国民を守っているのはだれか。自衛隊員である。憲法違反と言われ続けた人達である。

憲法は基本的人権をはじめとしてさまざまな国民の権利を保障するとしている。その権利が国家によって失われている。なぜ法律家は声を上げないのか。

被災地の住民は、既存の法律を盾に、「できません」「そうなっているんです」。法律、法律の連発によって、たとえばハローワークに言っても雇用ままならず、強制的に退避させられた会社や家の中に置いてきた書類一つや許可証一枚が無いため、新しい生活を立て直そうとしても法律を口にする人達がそれを許さない。

かつて超法規的措置を行い、人命は何よりも重いと言って称賛を浴びた内閣総理大臣がいた。

大震災、原発事故。すべて「想定外」だという。たしかにそうだった。ならばそれの即した想定外の法律の適用や解釈、運用があって然るべき。

法律とはすべて「想定内」で出来あがったもの。放射線、放射能にかかわる法律や基準にしても然り。暫定という腰だめの無責任な法律や基準が指標として使われ、ろくに議論も検証もしないまま、学者と称する人たちが勝手なことを言い合い。想定外を言うなら、想定外の法律を作ろう。

知る権利だとか、言論の自由だとか。憲法をたてにしてそれらを言うなら、その前に、まず「人間」であれと。

きょうの新聞に俳句が紹介されていた。
「明日も喋ろう 弔旗が風に鳴るように」。

だからボクは多分、明日も、明後日も、喋り続ける。このページで。

かつて五木寛之が書いた本の題名。

「デラシネの旗の下で」。

デラシネとはフランス語で、根無し草、故郷を喪失した人のことを言う。

デラシネになってしまった人々のなんと多い事か。

こどもたちがこの五月の陽光の下で遊べなくなってしまった福島県。親は子供を思う。やっとの思いで連れていった東京ディズニーランド。車はいわきナンバー。車の横腹に書かれたという。「福島へ帰れ」と。

基本的人権はおろか生存権まで奪われかねないような、さまざまな憲法違反。それを止める手立てはない。それを黙認している国家、政府。
その場しのぎのように「風評はやめましょう」。そんなことをぼそっと記者会見で喋って免罪符にしようとしているとしか見えない。

法治国家ニッポン、民主主義国家ニッポン。法は不平等である。法はデラシネの民を守らない。

デラシネの旗が汚染された土壌の上に立っている。五月の風を受けて悲しみの声を鳴らしながらたなびいている・・・。

2011年5月2日月曜日

これもニュースなのか

原発事故を受けての節電ムード。それはそれでいいのですが。当然なんですが。

クールビズってやつを前倒しして昨日からはじめた国会。たしかにネクタイしてない閣僚や議員さんも。論戦に熱が入っているようでもなし、東京だってそんなに暑くないのに。

きょうの新聞みて驚いた。閣僚の服装がニュースになっている。これってどうだっていいことじゃないですか。服装なんて着る人が勝手に決めればいい。

ネクタイしている人が誰と誰で、してない人が誰で。それを記者会見で官房長官に質す記者。もう「感覚」が完全にずれている。
もちろん、全てとはいいませんが、ニュース感覚がおかしい。東京のくだらない話題を全国に、しかも被災地に送るな。

見出し。「閣内不統一」だって。下手なギャグにも及ばない。
暑ければ勝手に上着を脱ぎ、ネクタイはずせばいいこと。
各紙、それを話題にする。クールビズ。節電ビズだと。クールビズって変な造語は涼しいって意味のクールとビジネスとを掛け合わせたもの。
節電ビジネスってことになるでしょ。節電ビズ。意味が通らない。

服装とは基本的に身を律することにつながる。どんなに暑くてもスーツにネクタイ。これって議員さんの仕事着と。我慢してこそ身を律することが出来る。だらしない格好からはだらしない発想しか生まれない。

きょうのNHKでも昼のニュースで都庁のクールビズの話。馬鹿馬鹿しいにも程がある。これって伝えることなの?右へならへと民間企業もとか。

避難所。これまでは寒さに耐えてきた。これからは暑さとの戦い。

服装が違うからってなんで「不統一」って発想出るのか。画一的なことがおすきなんですね。メディアの皆さんは。同じことを他社と同じように伝えて安心しているいるような。

災害がくるわけでもない官邸で防災服着て、格好つけていた時もあったっけ。視察の時にも防災服着て・・・。

防災服着たから意識が変わる、被災地と同じになるとでも思っていたのか。
そう、意識が変わるのなら、間抜けなクールビズやって間抜けな論戦やることを良しとしているんかい。

原発の現場でクールビズは成り立たない。あり得ない。被災地で働く自衛隊員は皆、ちゃんとした制服。それが自らを律する誇りにもつながっている。

紙面やテレビが作る、それこそ「温度差」。

無意味な報道がまかり通っていることに腹がたって、腹がたって。

震災後、原発崩壊後、この国は変わらなければならないと誰もが口々に言った。だけど、結局何も変わってない。特にメディア。ばかばかしいお笑い番組は復活したし、大食い番組も復活した。

政治家よ、メディアの連中よ。28度で結構。その中で、暑くいてもネクタイしてちゃんと身を律していなさい。我慢しなさい。我慢しなさい。それの方が被災地といくらか気持ちがつながる。

放射能の”恐怖”が人心を切り裂いている福島県。この夏、外出するときには炎天下でも、肌を露出せず、マスク、帽子という服装を迫られる。「念のために」という政府の掛け声のもと。

そして何故か。福島県民の節電意識は高い。

衣食足りて礼節を知る。べつに論語を引き合いに出す気はありませんが。

2011年5月1日日曜日

あっと言う間の皐月

今日は5月の1日。震災から50日余り。何かをしょうと人は動いているものの、時が止まってしまっているという人のなんと多いことでしょう。

5月1日はメーデー。労働者の祭典。東京の日比谷公園や代々木公園には多くの人が集まっていることでしょう。

立て万国の労働者、とどろきわたるメーデーーの♪。かつてはそんな歌声がメーデー会場に響き渡っていましたが。
毎年、毎年、賃上げ、賃上げの声がこだましていましたが。

たぶん、おそらく、今年は大震災復興を叫び、原発反対の声が、シュプレヒコールがわきあがっているのかと。
なんか時流に乗り遅れまいとする”原発反対”の声のようにも聞こえてくるのですが。

正面切って「原発反対」を大衆運動としてやっていた人はもういなくなっていたはず。その勢力が再び頭をもたげはじめた。けっこうなことなんですが、なんとなく切迫感の無いシュプレヒコール。

メーデーを歌って踊ってという”コンセプト”で包んでしまった時から、原発反対勢力はいなくなっていたような。

さわやかな五月の風の中を風船片手にそぞろ歩くかのようなデモ行進。「ゲンパツハンタイ」と口に出すことで免罪符を手に入れたような気分になっている人達とも。

放射能の恐怖にさらされている現地と、メディアでそれを”情報”としてとらえている人達との、まさに温度差を覚えるのです。

3月11日で時が止まってしまった人達にも、ある意味、情け容赦も無く、薫風薫る皐月なんです。時や、時間という営みは人の意思とは無関係に・・・。一年間で一番良い季節を連れてくる・・・。

3月11日も、歴史の中のたった一日だった。それを思う今日の5月1日も、歴史の中のたった一日。

その日、一日、一日をどうにかして乗り切って、乗り越えていかなければなたない。そう思いながらも、いたずらに時は流れて行き、取り戻すことはできないけれど。

もはや精神力との戦い。

しかし。だれしもが強い精神力を持っているわけではない。多くの人が負けそうになっている。

頑張ろう、つながろう、団結しよう、絆で結びついている。さまざまな言葉が投げかけられる。投げかけられる言葉が、弱り切った心根に届いているのか。いささかの励ましを与えているのか。強い精神力を鼓舞してくれているのか。崩れそうになる心の支えになっていてくれているのか。

言葉は強いのか。言葉は無力なのか。

導き出せぬ答えを探そうとしているような。

テレビの魔法。繰り返される音声としての言葉よりも、一頭の犬の表情の方が、流れ星を追う目線の方が、人のこころに届いているのかもしれない。


    こッつん こッつん   ぶたれる土は   
    よいはたけになって   よい麦生むよ。 

    朝からばんまで   ふまれる土は
    よいみちになって   車を通すよ。 

    ぶたれぬ土は   ふまれぬ土は  いらない土か。
    いえいえそれは   名のない草の   おやどをするよ。


放射能汚染によって地面から削り取られた土。行き場を失い、ビニールシートの覆われたまま放置されている土。
もし、金子みすゞが生きていたら、今のこの国の姿を見たら、どんな詩を書いてくれただろうか。どんな言葉で我々を支え、癒してくれるのだろうか。

誰かがどっかでなんか言っている。言葉は聞こえるのだけど、さっぱり心には届かない。華やいでいるはずの五月が、悲しい季節になっているような・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...