2012年12月22日土曜日

元気ですか・・・

どうも風邪がままならず。ついに医者に行ってしまいました。
流行しているそうで、混みあっており。待つこと1時間以上。
患者も辛いだろうし、医者や看護師も大変だと。

枕、置くに値わずといった状態。ま、それはどうでもいいことであり。

体調が悪いと、それは決して憑依ではないものの、去年のあの日以来、布団の中で寝ることも叶わず、医者に行くことも叶わず、辛い思いをされていた人が、多くいたんだなと、それに比べたら、こんな風邪くらいでーーと思ってしまうのです。

どうしても用事があって友人の画家のアトリエに行きました。そこにあった彼の作品。今までに書いた絵、震災後に現地に行って写真を撮って書いた絵。
それらが、「パッチワーク」のように、カンバスに貼りつけられてあり、そこに彼のメッセージが書かれていました。

「元気ですか」。

被災地の人同士で、他からの問いかけ含めて、「元気ですか」「元気してたかい」。そんな言葉が、今も飛び交っていることと思い。

手抜きではないけれど、今までやったことはないけど、写真を張り付けてみました。

見える方は見てください。

画の中に埋め込まれている文字を。彼なりのメッセージを。

風邪が治って「元気だよ」と言いたい。明日は“復活”するぞ。

せめて気力だけは萎えさせないようにしないと。
そして、メッセージ。

2012年12月21日金曜日

こんな「世論調査」があってもいい~選挙余滴~

マスコミによる世論調査は、そのほとんどが「国政」に関することである。
今度の選挙、世論調査の結果は大方、「当たって」いた。

世論調査の一つの断面は、それが世論を誘導しているということ。大方の人は、その結果に多少の疑問を抱いたとしても、大勢に乗り遅れない、多くの人がそう思っているのなら、そうしよう、という“自分”(亭主ではありませんよ)の意志が、まま働く。

国政選挙はひとまず終わった。しかし、双葉町は大きく揺れている。町長の不信任決議案が全会一致で可決され、町長選か町議選か、またも身近な選挙をしなくてはならない。

「地方選挙」と言っても、そこには労力含め、大きな費用が発生するのだが。

不信任の理由は、井戸川町長の「独断専行」にあるという。「井戸川論」を語るべきものは何も持っていないし、語る“資格”もない。

ただ、あらためて思うのは「リーダー論」。それと「住民合意」。常識的な、第三者的見方をすれば、双葉8町村は、連携して事に当たるべきだ。被災地の中で、「割れてしまう」というのは、ある側にとっては“歓迎”すべきことになるし。

相変わらず「顔が見えない」福島県知事。昨日の県会では予算の不正支出があったとして、決算は承認されなかった。なんとも不服そうな顔をしていた知事。
その顔は見えたけど。

で、提案。県紙二紙。福島民報と福島民友。県内限定の世論調査、県民の意識調査とやらをやってみてはいかがかと。
「あなたは県知事を支持しますか」。「県のやり方をどう思いますか」。「原発問題についてどう思いますか」。「復興は進んでいると思いますか」など、など・・・。

いかがですか、民報さん、民友さん。

それは、他の市町村長についてもあてはまるかもしれない。双葉町でもやってみればいい。県紙としての役割かもしれない。

住民合意。それは100%あるものでは全くない。しかし、被災地では、それを前面に打ち出す。県は市町村にそれを投げる。国との仲介役をもって良しとしている。県とはまさに伝書鳩のような。

世論調査の結果によっては、それがリコール運動への起爆剤になるかもしれない。

地方における「議会制民主主義」は、まさに国と同じく「民意」が正しく反映されているとも思えないから。

地方自治体に於いて、首長選びは、いわば直接民主主義。世論調査もその延長線上と考えてみて。100%はもちろん無いが、大多数の住民の意向を確かめること。直接吸い上げること。それは大事なことかもしれないと。

国政では住民の意思は、ほとんど吸い上げられないのだから。

私事、余談で恐縮ですが・・・。
亭主、あの選挙の日から、すっかり風邪をひきました。風を報道で知りながら、自分は風邪におかされている。滑稽なんですが。

月一連載のコラムとエッセー、ボーっとした頭で書きあげ送る。
「行数足りません」と枕元の電話で伝えられる。寝ていられない。そして、このからから亭は、絶対に臨時休業にするわけにはいかない。PCがウイルスに侵され、大風邪をひかない限りは。

だから言いわけ。わけのわからないことを書いているかもしれない。熱のなせることとご勘弁下さりませ。

2012年12月20日木曜日

彼我の投票率を見て・・・~選挙余滴~

お隣、韓国の大統領選。初の女性大統領が誕生した。
その選挙、投票率は75%を優に超えると言う。それが、朴氏に投じられた票ではないにしても、どちらかというと相手側の文候補の投じられた票が多いとしても、若者の多くが選挙に「参加」しうたということ。

50%台と言う“お寒い”日本の選挙の投票率の差。

そこには“インターネット選挙”が「解禁」されていると言う環境が大きく作用しているのかもしれない。

選挙への参加という「民主主義の基本」。そしてネット解禁。そういう意味では韓国の方が、はるかに「先進国」なのかもしれない。
「数字」と言うことで言えば。

昔の人は律儀だ。東京の初台に住む91歳の老婆は、かなり足が弱っているにも関わらず、指定された投票所に行った。なんと、延々100メートルにも及ぶ列。寒い中、彼女は待つことにした。寒い。見かねた近くの人は彼女の「消極的棄権」を勧めた。渋々彼女はそれを聞きいれて家に帰った。

ネットには「投票所に人が並んでいる」という書きこみが、16日に多々あった。それにしてはあの投票率は何だということになる。ネット族の嫌なところは、それを「不正選挙」と叫ぶところ。

少なくとも日本の選挙で、投票数を偽る「不正選挙」はあり得ない。

選挙後、若者と話し合った。選挙について話し合いたいというかねてからの約束だったから。彼は、ほとんど“完璧”と言っていいくらいのネット族である。
ネットの信奉者である。システム構築くらい平気でやってのけるツワモノ。
そして、彼の実家はいわき市。被災地の人間である。

彼は言う。「なぜ、20代30代の若者が投票所に行かなかったかと思いますか」。
彼の持論が展開される。

若者も選挙に関心が無いわけではない。しかし、ネット環境の中に身を置き、それの利便性を享受している身にとっては、今の選挙の在り方ではダメなのだ。
候補者がどういう政策を掲げ、どういう実績を積んできたか。ネット以外ではそれを知るすべが無い。

新聞は見ない、テレビでは政見放送はよく伝わらない。ホームページを政治家は候補者は持つべきだ。
例えばアマゾンを思って欲しい、アマゾンで、買いたい商品のレビューを見て、若者は購入するかどうかを決める。

候補者とネットを介して“対話“が出来るようだったら、若者の投票行動は変わるはずだ。投票もネットで出来るようにすべきだ。事前に住基ネットで、投票番号みたいなものを割り当てておいて、それを入力して”投票“する。

具体的なイメージさえも伴った“提案”。

当然、亭主は反論する。それって余りにも受動的な意思表示じゃないかい。選挙とは、民主主義とはもっと能動的なものであるはずと。

彼は認める。受動的というある意味での「批判」を。しかし、それでいいのだという。

投票所に行く、その前に何らかの、例えば個人演説会にまで足を運ぶ、そんなことは面倒なのだと。時間と労力の無駄なのだと。若者はそいういう「無駄」を忌避するのだと。

ネット選挙にしない限り、地縁、血縁に結ばれた旧態依然とした選挙結果しか出ないとも。

そんな受動的な若者を誰が作ったのか。親の世代だと言う。団塊の世代だという。それらの人々の老後を支える若者が、制度の問題だけに矮小化して投票行動を決めるという“違和感”。

もちろん、彼はそれらを十分承知の上で、ネットの意義を、意味合いを説く。

彼の話を聞きながら、会話しながら気づくことも多々あった。

そうなのだ。もはや時代はネットを抜きにして語れなくなったのだと。

ネット環境を持たない人達は・・・。彼はそれを持つようにすべきだと言う。
ネットがある程度の、“知識”というゲタをはかせているかどうかはともかく。

韓国を知悉しているわけではないが、ネット選挙といい、投票率といい、あの国が「先進国」であるのではないかという思い。それを埋めなければ。
亭主のスマフォ。残念ながら(笑)サムスン製・・・・。

2012年12月19日水曜日

福島県民が自民を選択したわけ~選挙余滴~

東北は、特に福島県は、中選挙区の時代から「保守王国」と言われてきた。保守王国は北陸にもある。言ってみれば自民党の牙城だった。たしかに、かつて宮城県で佐々木更三という日本社会党の大物を輩出したりはしていたが。

往時、田舎は保守。革新は都会というようになんとなく決めつけられていた節がある。

今の選挙制度、小選挙区比例代表併用制という制度。その制度は「民意」といいうものを的確に反映しない。

いずれ、学者や専門家が、数字をもとに「検証」するだろうが。

比例区、自民の獲得票は全国平均27,6%、前回の26,7%と大差が無い。
投票率はさておき、有権者の27、6%しか支持を得ていない。惨敗した前回とほぼ同じ支持率。

福島県は支持率というか、獲得票は26%。でも、3区の自民候補は惜敗率で、かろうじてすべりこんだ。その3区の玄葉を除いて、選挙区を制したにはすべて自民。浜通り、原発がある5区も自民。それらに対して、ネットではいわれなき“非難”が浴びせられる。「反」という人達を中心に。

大いなる勘違いだ。被災地だからと言って、即、「思想」としての反原発にはなびかない。もちろん原発事故に直接遭遇している。極端にいえば、“悲惨”な日々を送っている。反原発を言わない、むしろ推進といわれる自民の候補に票を投じた。なぜか。

今までの民主党政権では、いわゆる“復興”が何も進んでいないということにたいする不満。長年付き合ってきた自民党の、ある種の“安定”さに望みを託した。
「原発を思えば、その被害をもろに被った身にとっては、自民にいれるのは抵抗感があった。自民党の積極的支持ではないが、とにかく現状を少しでもよりよいものにしてほしい。自民に“期待”するしかない」と。

それが、5区の人達の大方の本音。
自民が、福島を「無視」した途端、それは怒りの感情を伴って、来年の参院選で投票行動を逆転させるはず。

福島1区で返り咲いた亀岡偉民はこう「総括」している。
「敵失と風で交代した。それに安心していてはどうしようもない。自民党が前回の反省をどういかせるかが大事だ」と。そして安倍が言っている国防軍や憲法改正についても「被災地、被曝地で困っている国民を助けるという眼の前の課題を優先すべき。まずやるべきことをやってからだ」とも。

自民の候補者は、「脱原発」を訴えた人達もいるという。

福島県も投票率は低かった。あげく、避難している人達には、選挙公報や投票所入場券が届くのも遅く、投票所も不明確なままだった。

とにかく、福島県民の願いは、政治に対しての願いは「今」なのだ。だから、もう一回言う。党を超えて、福島県選出議員は結束して県民の願いに応えるべきだと。永田町の大勢に流されていたのでは、キミ達に明日は無いと。

新政権発足に向けて、人事含め、金融政策や財政政策についての議論が始まっている。閣僚人事も云々されている。

何にも聞こえて来ない。復興大臣をどうするのか、原発担当大臣を置くのか。復興庁をどうするのか、どれだけの権限を持たせるのか

せめて副大臣の一人でも福島県に常駐させるような気構えはあるのか。

選挙制度の故もあるのだろうが、余りにもの「大勝」に自民党ですら戸惑っているとか。戸惑っていると、見るべきものが見えなくなり、見ようともしなくなってしまう。

株価が上がった。8か月ぶりに1万円を突破した。それを伝えて悦に入っているようなマスコミではだめだ。

福島県民の苦渋の選択の、本当に苦渋の選択をした人達を、少なくとも県船室議員は、喚き続けて欲しい。あの「おぼっちゃま」達に聞こえるように。

2012年12月18日火曜日

どこにも“高揚感”が無い・・・

わずか2日前のこと、その余韻が列島各地に残っているとは思うが・・・。

新聞や学者は、こぞって票の分析をやるだろう。その意味合いを探るだろう。
的を射た結論がだされるかどうかはともかく、それを冷静に眺めてみたい。

「意識を探る」というのは、ある意味至難の業とは思えども。

自民大勝。維新が地歩と築いた。

でも、予想外とも言える大勝にもかかわらず、自民に、そこに票を入れた人達に、“高揚感”が無い。

勝って兜の緒を締めよ、ということなのか。

自民党もわかっている。積極的な支持では無く。消去法による、民主党への失望がこの結果をもたらしたということを。

それを「他山の石」と受け止めているからだろうか。3年前のようなはしゃぐ様子や、何かが変わると言った期待感はあまり感じていない有権者。

憲法改正論議、その行方だけに目が行っているのも現実。

亭主の関心があった「数字」が出された。白票、無効票の数。やはりというか・・・。
選挙区の無効票は“過去最高”の204万票だったと。

低い投票率。その中で投じられた「白票、無効票」。有効投票率は、数は、もっと少なかったということになる。

「政策に共感出来る政党があっても、その党の候補者がその選挙区にいなかった。それが影響した」と学者は“分析”する。比例区における白票、無効票もぜひ示してもらいたい。それも民意に他ならないのだから。

比例区の自民の獲得票はほぼ前回選挙並みだったという事実。

だから、自民が勝ったのではない、民主が負けるべくして負けたのだということ。

そういう意味では、自民は「大人の政党」に脱皮したのかもしれない。はしゃぎ高ぶらないという現象を見ても。

今後の政局展望は・・・と聞かれる。今夜も聞かれるだろう。どう答えるべきか、「古い政治記者」の感性では読みとれないものがある。解をもたない。そこには「感想」しか存在しないから。

選挙の違憲裁判が提起されるだろう。選挙制度の在り方も言われるだろう。小手先の「定数削減」でお茶を濁すわけにはいかない、今の制度の是非。

選挙の直前、津田大介が上梓した「ウエブで政治を動かす」という本を手にした。読破には至らなかった。

インターネットの発達がわれわれに見せてくれたのは「新しい民主主義」という夢だ。そのとき、少なくともきみは政局ショーの観客の一人では無く、実際にこの国を動かす一人になっているかもしれない。そう彼は自説を投げかけている。

彼の説が、どれくらい今度の選挙に反映されていたのか。ネットでも選挙論議は盛んだった。しかし、彼らの投票行動はどうだったのか。相変わらずの“観客”だったかもしれないし。

原発は自民政権時に出来たものだ。その被害をまともに受けた福島県民も、避難民も、いわば“自民回帰”を選択したと受け取られている。その結果だけの故をもって、「反」の人達は、福島に刃を向け始めている。

避難民の投票率は低かった。それは「あきらめ」の意志表示だったのか。
いや、政党はどこでもいい。よりましな、今をどうにかして欲しいという切望の中で出された投票結果なのかもしれないと思う。

「今をどうにかして欲しい」。その一点。それに誰がこたえ得るのか。

被災地と政治の間の乖離は深まるのか、埋められるのか。
そして、何も変わらなかった・・・それだけを恐れるのだが。現実かもしれない。

2012年12月17日月曜日

今年の漢字は「消」だ

昨日行われて選挙。相変わらず「バンザイ~」を繰り返す当選者。古い事が消えた今、古い事を言うようだが、「万歳」とは天皇陛下を讃えるもの。
解散の時の万歳は、それが“天皇の行為」として(もちろん形だけだが)、そう記された憲法に規定によって、紫の袱紗に包まれた天皇の「詔書」が読み上げられることからくるものだから、そこに天皇が存在するから、ま、これを国会議員がどこまで理解しているかはともかく、まあ、許そう。

選挙で当選した人の事務所で行われる万歳の違和感。それだけを抽出して放送に載せるテレビの安易さ。画になる光景として。「万歳中継」、テレビ局の常套語。

今度の選挙結果、一番うまく的を射た言葉で語ったのは、小泉進次郎。その一語に尽きる。
この3年間で自民党が変わったから支持されたのではない。民主党がひどすぎ、新党が新党に見えなかったから。自民党こそ、新党として出直すべきだ」。

古い自民党は消えろと言っている。

民主党は「消えた」。政界の勢力地図として。他にも消えたに等しい政党がある。そして、要職にあった人達も、ことごとく消えた。

かつて「民主党解党の勧め」を書いた身、それに伴って政界再編成も言ったが、自民の大勝のもとではそれもないだろう。

3年前の政権交代。風が吹いた。今度も風は揺り戻しとなって吹いた。吹いた風は気ままだった。自壊作用をもたらし、自民への風となった。
なぜかマスコミは、風は吹かなかったと書くのだろう。彼らの言う“風”とは何だったのだろうか。

議席が消えた、増えただけでは今度の選挙は語れない。

投票率59,3%。戦後最低。多くの有権者が投票所から消えた。

政治への関心が消えた。無関心層が増えたということ。それが意味するものは何か。

自分達は無関心であり、嫌気がさしていたとしても、どこが政権を取っても変わりはないと決め込んでいても、政治はその人たちをも放っておかないのに。

そして、政治から「福島」が「被災地」が消えたような気がする。

昨夜来、当選した人達に無理やり語らせる「福島」は余りにもこころもとない。
具体的に言及した人をみない。語れないのだ。

その政党への“信頼”はともかく、反原発、脱原発への風は消えたに等しい。

福島県からは比例復活を含め、9人の国会議員が誕生している。せめて、彼らは党派の枠を超えて、それこそ、「福島を取り戻す」と言ったような院内会派でも作らないだろうか。

有権者の60%にも満たない「民意」。小泉の言を借りるなら、自民支持は積極的支持ではなく、消極的支持である。ここにも「消」の字がある。そして、消去法による第三極なるものも含めた投票。ここにも「消」の字がある。

政治の舞台から「福島」が消されることを畏れる。

そして消えないであろう、猟官運動がすでに激しさを増しているという。

「消」と言う字に変えるべき今年の「漢字」と。

選挙結果をまだ「消化」出来ないでいる。

2012年12月16日日曜日

詩を携えて投票所に向かう

たしか、谷川俊太郎の詩であったと思う。「死んだ男の残したものは」。
多分、もう30年以上も前に書かれたものだが。

不思議なものだ。言葉の世界は時空を超えているような気がしてきて。「今」を、つい「1年前」を、いや「もうちょっと前」を詠んだように思えるから。

死んだ男の残したものは 一人の妻と一人の子供
他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは しおれた花と一人の子供
他には何も残さなかった 着物一枚残さなかった

死んだ子供の残したものは ねじれた足とかわいた涙
他には何も残さなかった 思いで一つ残さなかった

死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残さなかった 平和一つ残せなかった

死んだ彼らの残したものは 生きてる私 生きてるあなた
他には誰も残っていない 他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまたくる明日
他には何も残っていない 他には何も残っていない


敢えて、この詩に異論を唱える。

子供は思い出をいっぱい残している。思い出が残っているから、残った人たちは悲しい。
たとえ死んだ歴史だとしても、輝く今日は残してくれていない。明日はどんなものであろうと来るだろうが。

そこに輝くものは何も見えないけれど、この詩を携えて、ボクは投票所に行く。
そこに一票という意志を残してくる。
それが、羅列された「言葉遊び」の選挙だとしても、その結果が僕たちを「奴隷」のようにしばりつけるものだとしても、それが単なる「数合わせの政界ゲーム」だとしても、たった一票にしかすぎないけれど、そこに、あの日突然死んだ万を超える人達の無念さと、十万を遥かに超す、いわば「見捨てられた」ような人たちの思いを託して、権利を行使し、投票箱に祈ってくる。

その一票は、「小さく、みじめで、はかないもの」であろうとも。

今日の投票の結果が何を生むのか。なにか変わるのか。藪の中、霧の中。

期待を込めての一票なのか。消去法としての一票なのか。

被災地には、被災地としての一票があると。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...