たしか、谷川俊太郎の詩であったと思う。「死んだ男の残したものは」。
多分、もう30年以上も前に書かれたものだが。
不思議なものだ。言葉の世界は時空を超えているような気がしてきて。「今」を、つい「1年前」を、いや「もうちょっと前」を詠んだように思えるから。
死んだ男の残したものは 一人の妻と一人の子供
他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは しおれた花と一人の子供
他には何も残さなかった 着物一枚残さなかった
死んだ子供の残したものは ねじれた足とかわいた涙
他には何も残さなかった 思いで一つ残さなかった
死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残さなかった 平和一つ残せなかった
死んだ彼らの残したものは 生きてる私 生きてるあなた
他には誰も残っていない 他には誰も残っていない
死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまたくる明日
他には何も残っていない 他には何も残っていない
敢えて、この詩に異論を唱える。
子供は思い出をいっぱい残している。思い出が残っているから、残った人たちは悲しい。
たとえ死んだ歴史だとしても、輝く今日は残してくれていない。明日はどんなものであろうと来るだろうが。
そこに輝くものは何も見えないけれど、この詩を携えて、ボクは投票所に行く。
そこに一票という意志を残してくる。
それが、羅列された「言葉遊び」の選挙だとしても、その結果が僕たちを「奴隷」のようにしばりつけるものだとしても、それが単なる「数合わせの政界ゲーム」だとしても、たった一票にしかすぎないけれど、そこに、あの日突然死んだ万を超える人達の無念さと、十万を遥かに超す、いわば「見捨てられた」ような人たちの思いを託して、権利を行使し、投票箱に祈ってくる。
その一票は、「小さく、みじめで、はかないもの」であろうとも。
今日の投票の結果が何を生むのか。なにか変わるのか。藪の中、霧の中。
期待を込めての一票なのか。消去法としての一票なのか。
被災地には、被災地としての一票があると。