きょうは2012年12月11日。「あの日」から1年9カ月たった。ボクの中にある時計は止まったままである。いくら振っても叩いても、電池を入れ替えても動いてくれない。
きのう午前0時、大熊町の大半は帰還困難区域に設定された。バリケードが出来た。立ち入りは禁止された。公の意向によって作られたバリケード。町の分断線。物理的分断線は心の分断線につながる。
それが、未だ以て、あれから1年9カ月が経って、さらに進行しているという現実。
帰還困難区域。それは5年という言葉で語られているものの、事実上は「放棄」を宣告された区域。
飯舘にもあった。南相馬の一部にもある作られたバリケード。バリ封。
大熊では、バリケードの外側で、避難している住民達によるパトロール隊が初出動した。
帰れなくても守らねばならない地域・・・。
誰でも、自由に、世界のどこへでも行ける時代に、人が入れなくなった、行けなくなった地域が出来ているという現実。
何も変わっていない。いや、むしろ“後退”への変化としか見えない。
「3・11」。我々は多くの事を学んだはず。学ぼうとしたはず。では、一体何を学んだのか。変わろうとしたはず。変わることを誓ったはず。でも、それは、過去の“幻影”のような・・・。
人間には、いや、世の中には、過去と現在と未来という時間軸がある。過去も未来も「現在」を基本にして語られるもの。
現在を見詰めずして、未来は語れないと思うのだが。
いきなり引き合いに出して恐縮だが、「日本未来の党」という政党がある。卒原発を最大政策に掲げた党が。
未来の「原発」を掲げ、語るのも結構。それを否定は全くしない。しかし、今、語るべきは、現在の「原発」なのだ。そして未来の原発とは、「破棄物」をどうするのかということであるべきはず。最終処分をどうするのか。彼らは語りえない。
かつて、民主党の代表選にあたって小沢一郎は言った。映画“山猫”のセリフを引用して。「生まれ変わるためには、私自身が変わらねばならない」と。彼の何処が変わったのか・・・。
分断線。それは、被災3県と言われる中にもある。原発と津波被害とを比較して。津波被害は福島にもあったが。
去年からの「読者」の方ならわかっていただけると思い。ボクは原発だけを語ってきていない。いや、「死者」に「死者に関わる人」に、気持ちは向いていた。向いている。その中で敢えて福島県人として、「原発」を問うている。
福島県内でも分断線は存在する。住む所を追われた人達と、そうでない人達の間の。
遠くに住む人、暮らしている人達も、その被災地と非被災地との間の分断線を埋めようと努力してくれている人達が数多くいる。
しかし、敢えて線を引こうとする人達もいる。
政治と被災地の間には、なんとも大きな分断線が引かれたと思う。どれほどの政治家が、それを無くそうとしたのか。
今、この国は「未来」を語る時代なのだろうか。未来を語り、希望の持てる未来を作ること。それは政治の理念としては当然だ。
しかし、それを語るためには「現在」を「現実」を直視しなければならないのだ。それが、今のこの国の在り様なのだ。分断線に覆われたこの国の。
人類の歴史とはおおかたそうだ。「見たくないものは見ない」「見て見ぬふりをする」。見たくない過去には「蓋」をする・・・。
被災地はまさに日本なのだ。“日本を取り戻そう”という空虚なフレーズ。まずは取り戻してほしい。被災地を。その方途は誰も詳らかにしない。出来ない。
選挙には何百億円もの費用がかかる。税金が投入される。議員ひとりあたりにしても億のカネが。それだけのカネをかけた選挙。その結果が被災地に何をもたらすのか・・・。たぶん「放置」されたままなのだろう。
未来を語ることによって、そこに先送りされるものが余りにも大きいということ。