きのう「金」の話を書き、ツイッターでやりとりしている時に、もう一つの「金」が浮かんだ。
「金の卵」。高度経済成長期、彼らや彼女たちは「金の卵」と呼ばれた。集団就職をはじめとする、東北からの東京への若い労働力の“提供”。
その人達が支えたこの国の高度成長。それに伴う東北の過疎化。
常磐線や東北本線で上野に降り立つ若者たちの姿は、毎日のようにニュースとして扱われていた。
東日本大震災は、間違い無く、その地を襲っている。
もう10年以上も前だろうか。毎月書いているエッセーの一つを思い出した。ひっぱりだして見る。そして歌が蘇り、なぜか泣ける・・・。
「今、匂いが無くなっている。時代が匂いを消している。大人も、子供も、自分の匂いを消している。無味無臭の時代。毎朝の新聞からも、あの印刷インクの匂いが消えたような気がする。それと同時に、記事からも匂いが消えた。
昔、闇市は饐(す)えた雑駁な臭いに包まれていた。しかし、その饐えた雑駁な臭いは、生き抜こう、立ち上がろうという生命力にあふれた臭いだった。
その頃、上野に向かう夜行列車で一人の少女に出会った。皆、寝静まっているはずの車内から、かすかなハミングが聞こえてくる。目覚めた耳に届いたのは、少女の歌う「テネシーワルツ」。
セーラー服の少女は、隣に眠る父親の寝息を伺いながら、テネシーワルツを繰り返し口ずさんでいた。
思い出なつかし あのテネシーワルツ 今宵も流れてくる
別れたあの時 今はいずこ 呼べど戻らない
去りにし あの夢 あのテネシーワルツ なつかし 愛の歌
面影しのんで 今宵も歌う うるわし テネシーワルツ
就職のための上京なのだろう。
歌いながら少女は、膝の上に化粧道具を取り出した。慣れぬ手つきで口紅が塗られ、顔に色が重ねられて行った。鏡代わりの窓に顔を映しながら・・・。
少女の塗った化粧の匂いは、大人に脱皮しようとする試みの匂いだった。
何故テネシーワルツだったのか分からない。いつしか眠りに落ちたあと、再び見た少女の顔から化粧は落とされ、口紅の跡だけがかすかに残っていた。」
エッセーの抜粋・・・。
恋人を失った歌が、今は、故郷を失った人の歌にも聞こえる。そう置き換えてしまう。
このエッセーを書いた後、ボクは、大好きな歌だったテネシーワルツを“封印”した。歌える“資格”がないと思ったから。
それが、今、蘇ってくるという「時代の問いかけ」。「3・11後」に作られたはずの、ブラフマンというロックバンドが歌う「鼎の問い」とも重なる。
忘れられた時への旅。マルセル・プルーストの小説「失われて時を求めて」ではないが、我々は「時への旅」に出かけなくてはいけないのかもしれない。