日本漢字能力検定協会、ま、こんな“団体”はどうでもいいのだが、そこが選ぶ「今年の漢字」というのが、年の暮になるとなぜか話題になり、清水寺の貫主が、もっともらしい顔をしてその字を書く。
今年の漢字は「金」だった。去年は「絆」。そして、今年の流行語大賞は「ワイルドだぜ~」だとか。
漢字一文字といえども、それは「言葉」である。
「便利なものをあくなく追い求めて行った結果が、今の日本を招いた」。きのうもそんなことを書いたが、その「便利さ」の中には「言葉」も入っていたのではないかとも思う。
便利な言葉、それは簡略化された言葉であり、本意とは異なることばであり、カタカナ語、マニュアル敬語の蔓延であり・・・。
昔、言われた。「言葉の乱れはこころの乱れ」と。
なぜ今年の漢字が「金」なのか。その理由として挙げられていること。
オリンピックでの日本人選手の活躍、東京スカイツリーの完成、山中教授のノーベル賞受賞、それら数々の“金字塔”が打ち立てられたことだという。
この言葉とて投票の結果によるもの。投票ですよ、投票。
「金」とは、ゴールドであり、カネとも読む。もし「金」であるならば、それは、批判的意志を込めた「借金」の「金」であり、「原子力マネー」と呼ばれ、ばらまかれた「カネ」ということではないのか。
「カネ」よって弄ばれた日本人ということならわからないでもないが。
だから思う。言葉、漢字一つをとっても、被災地と全国には大きな乖離、溝が、分断があるということを。
被災地は補助金であり支援金である。そして、「カネ」によって故郷を追われ、どこかで暮らしている16万人の避難民、32万人と言われる仮設で暮らす人たち。彼らにとって「金」は、金字塔ではなく、まさに「カネ」なのだ。
「持参金」とも書き、時には「シャブ」とも書いた。それらは今も全国各地の原発立地県にばらまかれている。
賠償金、補償金という新たな「シャブ」が「カネ」が、福島県民のこころを切り裂いている。それをめぐる憎しみの対立まで生んでいる。
「カネ」は欲しい。しかし、それが、今年1年を語る漢字と言われると、ボクは猛反発したくなる。
去年の「絆」だってそうだった。それは、被災地以外の人達が“贖罪”のために寄り添った漢字だったのではないかと。
被災地とは無関係なところで、世相を表す言葉が作られていくという、この平和ボケ国家。
だから、ボクはこれらをこう読み説く。絆が無かったから絆と言う言葉を選んだ。カネにかき回された国家だから、それを悔恨の意味を込めて、「金」という字を選んだと。
あまりにも逆説的な言葉としての。選ばれた「漢字」と。
貫主には申し訳ないが、カネまみれの坊主が喜んで書いている「金」という字に映ってならない。唯々諾々と書くなよと。
リンカーンの名言。「人民の人民による人民のための政治」。それを、多分、日本語をこよなく愛し、正しい、美しい日本語の“復権”を求め続けてきた、最後の砦であった作家、故丸谷才一氏。彼はこのリンカーンの言葉をこう読み説いていた。
「人民を、人民によって人民のために統治すること」と。
数日後、新たな「統治機構」が誕生する。その襟に付けられるのを「金バッジ」と呼ぶのかどうか・・・。