去年、クリスマス・イブの教会のミサに行った。あの日以来こだわり続けていること。あの日のことについて、あの日以降のことについて“魂の救済者”であるべき聖職者が、ほとんど何も語っていない、語ってはいるのだろうが、耳にしないし、目にしない。
聖職者が何を語るかを聞きたかった。
結果、神父の話しは、彼は外国人だったけれど、何も聞けなかったに等しい。彼が何を語ったのかも覚えていない。
なぜか皆が歌っていた聖歌がむなしくさえ聴こえた・・・。
今夜はクリスマス・イブ。イブとはイブニング。つまり前夜祭ってことだと思うのだけど、世間は何時の間にか、きょうがクリスマス本番と思ってしまっている。
朝からメリークリスマスって声が流れているし・・・。
クリスマスもバレンタインデーも、いつの間にか「国民的行事」としてしまった、悪く言えば日本人の“商魂”。
子供の頃、それでも「サンタさん」を待っていた。24日の夜、靴下を枕もとにおいて。そして寝た振りをして、サンタクロースを待った。それが誰だか、知っていた「マセガキ」。気配を察してのタヌキ寝入りで。
時差はもちろんあるにしても、今夜は楽しいパーティーもあるだろう。被災地の子供たちのところにもサンタさんは行くだろう。
そして、教会ではきっと祈りが捧げられるはず。何を祈るのか。それは人それぞれ。
ケセン語で書かれた、津波から甦った「お水潜りの聖書」の話を思い出している。
ローマ法王、ベネディクト16世がクリスマスに寄せたメッセージをベタ記事で見た。
あいにく、法王が始めたというツイッターはフォローしてないが。
「クリスマスは聖書を読んで学ぶべきだ。政治や株式市場など、俗世の出来事にどう関わるべきかの暗示は聖書の中に見つけられる。資源を公平に分かち合い、弱者を助けなければならない。強欲や搾取には反対するのだ。クリスマスはとても楽しいか、同時に深く内省すべき時でもある」と。
今夜も体調が許せば教会を覗いてみようと思う。聖職者が何を言うかを聞きたい。
なにか心に届くものを見つけられれば、それがサンタさんからのプレゼントになるからと思いつつ。
さまざまな場所での、さまざまなイルミネーションが「神の光」とおもえるかどうかはともかく。
かくて明日からはあわただしい歳末風景にとって変わる。
ホームレス歌人の公田耕一についで時々読ませて貰う歌壇への投稿者、豪隼人。アメリカで囚人として日々を送っている。
寒星を仰ぐ獄庭(ヤード)の冬の夜 だあれも来るな一人で居たい。
こんな心境の人もいる、さまざまなクリスマス・イブ。