日露戦争時に作られ、歌われ、今もどこかで歌われ続けているであろう歌がある。
「戦友」。それが先の戦争時には“禁止”されていたにも関わらず、なぜかこの長い歌をボクは覚えていた。今も覚えている。
それは軍歌でもない、反戦歌でもない、唱歌ともちょっと違う。いわば鎮魂歌といえるのか。
親が歌っていたのか、ラジオで聞いていたのか、何かに書かれたものを見たのか。それは全く覚えていない。しかし、1番から14番まで続くこの「戦友」という歌。長い物語の歌。出征から戦死、そして親への手紙・・・。
勝手にその光景を想像し、覚えて歌って、悲しくなっていた記憶。
ここはお国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下・・・で始まり・・・。
その中にある。「戦いすんで日が暮れて、探しに戻る心ではどうぞ生きていてくれよ、物など言えと願うたに」。
この歌の作者にも、それを愛唱する人達にも、申し訳ないが。“戦いすんで日が暮れて”を使わしてもらう。今度の選挙戦に。
今日で選挙戦も終わる、この選挙戦、結局何だったのだろうかと。その結果が何をもたらすのかと。
何処が勝つかよりも気になることがある。投票率と白票含む無効票。
12もの政党が乱立し、選択肢はひろいようで、迷いを多くしている。
投票先を政党で選ぶのか、それとも選挙区で個人を選ぶのか。個人、例えば、青森県では卒原発を主張する政党に所属していながら、六ヶ所村再処理場をめぐってのことには触れない、触れられない。原発に生活を依存している地域では、声高に反原発を唱えられない。当選するためには。
多くの矛盾点をはらんだ選挙。
そして結果含めて、それは「民意」と言われる。
この前の参院戦の時、あるコラムに「民意とは」という私見を書いた。民意というものに大いなる懐疑の念を示しながら。
こんども言われる。民意、民意の声。民主党の大勝から、自民党の大勝へ。そう言われる世論調査。それとても「民意」とされる。
敢えて言う。民意とは「風」であり、「空気」だと。定義も定まった概念も無い漠然としたものと。
その風や空気を、政党が作り、党首が叫び、マスコミが、ネットが作った。
その空気や風に支配された、明日までが“主役”の有権者。民意。風の行方を見定めている官僚達・・・。
選挙戦が終わった今夜、党首も候補者も、戦いすんで日が暮れた夜に何をもうのだろうか。何かを“探しに”もどるはずも無く。
冒頭で引いた“戦友”という歌。日が暮れたあとに、戦いがすんだあとに捜しに戻る心。どうぞ生きていてくれよ、物など言えと願うたに・・・。
津波が引いたあとの家族を探す人たちの叫び声が聞こえる。追われた故郷を思う人達の心情にもつながる。犬や猫を探しまわった人達の嘆きにも通じる。
被災地の投票率はどうなるのか。福島の投票所に行くのも至難の人達がどうするのか。
そして改めて「民意」。民意には色が無い。一票には、どの政策に賛否を言ったのか、それは示されない。「課題」が多すぎるということは承知の上で言う。
今度の選挙の「民意」とは。変えるためだけの民意なのかどうかと。
選挙の在り様、ウエブ選挙の問題も含めて、民意にも突き付けられる“宿題”。
いくら政治を突き放しても、政治は我々を、何らかの形でしばりつけるという現実、実態。それにキミは耐えうるやと。