3・11後、県内最大の規模だった避難所。ビッグパレット。その脇に仮設住宅が立ち並んでいる。最近はポツンポツンと空家も見えるようになった。
どこかの借り上げ住宅に引っ越したのか。
富岡町と川内村の人たちが住む仮設。去年の冬もそうだった。結露が凄い。
その仮設に暮らしているばあちゃんが昨日来宅。娘さんと。お歳暮を持ってきてくれた。去年もそうだった。お歳暮を貰った。そのことを書いた。そして今年も。
亭主も体調やもろもろで、そのばあちゃんの所にはしばらくご無沙汰していた。
気になっていたのだが。気丈なばあちゃんだし、近くのアパートには娘さんやお孫さんがいるはずだから。それはこっちの勝手な言いわけ。
そのばあちゃんと知り合ったのは、もちろんビッグパレット。最初の出会いは駐車場の脇にある木の下。犬2匹を連れて、木の下の石に座っていた。手には小さなスコップ。犬の糞の始末をするための。
犬が取り持つ縁だったような。そう、ビッグパレットに到着して数日後だったかと。
それ以来“交流”が始まる。“家”にも何度もお邪魔した。そう、家。段ボールで仕切られた。そこには酸素吸入器を付けたままのじいちゃんがいた。
ばあちゃんの車にガソリンを入れにスタンドを案内し、犬の病院にも一緒に行った。
ばあちゃんの車はなんと今時珍しいマニュアル車。スタンドに行くために片側二車線の国道4号を渡るのを嫌がった。川内ではマニュアル車でも不便は無いと言う。ギアチャンジをする必要がほとんど無いからだと。
ビッグパレットから、じいちゃんの様態もあって、ホテルに移り、仮設に住む。
そして、今年の夏、じいちゃんは亡くなる。もちろん持病はあったのだろうが、突き詰めて行けば「関連死」だ。
あの埃の舞うビッグパレットにずっといたのだから。呼吸器疾患のある人が。
久しぶりに会ったばあちゃん、なんと1ヶ月入院していたという。胃潰瘍で。
相方が亡くなり、さみしいと言っていたばあちゃん。近くに娘さん達がいても、基本的には仮設で一人暮らし。いわゆるストレスだってたまる。胃にも来る。
夜、ばあちゃんに電話する。「マンマ食ったか」「食った、おかゆ二杯な。まだ辛いものも食っちゃいけないらしいし」。
「うちサ来てマンマ食ってけよ」「わかった、そのうち行く」。また始まった。そのうち行くが。
ばあちゃんは帰ろうと思えば川内には帰れる。だけど、まだ帰らないという。
「だってさ、なんも無いんだぜ、病気になったらよ。まだ郡山は病院が沢山あっから」。
ばあちゃんの川内の家は相当大きな家だったようだ。子や孫も一緒に暮らし。
それが皆、結果郡山に“集結”したけど、一時はそれこそてんでんばらばら。
一人は宇都宮、一人は新潟といった具合に。
「でも、おれは、まだいつかは帰れる家があっからいい。帰れない家の人達もいっからな」。
正月は、去年と同じように仮設で迎えるという。娘さんたちは来てくれるだろうから。
「それにしても、あん時の恩は忘れねぞ」。また言う。もういいから。
とにかく律義で真っ正直な人達なのだ。そして教えられるのだ。
多分、ばあちゃんとしばしの時間を過ごす今度の正月になるだろう。
それもまた良しだ。
町内会に富岡の人達が住んでいる借家が4軒ある。今朝、広報こおりやまを配りに行った。ほとんどの家が留守の様子。
仮設よりちっと広めの借家、4軒長屋。そこには正月を迎えるような気配は感じなかった。
そこにしても、仮設にしても、そこを訪ねるのは気が重い。余りにも、ボクは普通の生活をしているということ。
仮設の近くにスターバックスコーヒーが出来たという。居心地がいいという。そこに気晴らしにでも行こうと誘う。「おれ、コーヒ止められてるんだ。それにあんたは煙草のみだべ」と。ばあちゃんは笑いながらそう言う。そして煙草を吸いたそうな手つきをする。
とにかくこもってないで、外に出てあるきなよ。自分から出ておいでよ。
未だ何万人もの人たちが仮設で暮らし、そこで年を越すということの中のたったの一コマだが。