クリスマス寒波、昨夜も今朝も寒かった。車のフロントガラスは凍りついていたし。
だからか、風邪は依然滞在中であります。まして夜、教会なんて行くからか。
そう、やはり昨夜は教会を覗いてみました。
司祭は宮城県から来たという神父。
クリスマスについて話していました。
「イエスは馬小屋の中の飼い葉桶の中で生まれた。そこしか母マリアの泊まれる場所がなかったから。そしてイエスの誕生を見守ったのは、野宿をしながら、夜通し羊の番をしている羊飼いだった。なぜ、羊飼いなのか。当時の、一番の下層階級は羊飼いだった。その人たちが見守る中で生まれたという聖書の記述には意味があるのだ」と。
イエスが一番の下層階級と共にあったということに。
「3・11」を体験した神父は言う。
「大震災後、絶望した人も多い。それらの人に、多くの支援が寄せられ、直接、間接に、励まし、慰めの言葉がかけられ、それを実践している人たちもいる。
そこにあるのは“共にある”ということだ。“共にある、共にいる”、それが人間に、希望を与える」と。要旨、そんな話。
亭主は信者ではない。ただ、聖職者が、宗教家が何を話すかに関心があった。なぜなら、「言葉の力」はあると思っているから。
簡明なキリスト誕生にまつわる解説。分かりやすい解説だったと。
寒夜にもかかわらず、街にはサンタクロース姿があふれていた。サンタクロースはキリスト誕生から400年もあとに出来た“物語”。東ローマ帝国の中にある小さな国の物語。
貧しい故に娘3人を嫁に出せない家族があった。サンタクロースと呼ばれる聖ニコラウスが煙突から銀貨を投げ入れた。暖炉の中に靴下が下げられていた。そこに銀貨が入り、娘達は支度が出来て結婚出来たという。
サンタさんは、だから、キリスト誕生の日の前の晩にしか登場しない。あの衣装は当時の司祭服を模したものだという。
なぜ、赤鼻のトナカイなのか、橇なのか。それらはしらないけれど。
そして思い出すのが、「サンタクロースは実在するのか」という新聞の社説の話し。
100年以上も前か。ニューヨークに住む8歳の少女がサンという新聞社に手紙を出す。「サンタさんはいるのでしょうか」と。友達と口論になっての“判定”を求めた手紙。そのサンという新聞社は、長文にわたった社説で彼女の問いかけに答える。
「いないというあなたにお友達の考えは間違っています。そのお友達は、きっと目に見えるものしか信じないのでしょう。しかし、人間の知恵には限度があります。
サンタクロースを見た人はいません。だけど、それが居ないと言う証明にはなりません。
それは大人の目にも子供の目にも一番大事なことは見えないものなのです」。
サンタクロースがいないなんてとんでもない。ちゃんといます。それどころかいつまでも死なないでしょう。とも。
長文で書かれた少女への返信の形ととった社説。後年、これは「アメリカでもっとも有名な社説」とよばれることになる。
姿はみえないけど、家族や友人、世の中に人にやさしくしたいという人の心の中にはサンタがあるということ。
「見えるもの」すら「見ない」とする、あえて見ないでおく。見るべきものを見ない、見えたものですら、見なかったようにふるまう。
「見えないもの」をみようとする努力を惜しむ。
あの日以来、時々書き、時々語ってきた、この国の“素顔”。でも、日本にもサンタクロースはいる。いるはず。プレゼントは銀貨ではないかもしれない。
もう物質文明には飽きたはず。「言葉の力」を取り戻すべきと。
いい言葉数編を教えてくれた弟に感謝しつつ・・・。