ある世代の方で、音楽好きな方ならきっと覚えておられると思う。
井上陽水のアルバム「氷の世界」を。
アルバムの最初の曲名は「開かずの踏切」、そして名曲、“心もよう”や“氷の世界”などを挟みこんで、最後の曲が「おやすみ」。
今年一年、開かずの踏切の前で立ちすくんでいたのではないかと思う。歌詞にある「行き先を隠した電車、調べる余裕も無いボク。次々と駆け抜けて行く電車、思いもよらぬ速さの」・・・。
そう、それは今年一年のことであり、3・11後の世界であり、ある時代からのこの国のこと・・・。
思いもよらぬ速さは、時間であり、スピードを求める、求められるさまざまなこと・・・。
歌詞の一部を抜く。
♪目の前を電車がかけぬけていく 想い出が風に巻き込まれる
思いもよらぬ速さで 次々と電車が駆け抜けていく
ここは開かずの踏切
電車は行き先を隠していたが 僕には調べる余裕もない
子供は踏切のむこうとこっちでキャッチボールをしている
ここは開かずの踏切♪
開かずの踏切の経験がある。ずっと以前の小さい子供だった頃。
住んでいたところは、アメリカ軍の焼夷弾で焼けつくされた。母親と祖母、弟妹。逃げまどっていた。焼死体がある中を安全だと思われる場所を目指して。
渡らねばならない線路があった。踏切の遮断機は下りたまま。長い、長い、軍用列車、貨物列車が走りぬけて行く。逃げまどう人達の渦が踏切の前にたまる。
ただひたすら開くのを待つしかない。その時の光景、うろたえる大人たち。そのセピアな光景は消えることがない。
やがてその踏切は開き、線路の向こうの畑に身を隠し、一晩明かしたこと。逃げる途中で祖母の防空頭巾に火が付き、用水路に突き落とされて一命を助かったこと・・・。
たぶん、このことがあったからだろうか。今でも踏切は嫌いなのだ。嫌なのだ。
歌はその時代の合わせ鏡だという。
氷の世界というアルバムが出されたのは1973年。若者たちは安保で挫折し、全共闘で疲れ、新宿西口でフォークゲリラという“集会”を持ち、その時代を生きているということを確認したかったのだろうか。
なぜ陽水が「氷の世界」と名付けた曲を作ったのか。たぶん、彼らの世代には、生きている今が氷のような世界に見えたのだろうか。
傘がない、心模様。それよりも問題はきょうの雨、傘が無い。君に逢いに行かなくちゃ・・・。世の中の動きにまるで「個」を優先させるような。
使い古されたようで、今も生きている漠然とした言葉「不条理」。そう、あの頃の若者はそれに敏感に反応していたのかもしれない。
そして、開かずの踏切のままのように、不条理は今も行われている。
「おやすみ」の歌詞を拾う。
あやとり糸は昔切れたままなのに
想い続けていればこころがやすまる
もうすべて終わったのに みんなみんな終わったのに
深く眠ってしまおう
誰も起こすまい あたたかな毛布でからだをつつもう
もうすべて終わったから みんなみんな終わったから
氷の世界の陽水は、あの時代で終わっているのかもしれない。おやすみは自分に向けたメッセージだったのかもしれない。でも、陽水は、氷の世界を引きずったまま、今も生き続けている。
だから、また、「終わりと始まり」という言葉を使わせてもらう。
一年があと数時間後には終わる。同時に新しい年が始まる。まるで連結器をつけた電車のようだ。
いろいろなことを考え、思い、疲れ切った心身。そうだ、きょうははやく休もう。温かい毛布にくるまって。せめて寝ている間は何も考えないでいられるように。深く眠ってしまおう。
すべてを終わりにさせないために。みんな終わりにしないために。
明日、目覚めたら、また何かを書き始める。綴る。妄言を吐く。
2013年12月31日火曜日
2013年12月30日月曜日
AKB48に見る“同調”
どうも年末のテレビ欄を見ていると、やはり今年もAKB48という若い女性のユニットが“主役”のようだ。NHKを筆頭に。
明日の紅白でも“活躍”するらしい。
このユニット、それに類似するユニットは全国に広がっているとか。なぜ、いわゆる「ブーレーク」をして一世風靡しているのか。
未だに理解出来ないままなのだ。
決して悪口を言おうとしているわけではない。が、なぜ彼女たちが受けるのか。その世上を考えてしまうのだ。秋元康というプロデューサーが作り出したものだとしても。
秋葉原というところはボクにとっては電気街。無線街。狭い路地の中に入り、なにやらラジオを組み立てる部品を買っていたところというイメージ。
いつの間にかオタクと呼ばれる人たちが生まれ、メイド喫茶なるものが生まれ、サブカルチャーという言葉が生まれ、わずかな電車賃を親から貰い、路地に出かけていたあの頃のこどもには縁遠い街となってしまった。
単なる郷愁・・・。
きのう、終わりの始まりという言葉を使った。
それは一つの時代が終わり、一つの時代が始まるという意味でも。
AKB48というグループが誕生し、多くのフアンを勝ち得、歌謡界を席巻する。いや、時代の象徴ともされる。
何かが終わり、何かが始まっていたのか。
その兆しはモーニング娘というグループが大流行をしていたこととつながるような気がするのだ。
同じような顔立ちをして、同じ衣装を着て、同じ振付をして、もちろん、個々の“役割”は違っているのだろうが、歌は全部「ユニゾン」。
日本の歌謡界というか、ポピュラー界というか、ザ・ピーナッツという双子の歌手が3度のハーモニーで登場した時は衝撃的だった。ある種の「革命」だったような。
そしてアリスの登場。いや、フォークのグループでもあったか。二人以上で歌う時は、聞かせるハーモニー。
同じメロディーを多数が歌う。なんか違うんだな。
で、モー娘も、AKBも、その歌から、姿から感じるのは、ユニゾンから感じるのは「同調」。
ハーモニーをなんていう日本語にすればいいのか。通常ある言葉では「調和」。
歌は時代を反映するという。流行り歌とはそれこそ流行り歌。時代の反映。
歌の有り様が、世間の有り様に重なってきたり。
いつの間にか、「同調」がこの国の姿の一つなのかとも。
街を歩いていると出会うのは、皆一様な格好、化粧。男とて、サラリーマンの制服は皆黒色。
区別が付かないかのような人々の行き交い。「個」が見えないんだな。見えないからみな「個」を求める。「個」を口にする。
AKBのメンバーには被災した娘もいる。家を流されたはず。あの震災を体験している。
そして一昨年、彼女たちは被災地支援にかけつけていた。避難所や仮設の人達は喜んで彼女たちを迎えた。励ましを受けた。
テレビで見たことだけしかないタレントがそこにいる。それは突然に襲ってきた非日常を埋めるにいささかは足りる別の非日常だったのかも。
「3.11」を挟んで、この国には「同調圧力」とか「同調行動」「同調意識」という表現が目立つようになった。
皆の中に身を置くことの安堵感。皆の側に付くことの安心感。皆と同じだったら何も恥ずかしいことも、とやかく言われることもない。
AKBがそうだと言うのではない。彼女たちの意志とは無関係に、彼女たちがスターで居る限り、トップの座を占めている限り、そこに「同調」が見えてしまうということだけ。
漠然とした言い方だけど、彼女たちが僕にはワカンナイ。その歌を聞いていても、何も楽しくも嬉しくも無い。
だから余計に歌のこと、音楽のことを考え、時代と無理やり結びつけようとしているのかもしれない。
明日の紅白でも“活躍”するらしい。
このユニット、それに類似するユニットは全国に広がっているとか。なぜ、いわゆる「ブーレーク」をして一世風靡しているのか。
未だに理解出来ないままなのだ。
決して悪口を言おうとしているわけではない。が、なぜ彼女たちが受けるのか。その世上を考えてしまうのだ。秋元康というプロデューサーが作り出したものだとしても。
秋葉原というところはボクにとっては電気街。無線街。狭い路地の中に入り、なにやらラジオを組み立てる部品を買っていたところというイメージ。
いつの間にかオタクと呼ばれる人たちが生まれ、メイド喫茶なるものが生まれ、サブカルチャーという言葉が生まれ、わずかな電車賃を親から貰い、路地に出かけていたあの頃のこどもには縁遠い街となってしまった。
単なる郷愁・・・。
きのう、終わりの始まりという言葉を使った。
それは一つの時代が終わり、一つの時代が始まるという意味でも。
AKB48というグループが誕生し、多くのフアンを勝ち得、歌謡界を席巻する。いや、時代の象徴ともされる。
何かが終わり、何かが始まっていたのか。
その兆しはモーニング娘というグループが大流行をしていたこととつながるような気がするのだ。
同じような顔立ちをして、同じ衣装を着て、同じ振付をして、もちろん、個々の“役割”は違っているのだろうが、歌は全部「ユニゾン」。
日本の歌謡界というか、ポピュラー界というか、ザ・ピーナッツという双子の歌手が3度のハーモニーで登場した時は衝撃的だった。ある種の「革命」だったような。
そしてアリスの登場。いや、フォークのグループでもあったか。二人以上で歌う時は、聞かせるハーモニー。
同じメロディーを多数が歌う。なんか違うんだな。
で、モー娘も、AKBも、その歌から、姿から感じるのは、ユニゾンから感じるのは「同調」。
ハーモニーをなんていう日本語にすればいいのか。通常ある言葉では「調和」。
歌は時代を反映するという。流行り歌とはそれこそ流行り歌。時代の反映。
歌の有り様が、世間の有り様に重なってきたり。
いつの間にか、「同調」がこの国の姿の一つなのかとも。
街を歩いていると出会うのは、皆一様な格好、化粧。男とて、サラリーマンの制服は皆黒色。
区別が付かないかのような人々の行き交い。「個」が見えないんだな。見えないからみな「個」を求める。「個」を口にする。
AKBのメンバーには被災した娘もいる。家を流されたはず。あの震災を体験している。
そして一昨年、彼女たちは被災地支援にかけつけていた。避難所や仮設の人達は喜んで彼女たちを迎えた。励ましを受けた。
テレビで見たことだけしかないタレントがそこにいる。それは突然に襲ってきた非日常を埋めるにいささかは足りる別の非日常だったのかも。
「3.11」を挟んで、この国には「同調圧力」とか「同調行動」「同調意識」という表現が目立つようになった。
皆の中に身を置くことの安堵感。皆の側に付くことの安心感。皆と同じだったら何も恥ずかしいことも、とやかく言われることもない。
AKBがそうだと言うのではない。彼女たちの意志とは無関係に、彼女たちがスターで居る限り、トップの座を占めている限り、そこに「同調」が見えてしまうということだけ。
漠然とした言い方だけど、彼女たちが僕にはワカンナイ。その歌を聞いていても、何も楽しくも嬉しくも無い。
だから余計に歌のこと、音楽のことを考え、時代と無理やり結びつけようとしているのかもしれない。
2013年12月29日日曜日
テレビの「都合」、新聞の「言い訳」
何十年もその世界でメシを食ってきた者が、なにを言うのかといわれそうだけど・・・。
年末年始、この時期ほどテレビがつまらない時期は無い。年末・年始特別編成。
ゴールデン、プライム。どの局も言い合わせたように長時間の特番。
どれもこれも同じような。
要するに見るものが無いのだ。見たいものが無いのだ。視聴者はそれを望んでいるのだろうか。
ニュース番組はとっとと無くなり、ローカル局も“年録”と称する一年間の振り返りをやって、昨日からはほとんどニュースの時間は無くなった。
特別編成だからこそ、大震災のこと、原発事故のこと、今の日本のこと、これからの日本のこと、それを多くの人が見ている時間にやるべきだと思いうのだが。
多くの番組は、いわば「撮り溜」。正月になるともっとひどい。前年に収録していたものばかり。晴れ着を着て、実感の無い正月番組。
テレビ局の「都合」が、そう、誰もが人並みに休みたいという、休めせねばならないということで、「作られていたもの」ばかり。
内情を知っているだけに余計にイライラする。
年末年始であろうともニュースは駆け廻っている。伝えなければならないニュースは山ほどあるはずなのに。と思う。
NHKに至っては、あまちゃん、紅白、来年の大河ドラマ。それにご執心だ。
見るものがないのについているテレビ。それも視聴率のうち・・・。
テレビ局の都合を押しつけられたような視聴者は、その狭い選択範囲の中で、ひたすら“リモコンに操作されている”ような。
新聞の休刊日なるものもそうだ。勝手に休刊日を作っているし。休刊日であろうとも、伝えなければ、論じなければならないことは多々あるはずなのに。
しかも最近は、増えた休刊日の「言い訳」「口実」すら告知しない。
少なくとも知り得る限り、政治の世界では常に念頭に置かれていたのがNHKの夕方7時のニュース。それを目指して、意識して、たとえば組閣が行われていた。
新聞休刊日を意識して、それを“利用”して、ある種の“意図”を持って“情報操作”が行われていた。
読者は、一日遅れの新聞記事に関心をそがれる。
そして年明けの新聞記事は、多くが年内に書きためておかれたもの。
それらこれらが「ネット族」を台頭させるんだよな・・・。
テレビの年末、年始特別編成だけではない。4月と10月の番組改編期にも、長時間のスペシャル、ほとんど無意味な、バカげたバラエティ番組を垂れ流す。
誰が考え出したのか。こんなテレビの在り方に現役時代も「異」を唱え、「排斥」されて来たものだが。
知りたいことはたくさんある。無意味な時間はすごしたくない。3・11後、テレビは変わるだろうと淡い期待を持った。でも、結果、変わっていない。あの時以前と。
伝えなければならないことは山ほどあるはずだ。伝えるべきことを伝えない、伝える時間を持ち得ないテレビってなんだい。そう言いたい。
デジタル化によって基本的にはBSも見られるようになった。でも、BSだってどこか手抜き。
あさって大晦日が怖い。「国民的番組」、紅白歌合戦なるものが控えているから。
紅白に出場できるかできないかで一喜一憂している歌手や事務所。
「くだらない」。その一語でテレビを忌避している人もいる。でも、元テレビ屋はやはりテレビが気になる。
いい加減に「マンネリ」から脱却してはいかがかと。
他言を使いたくはないが、テレビの終わりの始まり。そう言ってみたくもなる年の瀬・・・。
例えばね、年末年始で特別の宿泊許可が下りた原発避難民の人達の生活ぶりを追ってみろよ。もちろん取材拒否だって在り得るだろうが。
小さな家族の物語の中に、小さな安堵を味わっている人の言葉に「真実」が隠されているはずだと思ったりもするのだが。
年末年始、この時期ほどテレビがつまらない時期は無い。年末・年始特別編成。
ゴールデン、プライム。どの局も言い合わせたように長時間の特番。
どれもこれも同じような。
要するに見るものが無いのだ。見たいものが無いのだ。視聴者はそれを望んでいるのだろうか。
ニュース番組はとっとと無くなり、ローカル局も“年録”と称する一年間の振り返りをやって、昨日からはほとんどニュースの時間は無くなった。
特別編成だからこそ、大震災のこと、原発事故のこと、今の日本のこと、これからの日本のこと、それを多くの人が見ている時間にやるべきだと思いうのだが。
多くの番組は、いわば「撮り溜」。正月になるともっとひどい。前年に収録していたものばかり。晴れ着を着て、実感の無い正月番組。
テレビ局の「都合」が、そう、誰もが人並みに休みたいという、休めせねばならないということで、「作られていたもの」ばかり。
内情を知っているだけに余計にイライラする。
年末年始であろうともニュースは駆け廻っている。伝えなければならないニュースは山ほどあるはずなのに。と思う。
NHKに至っては、あまちゃん、紅白、来年の大河ドラマ。それにご執心だ。
見るものがないのについているテレビ。それも視聴率のうち・・・。
テレビ局の都合を押しつけられたような視聴者は、その狭い選択範囲の中で、ひたすら“リモコンに操作されている”ような。
新聞の休刊日なるものもそうだ。勝手に休刊日を作っているし。休刊日であろうとも、伝えなければ、論じなければならないことは多々あるはずなのに。
しかも最近は、増えた休刊日の「言い訳」「口実」すら告知しない。
少なくとも知り得る限り、政治の世界では常に念頭に置かれていたのがNHKの夕方7時のニュース。それを目指して、意識して、たとえば組閣が行われていた。
新聞休刊日を意識して、それを“利用”して、ある種の“意図”を持って“情報操作”が行われていた。
読者は、一日遅れの新聞記事に関心をそがれる。
そして年明けの新聞記事は、多くが年内に書きためておかれたもの。
それらこれらが「ネット族」を台頭させるんだよな・・・。
テレビの年末、年始特別編成だけではない。4月と10月の番組改編期にも、長時間のスペシャル、ほとんど無意味な、バカげたバラエティ番組を垂れ流す。
誰が考え出したのか。こんなテレビの在り方に現役時代も「異」を唱え、「排斥」されて来たものだが。
知りたいことはたくさんある。無意味な時間はすごしたくない。3・11後、テレビは変わるだろうと淡い期待を持った。でも、結果、変わっていない。あの時以前と。
伝えなければならないことは山ほどあるはずだ。伝えるべきことを伝えない、伝える時間を持ち得ないテレビってなんだい。そう言いたい。
デジタル化によって基本的にはBSも見られるようになった。でも、BSだってどこか手抜き。
あさって大晦日が怖い。「国民的番組」、紅白歌合戦なるものが控えているから。
紅白に出場できるかできないかで一喜一憂している歌手や事務所。
「くだらない」。その一語でテレビを忌避している人もいる。でも、元テレビ屋はやはりテレビが気になる。
いい加減に「マンネリ」から脱却してはいかがかと。
他言を使いたくはないが、テレビの終わりの始まり。そう言ってみたくもなる年の瀬・・・。
例えばね、年末年始で特別の宿泊許可が下りた原発避難民の人達の生活ぶりを追ってみろよ。もちろん取材拒否だって在り得るだろうが。
小さな家族の物語の中に、小さな安堵を味わっている人の言葉に「真実」が隠されているはずだと思ったりもするのだが。
2013年12月28日土曜日
それも一つの区切りなのだが・・・
先日書いた「最後の避難所」。双葉町の人たちが住んでいた埼玉県加須市の旧騎西高校にあった避難所がきのう閉鎖された。
最後まで残っていた人は3人だったとか。
当初は1,400人。町民の5分の1が暮らしていた場所。町役場も同居していたが、それもいわき市に移転。それを機に“住民”は減った。
日本の災害史上、最長となった避難所。
「最後の避難所」。そういうタイトルの番組をNHKはやるべきだと書いた。期せずして昨夜、同名の番組をやっていた。番組の最後に「近く閉鎖される」と紹介されていたが。
「一つ屋根の下」で暮らしていた人たちは、それぞれ、個々の生活の場を求めて去っていった。
「これまでは町役場と一緒に行動してきた。もう、これからは別にする」。残った高齢者の人がそう言っていた。避難所の近くのアパートで独り暮らしをはじめるという。たし
か88歳となっていたと思う。
去って行く人、見送る人。「どこかでまたきっと会えるさ」。そうそれぞれが言い交わして。
福島に戻ることを断念した人も多かった。思いを断ち切り、新生活に向かわねばならない。必死に賃貸物件を探している光景。
“集団”から“個々”への転換。
加須市に新居を見つけた人は住民票を移すのだろうか。現住所だけにとどめるのか。
残っていた高齢者は、やはり医療施設がある加須を選んだようだ。
町は、移った“個々”にどう対応するのだろう・・・。
一眼レフのカメラを常に携行し、双葉町を撮りつづけ、避難所の日常を撮り続けていた84歳のご婦人。加須でのアパート暮らしを選択した。加須を撮り続けると言う。
校舎に一礼して去っていく人もあった。いわきナンバーで、高齢者マークを付けた軽トラックが去っていく後姿。
最後の避難所の閉鎖。それは一つの区切りなのだろうか。そこから出て行った人の今後を新しい生活のスタートと呼べるのだろうか。
「原発さえ無ければ・・・」。発せられる言葉は、やはり重い。
「その後・・・」をやはりテレビは追い続けなければならないと思う。昨夜の番組に出ていた全ての人の「その後」を教えて欲しいと思う。
沖縄の普天間基地移設問題でも、一つの結論が出された。辺野古の埋め立て。併せて普天間の基地機能を5年後に停止。
それも「一つの区切り」と言えるのだろうか。言えないと思う。
5年後の“普天間停止”。アメリカがその交渉に乗るのか。そんな保証はどこにも無い。知事と首相の間で交わされて「手形」の交換。空手形になる可能性も否定できない。
一年間に3000億円の沖縄振興費。それは空手形ではなかろう。
現実を見据えた上での現実的な“解決“策だったのかもしれない。しかし、県外移転という“理想”とは大きくかけ離れている。
普天間の在り様は多少は変わっても、米軍沖縄基地、それは“固定化”を逃れることは出来ない。
国際情勢も含め、驚天動地のような事態の展開が無い限り。
“痛みを分かち合う”。言葉としてはそれは在り得る。しかし、事実として現実として、分かち合いは無い。
福島に作られる“中間貯蔵施設”。それも固定化となるであろうことは想像に難くない。
“沖縄”と“福島”。その犠牲の上に立ってこの国は成り立っている。沖縄の苦悩、沖縄にある人間模様のさまざま。それは、いま、まさに福島が味わっていることと同じよう
な。カネが絡む全てのことどもを巻き込んで。
騎西高校の校舎の脇に花壇を作り、毎日水をやり育てていた人がいた。引っ越した県営住宅でも、入口の脇に小さなプランターを置き、花を植えていた。
だから何かを言いたいということではなく、どこにあても「小さな人の営み」があるということ・・・。
最後まで残っていた人は3人だったとか。
当初は1,400人。町民の5分の1が暮らしていた場所。町役場も同居していたが、それもいわき市に移転。それを機に“住民”は減った。
日本の災害史上、最長となった避難所。
「最後の避難所」。そういうタイトルの番組をNHKはやるべきだと書いた。期せずして昨夜、同名の番組をやっていた。番組の最後に「近く閉鎖される」と紹介されていたが。
「一つ屋根の下」で暮らしていた人たちは、それぞれ、個々の生活の場を求めて去っていった。
「これまでは町役場と一緒に行動してきた。もう、これからは別にする」。残った高齢者の人がそう言っていた。避難所の近くのアパートで独り暮らしをはじめるという。たし
か88歳となっていたと思う。
去って行く人、見送る人。「どこかでまたきっと会えるさ」。そうそれぞれが言い交わして。
福島に戻ることを断念した人も多かった。思いを断ち切り、新生活に向かわねばならない。必死に賃貸物件を探している光景。
“集団”から“個々”への転換。
加須市に新居を見つけた人は住民票を移すのだろうか。現住所だけにとどめるのか。
残っていた高齢者は、やはり医療施設がある加須を選んだようだ。
町は、移った“個々”にどう対応するのだろう・・・。
一眼レフのカメラを常に携行し、双葉町を撮りつづけ、避難所の日常を撮り続けていた84歳のご婦人。加須でのアパート暮らしを選択した。加須を撮り続けると言う。
校舎に一礼して去っていく人もあった。いわきナンバーで、高齢者マークを付けた軽トラックが去っていく後姿。
最後の避難所の閉鎖。それは一つの区切りなのだろうか。そこから出て行った人の今後を新しい生活のスタートと呼べるのだろうか。
「原発さえ無ければ・・・」。発せられる言葉は、やはり重い。
「その後・・・」をやはりテレビは追い続けなければならないと思う。昨夜の番組に出ていた全ての人の「その後」を教えて欲しいと思う。
沖縄の普天間基地移設問題でも、一つの結論が出された。辺野古の埋め立て。併せて普天間の基地機能を5年後に停止。
それも「一つの区切り」と言えるのだろうか。言えないと思う。
5年後の“普天間停止”。アメリカがその交渉に乗るのか。そんな保証はどこにも無い。知事と首相の間で交わされて「手形」の交換。空手形になる可能性も否定できない。
一年間に3000億円の沖縄振興費。それは空手形ではなかろう。
現実を見据えた上での現実的な“解決“策だったのかもしれない。しかし、県外移転という“理想”とは大きくかけ離れている。
普天間の在り様は多少は変わっても、米軍沖縄基地、それは“固定化”を逃れることは出来ない。
国際情勢も含め、驚天動地のような事態の展開が無い限り。
“痛みを分かち合う”。言葉としてはそれは在り得る。しかし、事実として現実として、分かち合いは無い。
福島に作られる“中間貯蔵施設”。それも固定化となるであろうことは想像に難くない。
“沖縄”と“福島”。その犠牲の上に立ってこの国は成り立っている。沖縄の苦悩、沖縄にある人間模様のさまざま。それは、いま、まさに福島が味わっていることと同じよう
な。カネが絡む全てのことどもを巻き込んで。
騎西高校の校舎の脇に花壇を作り、毎日水をやり育てていた人がいた。引っ越した県営住宅でも、入口の脇に小さなプランターを置き、花を植えていた。
だから何かを言いたいということではなく、どこにあても「小さな人の営み」があるということ・・・。
2013年12月27日金曜日
どうにも止まらない、安倍の乗った車は。
どうにも止まらない。そうはやり歌の題名。そんな歌にもなぞらえたくなる。
“暴走”する安倍。秘密保護法の強行採決といい、きのうの靖国への強行参拝。
与党の公明党も反対だといい、側近の何人かが自重を求めたにもかかわらず行ったということでの強行。アメリカからも反対の意向が伝えられているにも関わらずに参拝したということ。
きのう数行書いただけだが、もう、この男のことを書くのはほとほと疲れたけれど。
英霊に尊崇の念を。決まりきったように発せられる言葉。全くの個人感情。それを押し通すことで、それを「国益」とまで言い切る厚顔さ。
まさに「神聖喜劇(大西巨人の大作)」だ。
靖国問題をとやかく言いたくはない。靖国のことは知っているから。
政教分離という人がいる。たしかに今は宗教法人であるが、そこに祀られている「神」はいない。”英霊“、それは神ではないし、幾多の戦争で命を落とした人は、その魂は、個々人の墓に眠っているはず。
軍神といわれる人たちが祀られているからだという。その軍神とは誰か。戦争指導者ではなかったのか。
A級戦犯が合祀されているから。極東軍事裁判の正当性を論じる気はない。しかし、きのうも書いた。昭和天皇は、その天皇陛下万歳を言って死んで行った兵士たち、そこに、天皇陛下が参拝しない。それは、靖国の意味を承知されているからだ。今上天皇に於いても然り。
昭和天皇を”戦犯“から守ったのは吉田茂だ。臣 吉田だ。その盟友白洲次郎だ。吉田は参拝している。昭和天皇が参拝しなくなったのはそれ以降。
靖国で会おう。それを合言葉に多くの兵士は散った。その合言葉も、英霊も、軍神も、太平洋戦争に限って言えば、軍部が洗脳、教育、天皇の名を借りて作りあげた虚構。
東京招魂社以来、靖国神社に至るまで、そして今も、幕末、明治維新で亡くなった「官軍」の兵士は、そう安倍の出身地である長州の兵士は、祀られる対象になっている。賊軍とされた会津藩士、二本松藩士、いや、奥羽越列藩同盟に加わっていた兵士はそこにはいない。西郷隆盛までも。
靖国論を長々述べるつもりは無い。靖国の“重要性”は認識している。そう、そこには何回も通ったし。血こそつながってはいないが、特攻で亡くなった親族も多々いるし。その親族たちは靖国にはいない。鹿屋にいる。
安倍は言った。「韓国や中国の人たちを傷つけるつもりは無い」と。いじめをした子がいじめのつもりではなかったといった類のロジック。
「誤解がある」という。あなたにとっては「誤解」であろうと、他の当事者からすれば誤解ではない。
「いやあ、それは君の誤解だよ。ボクの言いたかったことはね・・・」。そんな日常交わされる“言い訳”にも似ている。
「国益」だという。あなたにとっては国益かもしれないが、そう「誤解」しているようだが、単なる「私益」だ。
アメリカ大使館が即座に「失望」という声明を出す異例の対応。それは大使館だけでなく、アメリカ政府の見解にもなった。
中韓はもとより、他国もこのことについて大きな関心を寄せ、異論を述べ、遺憾の意を表している。
国際的に孤立する道を選んだ。国益なのか、それが。自分の“信条”を通すために孤立化もいとわない。70数年前と酷似している。
負けるとわかっている戦争に突入していったあの時と。
今、日本という国はアメリカ国債を5兆円も買っている。債権国の言う事なら聞くのだろう、許されるのだろうという驕りがあるのかも。
中国はもっと多額のアメリカ国債を買っている。“同盟国アメリカ”がこれから本気になってどういう方向に持っていくのか。
参拝後。外務省は抗議に訪れた中国大使に在留邦人の安全を求めた。在中国大使館には在留邦人の外出など、身の安全を確保するよう指示した。
もしかしたら、中国にある日本企業が暴徒に襲われる可能性だってある。在留邦人が身の危険にさらされる可能性もある。
それを予見しながらも、己の“信条”を優先させ、自己満足に浸っているというこの国のリーダー。
その暴走はもう誰も止められないだろう。暴走を煽っているのは、政治家だけではない。在野の“有識者”にもそれは多い。
安倍一人の問題ではない。この国がそういう方向を望んでいるかの様な気さえする。
マイケルサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」というハーバード大学の白熱教室の議論が思い起こされる。暴走する機関車。誰もとめられない。
転てつ器がある。それを右に切るか、左にきるか。こっちには轢かれる人が5人、あっちには1人。正義という倫理感に立った時、その転てつ器の操作をどうするかと言った命題の話。
サンデル教授は考えることを教えたが、正解は出さなかった・・・。
“暴走”する安倍。秘密保護法の強行採決といい、きのうの靖国への強行参拝。
与党の公明党も反対だといい、側近の何人かが自重を求めたにもかかわらず行ったということでの強行。アメリカからも反対の意向が伝えられているにも関わらずに参拝したということ。
きのう数行書いただけだが、もう、この男のことを書くのはほとほと疲れたけれど。
英霊に尊崇の念を。決まりきったように発せられる言葉。全くの個人感情。それを押し通すことで、それを「国益」とまで言い切る厚顔さ。
まさに「神聖喜劇(大西巨人の大作)」だ。
靖国問題をとやかく言いたくはない。靖国のことは知っているから。
政教分離という人がいる。たしかに今は宗教法人であるが、そこに祀られている「神」はいない。”英霊“、それは神ではないし、幾多の戦争で命を落とした人は、その魂は、個々人の墓に眠っているはず。
軍神といわれる人たちが祀られているからだという。その軍神とは誰か。戦争指導者ではなかったのか。
A級戦犯が合祀されているから。極東軍事裁判の正当性を論じる気はない。しかし、きのうも書いた。昭和天皇は、その天皇陛下万歳を言って死んで行った兵士たち、そこに、天皇陛下が参拝しない。それは、靖国の意味を承知されているからだ。今上天皇に於いても然り。
昭和天皇を”戦犯“から守ったのは吉田茂だ。臣 吉田だ。その盟友白洲次郎だ。吉田は参拝している。昭和天皇が参拝しなくなったのはそれ以降。
靖国で会おう。それを合言葉に多くの兵士は散った。その合言葉も、英霊も、軍神も、太平洋戦争に限って言えば、軍部が洗脳、教育、天皇の名を借りて作りあげた虚構。
東京招魂社以来、靖国神社に至るまで、そして今も、幕末、明治維新で亡くなった「官軍」の兵士は、そう安倍の出身地である長州の兵士は、祀られる対象になっている。賊軍とされた会津藩士、二本松藩士、いや、奥羽越列藩同盟に加わっていた兵士はそこにはいない。西郷隆盛までも。
靖国論を長々述べるつもりは無い。靖国の“重要性”は認識している。そう、そこには何回も通ったし。血こそつながってはいないが、特攻で亡くなった親族も多々いるし。その親族たちは靖国にはいない。鹿屋にいる。
安倍は言った。「韓国や中国の人たちを傷つけるつもりは無い」と。いじめをした子がいじめのつもりではなかったといった類のロジック。
「誤解がある」という。あなたにとっては「誤解」であろうと、他の当事者からすれば誤解ではない。
「いやあ、それは君の誤解だよ。ボクの言いたかったことはね・・・」。そんな日常交わされる“言い訳”にも似ている。
「国益」だという。あなたにとっては国益かもしれないが、そう「誤解」しているようだが、単なる「私益」だ。
アメリカ大使館が即座に「失望」という声明を出す異例の対応。それは大使館だけでなく、アメリカ政府の見解にもなった。
中韓はもとより、他国もこのことについて大きな関心を寄せ、異論を述べ、遺憾の意を表している。
国際的に孤立する道を選んだ。国益なのか、それが。自分の“信条”を通すために孤立化もいとわない。70数年前と酷似している。
負けるとわかっている戦争に突入していったあの時と。
今、日本という国はアメリカ国債を5兆円も買っている。債権国の言う事なら聞くのだろう、許されるのだろうという驕りがあるのかも。
中国はもっと多額のアメリカ国債を買っている。“同盟国アメリカ”がこれから本気になってどういう方向に持っていくのか。
参拝後。外務省は抗議に訪れた中国大使に在留邦人の安全を求めた。在中国大使館には在留邦人の外出など、身の安全を確保するよう指示した。
もしかしたら、中国にある日本企業が暴徒に襲われる可能性だってある。在留邦人が身の危険にさらされる可能性もある。
それを予見しながらも、己の“信条”を優先させ、自己満足に浸っているというこの国のリーダー。
その暴走はもう誰も止められないだろう。暴走を煽っているのは、政治家だけではない。在野の“有識者”にもそれは多い。
安倍一人の問題ではない。この国がそういう方向を望んでいるかの様な気さえする。
マイケルサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」というハーバード大学の白熱教室の議論が思い起こされる。暴走する機関車。誰もとめられない。
転てつ器がある。それを右に切るか、左にきるか。こっちには轢かれる人が5人、あっちには1人。正義という倫理感に立った時、その転てつ器の操作をどうするかと言った命題の話。
サンデル教授は考えることを教えたが、正解は出さなかった・・・。
2013年12月26日木曜日
「人類は消費社会にコントロールされている」
見せ掛けかどうかはともかく、日本経済は成長を取り戻しているようだ。
株価は上がり、少なからぬ人が、景気は回復していると実感しているともいう。
物が売れ始めているという。消費が拡大されているという。
この国の財政が破たん寸前にあるかどうか、借金がどうなるかと言った議論は置いておいて。
「私たちは間違いなく無限の消費と発展を求める社会をつくってきた。マーケット経済がマーケット社会をつくり、グローバリゼーションが世界のあちこちで、原材料を探し求める社会にした。
人類はこの消費社会にコントロールされている。
昔、古代の民族はこんなことを言っている。“貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人では無く、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ”と。
発展は幸福を阻害するものであってはいけない。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはならない。愛情や人間関係、子供を育てること、友達を持つこと、そして、必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのだ。幸福が私たちのもっとも大切なものだからだ」。
ウルグアイという人口300万人ほどの小国の大統領が去年の地球サミットで述べたこと。
今年、一時全村避難していた福島県の川内村の遠藤村長はこう言っていた。
「我々は便利な生活に慣れきっている。もはや電気の無い生活なんてありえない。それは意味をなさない言葉だ。あまりにも非現実的である。しかし、ちょっと考え、一歩踏みとどまれば、自然の美しさ、有難さと、科学文明、物質文明との関わり合いが見えてくるのではないか。
限りなく利便性を求めるのではなく、どこかでライフスタイルを変えることを考えなくては」。
重なり合うものを感じる。
資源を大切に、物を大切にと言いながら、消費は美徳であるといわんばかりに、使い捨て文化をよしとする社会。次々と新しいものを作り、売らなければ成り立たない経済システム。失われていく環境、資源・・・。
増えるローン、労働時間。一部の富裕層、広がる格差。
こんな社会システムを考え直す時。
年末。歳末商戦たけなわ。あきらかに一昨年の年末とは違う光景、風景。いったい何を求めているのだろうかとも。
こんなことを書いている時、飛び込んで来たニュース。安倍の靖国参拝。絶句する。
参拝をされていない天皇陛下はどう思われているのだろうか。
そして当然予想される中国、韓国の反発。理解を求めていきたいと安倍は言う。秘密保護法の時も、説明が足りなかったと反省していると言った。
既成事実を作った上での反省とか理解とか。
昨日沖縄をめぐる問題に一区切りが付いた。それもきょうの参拝のきっかけになっているのかもしれない。
中国や韓国だけではない。アメリカだって安倍の“暴走”を懸念している。
もしかしたら、“国際社会”の中で、日本という国は孤立化を深めていくのかもしれない。アメリカはもはや日本にさほど眼が向いていない。中国だ。
そして、前段に重ねれば、靖国に眠るとされる英霊は、はたして、今のこの国の有り様、消費社会にコントロールされている国をみて、そんな国を目指してまい進しているような安倍の参拝をこころよく受け入れているのだろうか。
“英霊”が殉じた国は、決してこんな姿の祖国ではなかったのだろうと思うから。
株価は上がり、少なからぬ人が、景気は回復していると実感しているともいう。
物が売れ始めているという。消費が拡大されているという。
この国の財政が破たん寸前にあるかどうか、借金がどうなるかと言った議論は置いておいて。
「私たちは間違いなく無限の消費と発展を求める社会をつくってきた。マーケット経済がマーケット社会をつくり、グローバリゼーションが世界のあちこちで、原材料を探し求める社会にした。
人類はこの消費社会にコントロールされている。
昔、古代の民族はこんなことを言っている。“貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人では無く、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ”と。
発展は幸福を阻害するものであってはいけない。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはならない。愛情や人間関係、子供を育てること、友達を持つこと、そして、必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのだ。幸福が私たちのもっとも大切なものだからだ」。
ウルグアイという人口300万人ほどの小国の大統領が去年の地球サミットで述べたこと。
今年、一時全村避難していた福島県の川内村の遠藤村長はこう言っていた。
「我々は便利な生活に慣れきっている。もはや電気の無い生活なんてありえない。それは意味をなさない言葉だ。あまりにも非現実的である。しかし、ちょっと考え、一歩踏みとどまれば、自然の美しさ、有難さと、科学文明、物質文明との関わり合いが見えてくるのではないか。
限りなく利便性を求めるのではなく、どこかでライフスタイルを変えることを考えなくては」。
重なり合うものを感じる。
資源を大切に、物を大切にと言いながら、消費は美徳であるといわんばかりに、使い捨て文化をよしとする社会。次々と新しいものを作り、売らなければ成り立たない経済システム。失われていく環境、資源・・・。
増えるローン、労働時間。一部の富裕層、広がる格差。
こんな社会システムを考え直す時。
年末。歳末商戦たけなわ。あきらかに一昨年の年末とは違う光景、風景。いったい何を求めているのだろうかとも。
こんなことを書いている時、飛び込んで来たニュース。安倍の靖国参拝。絶句する。
参拝をされていない天皇陛下はどう思われているのだろうか。
そして当然予想される中国、韓国の反発。理解を求めていきたいと安倍は言う。秘密保護法の時も、説明が足りなかったと反省していると言った。
既成事実を作った上での反省とか理解とか。
昨日沖縄をめぐる問題に一区切りが付いた。それもきょうの参拝のきっかけになっているのかもしれない。
中国や韓国だけではない。アメリカだって安倍の“暴走”を懸念している。
もしかしたら、“国際社会”の中で、日本という国は孤立化を深めていくのかもしれない。アメリカはもはや日本にさほど眼が向いていない。中国だ。
そして、前段に重ねれば、靖国に眠るとされる英霊は、はたして、今のこの国の有り様、消費社会にコントロールされている国をみて、そんな国を目指してまい進しているような安倍の参拝をこころよく受け入れているのだろうか。
“英霊”が殉じた国は、決してこんな姿の祖国ではなかったのだろうと思うから。
2013年12月25日水曜日
「借金」も慣れてしまえば・・・
国の来年度の予算案が決まった。早めの年内編成。政治は順調に進んでいる・・。めでたし、めでたしっていう事なんだろう。
譬えは悪いが・・・
ある人が背に腹かえられず借金をする。年末までに返さなければと思いつつ、年を越す。借金取りは追いかけてこない。また借金をする。どんどん膨らんでいく。そのうち借金していることに慣れてしまって、返そうとする意欲すら失う。「借金も財産のうちさ」とうそぶいて。
公金横領に手を出す。最初は穴埋めしようと思っている。でもバレない。また公金に手を付ける。バレない。びくびくしながらもそれに慣れてくる。感覚がマヒしてくる。そして気が付いた時にはとてもじゃないが、返済、穴埋め不能。やがてその“事実”すら忘れそうになる。
30年をはるかに越える前。この国の財政が、予算が、借金に頼らざるを得ず、赤字国債、建設国債を発行するに至った時、国会はそれを巡って喧々諤々の議論が交わされていた。政府だって国債発行、借金することをかなり逡巡していた。
今は借金は当たり前。借金棚上げ、さらに上積み。出来た予算は96兆円。予算の4分の一が借金だ。その借金は誰が弁済する・・・。後代だ。先送り、つけ・・・。
原発事故による被ばく。その影響があるのかどうか。何十年先でないと因果関係はわからないという。それを待つのに30年・・。
廃炉。30年から40年。流れ出る汚染水。そのうち皆な慣れてくる。あっても当然だとして。
30年間の中間貯蔵施設。出来てしまえば皆慣れる。そこにあってあたり前の如くに。最終処分場、そんな話があったことは忘れる。
たとえ法律に何かが書かれたとしても、その時になれば「解釈」が変更され、そのままにされるのが関の山。
消費税増税を前にして、うまく口車に乗せられて人たちは買いまくる。家や車を。その人たちをテレビのワイドショーあたりでは「賢い消費者」と持ちあげて。
なにやらわからぬ診療報酬の改定。だれが得したのかも。
復興予算は大幅削減。予算つけても人や資材が足りず、使いきれないからがその理由。それはある意味“正論”かもしれないが、予算削減ということは、そこに目がいかない、手が届かないという心理的影響を与える。
人や資材が足りないと言いながら、国土強靭化法なるものが出来、国土をコンクリートで固めようとしている。たぶん自然は怒っているのではないだろうか。
津波を防ぐために巨大な10メートルを超える防潮堤工事や、その計画は進められる。そういうところには復興予算が充当される。
高台移転や避難道路の拡充、避難所の建設にカネを回す方が利口だと中高生までが言っているというのに。
海が見えない、猟師町。それって有りなんだろうか。
防潮堤8メートルにしない原発は認められないと規制委。防潮堤が守れるって保証はどこにもないのに。囲う事を辞めるほうが利口だと思うけど。
で、結局は予算編成、すべてが“利権”の道に通ず。圧力団体に支援されて、いわゆる族議員。跋扈、跋扈。いかにぶんどるかが自分が生き残れるかどうかの分かれ道。
膨大な借金、返すあての無い借金。
普通の家なら「夜逃げ」だぜ。
大体ね、30年後には日本の人口は激減しているはず。いくら税金上げてもおっつかないんだぜ。収める人口がないんだから。
今がよければすべてよし。なんだろうね。
30年先を見据えた、想像力を働かせた政治家なんてもう望めないようだし。
目出度さも中くらいなりおらが国。そんな戯言も成り立つはずも無く。
譬えは悪いが・・・
ある人が背に腹かえられず借金をする。年末までに返さなければと思いつつ、年を越す。借金取りは追いかけてこない。また借金をする。どんどん膨らんでいく。そのうち借金していることに慣れてしまって、返そうとする意欲すら失う。「借金も財産のうちさ」とうそぶいて。
公金横領に手を出す。最初は穴埋めしようと思っている。でもバレない。また公金に手を付ける。バレない。びくびくしながらもそれに慣れてくる。感覚がマヒしてくる。そして気が付いた時にはとてもじゃないが、返済、穴埋め不能。やがてその“事実”すら忘れそうになる。
30年をはるかに越える前。この国の財政が、予算が、借金に頼らざるを得ず、赤字国債、建設国債を発行するに至った時、国会はそれを巡って喧々諤々の議論が交わされていた。政府だって国債発行、借金することをかなり逡巡していた。
今は借金は当たり前。借金棚上げ、さらに上積み。出来た予算は96兆円。予算の4分の一が借金だ。その借金は誰が弁済する・・・。後代だ。先送り、つけ・・・。
原発事故による被ばく。その影響があるのかどうか。何十年先でないと因果関係はわからないという。それを待つのに30年・・。
廃炉。30年から40年。流れ出る汚染水。そのうち皆な慣れてくる。あっても当然だとして。
30年間の中間貯蔵施設。出来てしまえば皆慣れる。そこにあってあたり前の如くに。最終処分場、そんな話があったことは忘れる。
たとえ法律に何かが書かれたとしても、その時になれば「解釈」が変更され、そのままにされるのが関の山。
消費税増税を前にして、うまく口車に乗せられて人たちは買いまくる。家や車を。その人たちをテレビのワイドショーあたりでは「賢い消費者」と持ちあげて。
なにやらわからぬ診療報酬の改定。だれが得したのかも。
復興予算は大幅削減。予算つけても人や資材が足りず、使いきれないからがその理由。それはある意味“正論”かもしれないが、予算削減ということは、そこに目がいかない、手が届かないという心理的影響を与える。
人や資材が足りないと言いながら、国土強靭化法なるものが出来、国土をコンクリートで固めようとしている。たぶん自然は怒っているのではないだろうか。
津波を防ぐために巨大な10メートルを超える防潮堤工事や、その計画は進められる。そういうところには復興予算が充当される。
高台移転や避難道路の拡充、避難所の建設にカネを回す方が利口だと中高生までが言っているというのに。
海が見えない、猟師町。それって有りなんだろうか。
防潮堤8メートルにしない原発は認められないと規制委。防潮堤が守れるって保証はどこにもないのに。囲う事を辞めるほうが利口だと思うけど。
で、結局は予算編成、すべてが“利権”の道に通ず。圧力団体に支援されて、いわゆる族議員。跋扈、跋扈。いかにぶんどるかが自分が生き残れるかどうかの分かれ道。
膨大な借金、返すあての無い借金。
普通の家なら「夜逃げ」だぜ。
大体ね、30年後には日本の人口は激減しているはず。いくら税金上げてもおっつかないんだぜ。収める人口がないんだから。
今がよければすべてよし。なんだろうね。
30年先を見据えた、想像力を働かせた政治家なんてもう望めないようだし。
目出度さも中くらいなりおらが国。そんな戯言も成り立つはずも無く。
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