2013年12月26日木曜日

「人類は消費社会にコントロールされている」

見せ掛けかどうかはともかく、日本経済は成長を取り戻しているようだ。
株価は上がり、少なからぬ人が、景気は回復していると実感しているともいう。
物が売れ始めているという。消費が拡大されているという。

この国の財政が破たん寸前にあるかどうか、借金がどうなるかと言った議論は置いておいて。

「私たちは間違いなく無限の消費と発展を求める社会をつくってきた。マーケット経済がマーケット社会をつくり、グローバリゼーションが世界のあちこちで、原材料を探し求める社会にした。
人類はこの消費社会にコントロールされている。
昔、古代の民族はこんなことを言っている。“貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人では無く、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ”と。
発展は幸福を阻害するものであってはいけない。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはならない。愛情や人間関係、子供を育てること、友達を持つこと、そして、必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのだ。幸福が私たちのもっとも大切なものだからだ」。

ウルグアイという人口300万人ほどの小国の大統領が去年の地球サミットで述べたこと。

今年、一時全村避難していた福島県の川内村の遠藤村長はこう言っていた。

「我々は便利な生活に慣れきっている。もはや電気の無い生活なんてありえない。それは意味をなさない言葉だ。あまりにも非現実的である。しかし、ちょっと考え、一歩踏みとどまれば、自然の美しさ、有難さと、科学文明、物質文明との関わり合いが見えてくるのではないか。
限りなく利便性を求めるのではなく、どこかでライフスタイルを変えることを考えなくては」。

重なり合うものを感じる。

資源を大切に、物を大切にと言いながら、消費は美徳であるといわんばかりに、使い捨て文化をよしとする社会。次々と新しいものを作り、売らなければ成り立たない経済システム。失われていく環境、資源・・・。
増えるローン、労働時間。一部の富裕層、広がる格差。

こんな社会システムを考え直す時。

年末。歳末商戦たけなわ。あきらかに一昨年の年末とは違う光景、風景。いったい何を求めているのだろうかとも。

こんなことを書いている時、飛び込んで来たニュース。安倍の靖国参拝。絶句する。
参拝をされていない天皇陛下はどう思われているのだろうか。

そして当然予想される中国、韓国の反発。理解を求めていきたいと安倍は言う。秘密保護法の時も、説明が足りなかったと反省していると言った。

既成事実を作った上での反省とか理解とか。

昨日沖縄をめぐる問題に一区切りが付いた。それもきょうの参拝のきっかけになっているのかもしれない。
中国や韓国だけではない。アメリカだって安倍の“暴走”を懸念している。

もしかしたら、“国際社会”の中で、日本という国は孤立化を深めていくのかもしれない。アメリカはもはや日本にさほど眼が向いていない。中国だ。

そして、前段に重ねれば、靖国に眠るとされる英霊は、はたして、今のこの国の有り様、消費社会にコントロールされている国をみて、そんな国を目指してまい進しているような安倍の参拝をこころよく受け入れているのだろうか。

“英霊”が殉じた国は、決してこんな姿の祖国ではなかったのだろうと思うから。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...