2013年12月13日金曜日

「公明党」、「創価学会」のこと。

公明党の母体は、いわずもがな創価学会である。
創価学会。1950年代か、その「猛攻」はすざまじかった。我が家は浄土真宗だった。仏壇には阿弥陀さまがかざられていた。
その阿弥陀さまが、いつの頃か、日蓮正宗の“曼荼羅”に変えられていた。

その頃、創価学会の、共産党で言う「オルグ」、学会の「折伏」、それはそれは大変なものだった。正確に言えば「らしい」。僕はその標的にされていなかったから。
横線、縦線と言われていた。縦線は親類縁者。横線はご近所。どうも母親はその横線で、近所の友達の強引な勧誘によって“会員”になったらしい。でも熱心な会員では無かった。家で大声でお題目を唱えているところは記憶に無いから。

戸田城聖という名前の本があった。百蓮華といったか、機関誌みたいなものが運び込まれていた記憶。

折伏と言うある意味強引な言葉が嫌いだった。でも、その創価学会と言うものが何かを知りたくて、子供ながらの「研究」。そして知った創立者の、それは哲学者として、哲学の一つの帰結である宗教者としての、反権力。
治安維持法での検挙、獄死。レジスタンス性を感じた。

そして、池田大作へと続く「創価学会」なるものとの違和感を。

折伏した“友達”とは、なんでかわからぬが喧嘩別れし、その他の近所の人の「攻勢」もあったが、仏壇はいつの間にか元の阿弥陀様に戻っていた。

日蓮正宗、身延山の大石寺。そこを中心に繰り広げられた宗門内の権力闘争。池田がそのトップの座をうかがい、日顕猊下という“法主”との争い。池田創価学会は“破門”のような形になり、池田教とも言うべき学会が出来、今も、その影響下にあるのだろう。池田の顔は見ていないが。

名誉会長と呼ばれる池田は、今でも“信仰”の対象らしい。

牧口の「思想」は無くなっていったようにも思えていた。

国会に出入りするようになってすぐ、公明政治連盟、公明クラブというのが出来、参院議員が生まれた。中道を名乗る政党として、選挙のたびに議席を得、衆院にも進出。“野党”としての地歩を築いて行った。

言論出版妨害事件というのがあった。昭和45年頃か。政治評論家の藤原弘達が書いた「創価学会を切る」という本の出版を巡っての裁判。
公明党の依頼で、出版取りやめに動いたのは田中角栄。

結果、田中角栄と公明党との間に「密接な関係」が生まれた。

公明党はなぜか中国と良好な関係にあった。田中内閣成立後の日中国交回復。その下ごしらえをしたのは竹入公明党だった。

田中が当時「自公連立」を予測していたかどうかは定かではないが、中道として、野党にあった公明党は、その“平和主義”を、その看板を下ろすことなく、その存在感を維持していたが。

恵比寿にあった竹入邸。夜、そこに入る自民党の最高幹部の一人。そんな光景もあったよな・・・・。

いつの間にか竹入も矢野純也も“失脚”していった。いや、させられた。

自公連立。政権入り。権力の甘い汁を吸った公明党は、断固その位置にとどまる。そこには牧口の“苦悩”の歴史は無いものとされた如くに。

福島に来てから、そのきっかけはよく覚えていないが、創価学会の幹部と知り合い、“政局”の講演を頼まれた。数回。創価学会文化会館で。平和文化会館と言われていたかもしれない。
「池田大作の事は悪く言うかもしれないよ。それでも良ければ」。それがボクの条件。なんとそれを受け入れてくれていた。

その時使った川柳。「出て壊し、入って壊す小沢流」。公明党代議士の神崎武則の作だったと思う。
そして六無斉の歌。「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」。林子平の別称、六無斉。版木とは、幕府に没収された、彼が書き溜めた本の原板。

東日本大震災。その被災者支援に学会員は、「横線」をもとに活躍していたと聞く。目立たぬ地道な支援をしていたとも聞く。

そして国会ではあの法案に賛成する。原発反対と言ってもよさそうな団体であるのもかかわらず声を上げない。

なんか不思議な宗教団体であり、政党なんだよな・・・。

税制改正大綱が決まった。公明党はかねがね「軽減税率」の適用を言っていた。それも消えてしまいそうだ。自民にまた“寄り切られる”。それでもいいのかなとも。

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