2013年12月28日土曜日

それも一つの区切りなのだが・・・

先日書いた「最後の避難所」。双葉町の人たちが住んでいた埼玉県加須市の旧騎西高校にあった避難所がきのう閉鎖された。
最後まで残っていた人は3人だったとか。

当初は1,400人。町民の5分の1が暮らしていた場所。町役場も同居していたが、それもいわき市に移転。それを機に“住民”は減った。
日本の災害史上、最長となった避難所。

「最後の避難所」。そういうタイトルの番組をNHKはやるべきだと書いた。期せずして昨夜、同名の番組をやっていた。番組の最後に「近く閉鎖される」と紹介されていたが。

「一つ屋根の下」で暮らしていた人たちは、それぞれ、個々の生活の場を求めて去っていった。

「これまでは町役場と一緒に行動してきた。もう、これからは別にする」。残った高齢者の人がそう言っていた。避難所の近くのアパートで独り暮らしをはじめるという。たし

か88歳となっていたと思う。

去って行く人、見送る人。「どこかでまたきっと会えるさ」。そうそれぞれが言い交わして。

福島に戻ることを断念した人も多かった。思いを断ち切り、新生活に向かわねばならない。必死に賃貸物件を探している光景。

“集団”から“個々”への転換。

加須市に新居を見つけた人は住民票を移すのだろうか。現住所だけにとどめるのか。

残っていた高齢者は、やはり医療施設がある加須を選んだようだ。

町は、移った“個々”にどう対応するのだろう・・・。

一眼レフのカメラを常に携行し、双葉町を撮りつづけ、避難所の日常を撮り続けていた84歳のご婦人。加須でのアパート暮らしを選択した。加須を撮り続けると言う。

校舎に一礼して去っていく人もあった。いわきナンバーで、高齢者マークを付けた軽トラックが去っていく後姿。

最後の避難所の閉鎖。それは一つの区切りなのだろうか。そこから出て行った人の今後を新しい生活のスタートと呼べるのだろうか。

「原発さえ無ければ・・・」。発せられる言葉は、やはり重い。

「その後・・・」をやはりテレビは追い続けなければならないと思う。昨夜の番組に出ていた全ての人の「その後」を教えて欲しいと思う。


沖縄の普天間基地移設問題でも、一つの結論が出された。辺野古の埋め立て。併せて普天間の基地機能を5年後に停止。

それも「一つの区切り」と言えるのだろうか。言えないと思う。

5年後の“普天間停止”。アメリカがその交渉に乗るのか。そんな保証はどこにも無い。知事と首相の間で交わされて「手形」の交換。空手形になる可能性も否定できない。

一年間に3000億円の沖縄振興費。それは空手形ではなかろう。


現実を見据えた上での現実的な“解決“策だったのかもしれない。しかし、県外移転という“理想”とは大きくかけ離れている。

普天間の在り様は多少は変わっても、米軍沖縄基地、それは“固定化”を逃れることは出来ない。

国際情勢も含め、驚天動地のような事態の展開が無い限り。

“痛みを分かち合う”。言葉としてはそれは在り得る。しかし、事実として現実として、分かち合いは無い。


福島に作られる“中間貯蔵施設”。それも固定化となるであろうことは想像に難くない。

“沖縄”と“福島”。その犠牲の上に立ってこの国は成り立っている。沖縄の苦悩、沖縄にある人間模様のさまざま。それは、いま、まさに福島が味わっていることと同じよう

な。カネが絡む全てのことどもを巻き込んで。

騎西高校の校舎の脇に花壇を作り、毎日水をやり育てていた人がいた。引っ越した県営住宅でも、入口の脇に小さなプランターを置き、花を植えていた。

だから何かを言いたいということではなく、どこにあても「小さな人の営み」があるということ・・・。

“チェルノブイリ”異聞

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