2013年12月30日月曜日

AKB48に見る“同調”

どうも年末のテレビ欄を見ていると、やはり今年もAKB48という若い女性のユニットが“主役”のようだ。NHKを筆頭に。
明日の紅白でも“活躍”するらしい。


このユニット、それに類似するユニットは全国に広がっているとか。なぜ、いわゆる「ブーレーク」をして一世風靡しているのか。
未だに理解出来ないままなのだ。

決して悪口を言おうとしているわけではない。が、なぜ彼女たちが受けるのか。その世上を考えてしまうのだ。秋元康というプロデューサーが作り出したものだとしても。

秋葉原というところはボクにとっては電気街。無線街。狭い路地の中に入り、なにやらラジオを組み立てる部品を買っていたところというイメージ。
いつの間にかオタクと呼ばれる人たちが生まれ、メイド喫茶なるものが生まれ、サブカルチャーという言葉が生まれ、わずかな電車賃を親から貰い、路地に出かけていたあの頃のこどもには縁遠い街となってしまった。

単なる郷愁・・・。

きのう、終わりの始まりという言葉を使った。
それは一つの時代が終わり、一つの時代が始まるという意味でも。

AKB48というグループが誕生し、多くのフアンを勝ち得、歌謡界を席巻する。いや、時代の象徴ともされる。
何かが終わり、何かが始まっていたのか。

その兆しはモーニング娘というグループが大流行をしていたこととつながるような気がするのだ。

同じような顔立ちをして、同じ衣装を着て、同じ振付をして、もちろん、個々の“役割”は違っているのだろうが、歌は全部「ユニゾン」。

日本の歌謡界というか、ポピュラー界というか、ザ・ピーナッツという双子の歌手が3度のハーモニーで登場した時は衝撃的だった。ある種の「革命」だったような。
そしてアリスの登場。いや、フォークのグループでもあったか。二人以上で歌う時は、聞かせるハーモニー。

同じメロディーを多数が歌う。なんか違うんだな。

で、モー娘も、AKBも、その歌から、姿から感じるのは、ユニゾンから感じるのは「同調」。
ハーモニーをなんていう日本語にすればいいのか。通常ある言葉では「調和」。

歌は時代を反映するという。流行り歌とはそれこそ流行り歌。時代の反映。

歌の有り様が、世間の有り様に重なってきたり。

いつの間にか、「同調」がこの国の姿の一つなのかとも。

街を歩いていると出会うのは、皆一様な格好、化粧。男とて、サラリーマンの制服は皆黒色。

区別が付かないかのような人々の行き交い。「個」が見えないんだな。見えないからみな「個」を求める。「個」を口にする。

AKBのメンバーには被災した娘もいる。家を流されたはず。あの震災を体験している。
そして一昨年、彼女たちは被災地支援にかけつけていた。避難所や仮設の人達は喜んで彼女たちを迎えた。励ましを受けた。

テレビで見たことだけしかないタレントがそこにいる。それは突然に襲ってきた非日常を埋めるにいささかは足りる別の非日常だったのかも。

「3.11」を挟んで、この国には「同調圧力」とか「同調行動」「同調意識」という表現が目立つようになった。

皆の中に身を置くことの安堵感。皆の側に付くことの安心感。皆と同じだったら何も恥ずかしいことも、とやかく言われることもない。

AKBがそうだと言うのではない。彼女たちの意志とは無関係に、彼女たちがスターで居る限り、トップの座を占めている限り、そこに「同調」が見えてしまうということだけ。

漠然とした言い方だけど、彼女たちが僕にはワカンナイ。その歌を聞いていても、何も楽しくも嬉しくも無い。
だから余計に歌のこと、音楽のことを考え、時代と無理やり結びつけようとしているのかもしれない。

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